任務 諜報員、ソルトレイの話
「二年間のサジ様付き任務を命ずる」
上官からの命令です。 拒否する事など考えられません。 ですが、この任務が見た目程簡単ではないという事は最初から覚悟していました。 こう見えても私は十歳の時から特訓を受け、十三の時からヴィジャヤン伯爵家諜報部「皇国の耳」のために諜報活動して十一年目の諜報員です。 ベテランとまでは言いませんが、昨日や今日生まれたひよこではありません。
末端の諜報員である私が「皇国の耳」の全容を知る事はなくとも優秀な女性諜報員が他にもいる事は知っています。 この任務に私が選ばれたのは、おそらく医学の心得が少々あったからでしょう。 サジ様が南で医師の仕事に就かれた時、私はその病院の看護婦として雇われました。
諜報員は伯爵家の御家族皆様の事をよく存じ上げておりますが、私達は皆様に顔を知られている訳ではありません。 ただ私は過去に携わった仕事の関係で、お人柄に触れる機会が多々ありました。 皆様、貴族らしからぬ気さくな御気性で努力家。 尊敬に値する御方揃いでいらっしゃいます。
中でもサジ様は女性にとって非常に抗い難い魅力を持つ御方と申せましょう。 それを知っていたので三年前、私の後輩にあたるトチアーサが医学校の女性事務員として任務に就いた時警告したのです。 サジ様に心を奪われないよう気を付けなさい、と。
老婆心からの警告でしたが。 効果はなかったようです。 トチアーサは若いだけにそのような私事混同など起こり得ない、という驕りもあったのでしょう。
医学校での三年の任務を終えた時、トチアーサは退職届を提出し「皇国の耳」から去りました。 彼女は非常に期待出来る諜報員であっただけに残念です。
勿論、これがサジ様のせいと申し上げているのではありません。 優しい微笑みを世界中に振りまく事の何がいけないのでしょう? 又、サジ様の名誉のためにも申し上げておかねばなりませんが、女性の体目当てに意図してやっている事ではございません。 同じ微笑みが老若男女全てに向けられている事は注意して見れば簡単に分かる事なのです。
けれど一度あの視線には自分への特別な思いが込められていると誤解してしまうと、その想いに水を差すのは難しいもの。 サジ様が御結婚なされば別ですが、独身の素晴らしい男性を簡単に思いきれるものではありません。
ほとんどの女性は甘酸っぱい気持ちを抱いても告白する前にサジ様の事を高嶺の花と思って諦めます。 だめもとで告白する勇気のある女性も偶にはおりますが、やんわり断られてはそれ以上押せませんし。 皆、胸の中の小箱にきれいな思い出を仕舞って終わり、となるのですが。 トチアーサの場合終わりには出来なかったようで。
因みに、サジ様には警護兼従者である者が既に二人程付いております。 それに加えて女性が監視役として付いているのは、サジ様が思慮のない女性関係を持たれる事を危惧しての事ではありません。 御次男の御身を守る者が複数いるのは当家に限った事ではなく、御長男が無事爵位を継承されようと、お子様がお生まれになり、そのお子様が爵位を継げる御方であると確認されるまで続くのが普通です。
ただ私の任務は当初二年と決められていました。 ところがサジ様が勤務を始められた翌月、御三男であるサダ様が六頭殺しの若として皇国中に勇名を馳せるという偉業を成し遂げられ、それで私の任務内容が変わったのです。
サジ様の出自は病院長と事務局長しか知りませんでしたが、仮に知れたとしてもヴィジャヤン伯爵家が無名であったのなら特に問題はありませんでした。 民間で働く無許可の医師なら別ですが、病院勤務医師ともなれば三年間の学業を終えた後、試験があります。 そもそも学校に入るのも安い授業料ではないのですから貴族か裕福な平民の家でなければ入学など出来ません。
