大家 リッテルの妻、チハの話
「あら、随分いい酒飲んでるじゃない」
そう言いながらガスが飲んでいる酒瓶に手を伸ばしたら、その手をぴしっと叩かれた。
「いたっ! なにすんの!」
「お前が飲んでいい酒じゃねえ」
「なんだい、ケチだねえ」
「ケチで結構」
ふくれっ面をして見せたけど、あたしは別に酒好きって訳じゃない。 一人で大事に飲みたいって言うなら好きにすりゃいいけどさ。
それにしても金はあるけど、酒なんかに遣った事はない人なのに。 こんな高い酒、一体どうしたんだろ?
「ひと山当てたのかい?」
「似た様なもんかもな」
「へえ、すると若様繋がりってとこ?」
ぎろっとあたしを睨んで返事をしない。 ずばりご名答って訳ね。
ふん、なによ。 しゃべった所で減るもんじゃあるまいし。 何を後生大事にだんまりを決め込んでんだか。
もっとも今までだってこの人が家で仕事の話をした事なんて一度もないんだけどさ。 六頭殺しの若様の部隊に入った、て話だって、この人の口から聞いたんじゃないんだよ。 なんと洗濯場の噂話で知ったんだから。 世間の皆さんがとっくに御存知の事まで、なんで一緒に暮らしているあたしに隠さなきゃなんないの? ばかばかしいったらありゃしない。
あんなすごい御方の部下だなんて。 誰だってびっくりするでしょ。 勿論あたしだってびっくりした。 出世も出世、大出世じゃないの。
そう自慢したいのは山々だけど、妻のくせに亭主の上官の名前も知らなかっただなんて恥ずかしくって言えやしない。 だから若様の部下として有名なリッテル軍曹があたしの宿六だなんて御近所さんも知らないんだよね。
それに若様がどんな御方か、この人が話してくれた事なんて一度もない。 そんなんじゃ何を聞かれたって答えられないでしょ。 リッテルはリッテルでも同姓の別人なんじゃないの、ほんとに部下ならその証拠を見せてよ、て言われたらどうすりゃいいの?
そんなものなんか一つもありゃしない。 あたしだってその次の年、この人が若様の執事って御方と一緒に家探ししてる所を仕事帰りに見るまで半信半疑だったくらいなんだから。
この人に、若様の部下って証明できるもんとかないの、て聞いたって無駄。 ふざけんじゃねえ、でおしまい。
まったく、あたしをなんだと思ってるんだか。 そりゃ籍は入れてないけど、一緒に暮らして何年経つと思う? もう二十年よ。 あたしも大概呑気で、妹のチカに言われるまで気付かなかったんだけどね。
だからあたしの姓は未だにニュエン。 この家の表札もそう。 但し、家はこの人の持ち家。 つまり元々はあたしの大家だった、て訳。
こんな下町で御近所さんに亭主の自慢したって始まらないから、そっちの方はどうでもいいんだけど。 この人が若様の部下だって事は妹のチカにも言ってない。 チカって若様の大ファンなんだよね。 憧れの君っていうの?
字が読めないくせに「貴婦人の友」なんて高級なもん買ってさ。 付録が目当てとはいっても付録だけを買う訳にはいかないんだからしょうがないけど。
売る方も商売がうまいよ。 今年なんかカレンダーとポスター、それぞれ別売してさ。 しかも本と抱き合わせの時と同じ値段なんだよ。 単体売りのやつは付録だった時よりずっと大きかったけど。 どっちも買えば二倍払わされる、て訳。
チカったら、なけなしのへそくりはたいてそんなもん買っちゃって。 涙ぐましいったらない。 もしこの人が若様の部下だって知ったら、絶対サインをくれとかなんとか頼み込んで来るに決まってる。 でもそんなのお願いしたって貰って来てくれるとは、ちょっと思えないんだよね。 一応チカは義理の妹、て事になるのにさ。
それでなくたってチカがこの人を呼ぶ時は「あの大家」だもんね。 間違っても兄さんとか呼んだりしない。 そんな二人の間に入って、あたしがどんな苦労すると思う?
要するに、あたしがただの都合のいい女で妻じゃないからでしょ、て言われるかもしれないけど。 長い間一緒に暮らしていれば都合のいい事ばっかじゃないよ。 病気した事だってあるし、怪我した事もある。 そんな時、この人はちゃんとあたしの面倒を見てくれた。 お互い様って事で、この人が病気した時はあたしが看病してあげたしね。
第一あたしだっていつまでも十八じゃあるまいし、若い女の方がいいならとっくに他に乗り換えているじゃないさ。 愛想はないけど、まあまあいけてる顔だし、なんてったって金があるんだもの。
まあ、小金を貯め込んでいる、ていうのは単なるあたしの勘だけど。 間違いないよ。 ここの他にも何軒か貸家を持っているんだから。 その家の修理に大工を雇ったり、近所の揉め事の仲裁やったり、間借り人に金を貸したりしてるのを見たりしてる。
それに家賃収入がなくたって軍曹の給金がありゃ、ここよりよっぽどましな所に住めるはずでしょ。 金の無駄遣いこそしないけど、欲しい物を我慢してまで金を貯めるって人でもないしね。 使う所には使う、て言うか。
だからここに入り浸っているって事は、妻と思ってるかどうかは知らないけど、あたしを気に入っているからでしょ。 とは言っても惚れられてるか、て聞かれりゃ、それはないね。
なにせ始まりが始まりだし。 今だから言うけど、家賃ただにしてやるから、やらせろって、こうよ。 正直ここに極まれりって言うか。 本音の塊って言うか。
そりゃあたしだってそれにうんと言った訳だけど。 こっちはせっぱつまってたんだからしょうがない。 とうちゃんが馬車の事故で死んじゃってさ。 その後かあちゃんが無理して働いたもんだから病気になっちゃって。 あたしと妹で一生懸命看病したけど、碌な薬が買えるじゃなし。 結局死んじゃったんだよね。
挙句に、その看病で何日も仕事を休んだもんだから奉公先からクビになっちまって。 家賃が払えなくなって貸間から追い出されちまった。 次を見つけようにも住み込みの奉公先なんてすぐに見つかる訳がない。
妹と二人で、ここまで来たらもう腹括るしかない。 明日からあたしが「雪まろげ」で客を取って金を稼ぐって、そんな話をしていた。 そしたら後ろであたし達の話を聞いていたらしくてさ。 この人がさっきの一言を言って寄越した、て訳。
ぱっと見た所、悪い男じゃなさそうだけど、人がいい、て感じはしなかった。 なのに今の今、会ったばかりで信用していいの? 迷った事は迷ったね。 本気で客を取ったら家賃程度の金はすぐ儲かるだろうし。
けどさ、あれって生き馬の目を抜く商売でしょ。 上客ばかりでもないと思うし。 あたしみたいな男を喜ばせるなんてやったことない素人がいきなり首突っ込んだって碌な事にならない、てのは分かりきってる。
男にもてるって顔でもないから、貢いでくれる男が現れるなんて望み薄だしね。 子供ができちゃってお産の時に死ぬとか。 死