つまりサジ様が何も言わなくても医師である以上、貴族かそれに準ずる家庭の出身である事は誰もが想像する事。 貴族の子弟ならいくらでもいるのですから、それだけでは騒がれる事にはなりません。 しかし六頭殺しの若の兄は、この世にお二方しかおらず、秋には御長男のサガ様がヘルセス公爵令嬢ライ様と御結婚なさいました。 すると残る独身の兄上はサジ様のみ。 この事実が世間に知られれば騒ぐなと言った所で無駄でしょう。
更に翌年、皇太子殿下暗殺未遂事件に於いて刺客を仕留めた功により、サダ様は小隊長へと昇進なさいました。 大功を上げた事により逆恨みされ、お命を狙われぬものでもないという状況になっただけでなく、我らが「皇国の耳」の首領が皇太子殿下付き御相談役に就任され、政治的にも大変難しいお立場となられたのです。
万が一この情報が洩れたら護衛が二、三人いた所でどうしようもない事は明白。 サジ様の身元が知られた場合、迅速に安全な場所へとお移し申し上げねばなりません。 そういう訳でサジ様の周辺を探る者がいないか、常に確認しておく事が必要不可欠になったのです。 その追加任務の為、私は二年が過ぎた後でもサジ様のお側にいる事になりました。
そして瑞鳥飛来の後、とうとうサジ様の周辺を探る者が現れたのです。 相当な訓練を受けた者らしく、どこから派遣された者なのかこちらに掴ませません。 私は直ちにこれ以上医師として勤務を継続なさるのは危険です、とサジ様に御報告申し上げました。
転居の手続きを始めた所でサジ様の母方祖母である先代ジョシ子爵夫人がお亡くなりになったという知らせが届き、サジ様は東へと旅立たれました。 そこから皇都へと御出発になり、そこで御婚約が調い、南にはお戻りになられないとの事。 こうして三年に渡る私の任務は終わりを告げたのです。
皇都に戻ると、準公爵となられた首領より直々に労いのお言葉を戴くという栄誉を賜りました。
「ソルトレイ。 其方の次の任務だが、その前にまず聞いておきたい。 其方に結婚退職する予定はあるか? 或いは退職せぬまでも結婚したい相手がいる、又は近い将来結婚したい希望がある場合、それを考慮した任務を選ぼう。 今すぐ返事をする必要はない。 まだ気持ちが定まらないなら定まった時に言ってくれればよい」
「結婚の予定、相手、意志、希望のいずれもありません。 次はどのような任務となるのか、今お伺いしたいと存じます」
「伴侶を選ぶのは男にとっても人生の一大事だが、女性にとっては尚の事。 結婚によって人生が左右される事は多々ある。 それは苦難となり得るが同時に喜びを齎すものでもあるのだよ。 急いで答えを出そうとせず、ゆっくり考えるが良い」
「それでは明日御返答申し上げるという事で、よろしいでしょうか?」
「ソルトレイ。 私としても其方のような優秀な諜報員に結婚退職して欲しくはない。 しかし長年揺るぎなき忠誠と献身を捧げてくれた其方に、幸せを諦めてまで仕事を取るという選択をして欲しくもないのだ。 三十代の男性諜報員のほとんどは結婚し、幸せな家庭を築いてこの仕事をしている。 女性の場合どうしても二者択一になりがちなのは残念だが、組織がこれだけ拡大すれば内勤であろうとやりがいのない仕事という訳ではなかろう」
「もちろん内勤であろうと任務は任務です。 それが御命令とあれば従いますが、結婚を考える相手がいないのは嘘ではありません。 私は生涯独身である事を選択致しました。 それは内勤外勤、任務の如何に無関係とお考え下さい」
首領は少し考えられたようですが、私の決意が固い事を見て次の様におっしゃいました。
「其方に結婚の意志がないのなら、どこの国かはまだ言えぬが、任地は外国となる。 今、皇国の耳には私の後継候補が五人いる。 其方はその中の一人だ。 この五人には全員外国での任務を経験してもらう。 その結果により五年後、誰を後継に選ぶかを決定するつもりだ」
これにはさすがの私も驚きました。 女性諜報員の重要性が男性に比べて劣るとは思いませんが、上官という立場の女性がいるとは聞いておりません。 私自身、自分は「平の情報員」と考えていたのです。 それがいきなり「皇国の耳」を継ぐ候補?
残る四人が誰かは知りませんが、五年間の国外勤務となれば、ヴィジャヤン伯爵であるサガ様がその四人の中に含まれているはずはありません。 サガ様は今までも「皇国の耳」の仕事に直接関わってはいらっしゃいませんが、皇国情報伝達部にお勤めですし、私は漠然と、いつかサガ様が継がれるのだろうと考えておりました。
「それは大変な名誉であり、喜ばしい事ですが。 何故私が候補として選ばれたのかお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「見習いの時の三年を含めれば、そなたが諜報員を勤めて十七年になる。 その間候補となるだけの成果を出したとは思わないのかね? 特にそなたの活躍がなければカイザーの手紙をデュガンから取り戻す事は不可能であった」
「運もございました。 それに難しい任務に成功した経験があるのは私だけではないはずです」
「私が高く評価したのは其方の自らを含めた冷静な状況判断能力だ。 いかなる時であろうと過大評価する事がない。 年を追う毎に皇国の耳は成長拡大し、今では諜報員の数も千を越える。 この組織を管理する上で、それは最も必要な能力とさえ言える」
「お言葉は大変嬉しいのですが、少々買いかぶりか、と」
「ダーラケイザの件を気にしているのかね」
気にしていませんと言う言葉が即座に出なかったのは気にしていたからでしょう。 自分ではそれ程とは気付いておりませんでしたが。
ダーラケイザは私と同じ任務で派遣された同僚です。 同僚とは言っても私より五歳年下でしたし、先輩として彼女の教育担当をした事もあり、上官ではないものの立場としては私の方が上でした。
始まりは他愛もない事でした。
「トメ、どこかいい短パンを売っている店を知らないかい?」
サダ様に頼まれたとおっしゃって、サジ様は短パンをお探しでした。 私から聞いた店に侍従を遣わし、買わせれば済むものを、サジ様は自ら店に出向かれてお選びになったのです。 その時私はサジ様に乞われ、一緒に短パンを選ぶお手伝いをしました。
買い物の後、お茶を御馳走になり、サジ様より沢山の女性から次々と想いを告げられ困っている、との御相談を受けました。 それで断る時に、私の名前をお使い下さい、と申し出たのです。
それ以来、サジ様は全て私と先約があるとおっしゃって他の女性からのお誘いをお断りになり始めました。 これは単にそうした方がサジ様にとって御面倒がなかったからに過ぎません。 しかし嫉妬にかられたダーラケイザは私がサジ様を誘惑しようとしていると報告しました。 その報告の真偽が問われ、ダーラケイザは退職したのです。
人を愛するな、と言うつもりはありません。 けれど正確が何より要求される仕事で嘘の報告をするようでは諜報員としては失格です。 それは私がダーラケイザの先輩としてすべきだった指導に失敗した、という事でもあります。
「ソルトレイ。 組織が大きくなればなるほど上に立つ者には決断力が要求される。 だが決断前に懐疑を持たぬ者は持つ者より大きく間違える。 間違いは常にあり、それは人である以上なくす事は出来ない。 私達に出来るのは、その間違いから引き起こされる被害を可能な限り少なくする努力のみ。 その際、懐疑の目で己を見る事が出来るそなたの思慮深さに助けられる事も多かろう。 皇国の耳はそなたの貢献に大いに期待している」
望外のお言葉に深く感謝し、赴任先が分かり次第、出発すると申し上げました。 首領のお言葉に相応しい結果が齎せるかどうかは分かりません。 けれど挑戦してみる価値はあります。 「皇国の耳」の頂点に立ちたいからではありません。 私の努力は直接ではなくともサジ様のお役に立つはずだからです。
そうです。 私に結婚する気がないのは結婚したい相手がいないからではありません。 その相手がサジ様だからです。
サジ様は子供の頃から不安と懐疑の塊だった私の胸から、それらを消し去るという魔法をお使いになりました。 不安の代わりにサジ様のお側で過ごした三年の月日が貴重な安らぎの思い出となって残っております。 これから歩む道がどれ程困難なものであろうとも、それらの思い出は私を温かく包んでくれるでしょう。
そういう意味で考えるならサジ様付きとして過ごした三年は私にとって天から下された恩寵とも言うべきもの。 今後どのような任務であろうと困難を感じる事はないでしょう。
サジ様の誘惑。 あれに抗う難しさに比べれば任務を遂行するなど簡単な事です。
「トメ。 マグノリアの咲く庭で、私と毎朝一緒にお茶を飲む気はないかい?」
そのお誘いがどれほど嬉しかったか。 言葉で語り尽くせるものではありません。 けれどそうおっしゃって微笑まれるサジ様に、喜んで、と返す事だけはしてはならない。 そう自分に固く言い聞かせました。
なぜならサジ様にとって私は愛する人ではありません。 同郷の気軽な会話を楽しめる仕事仲間でしかない事はよく分かっていたのです。 それを弁えたお付き合いなら、と偶の夕べにお茶へのお誘いならお受けしておりましたが。 泊まる事だけは一度もありませんでした。
お優しいサジ様の事。 私が結婚して欲しいとお願い申し上げれば結婚して下さったかと存じます。 けれど妻として生涯を共にする道を選べば、サジ様が私を見る目と他の女性を見る目の間に何の違いもない事が、いずれ嫉妬となって私を蝕んだ事でしょう。
サジ様に向かって私だけを見て欲しいと願うのは、太陽に向かって私だけを照らして欲しいと願う様なもの。 とは言え、誰にとっても太陽が必要なのは言うまでもなく。 又、太陽が自分だけのものにならなかったと悲しむ人もいないでしょう。
離れていても胸が温まる日差し。 そのような御方に出会えた事は私の人生最大の幸せと思っております。




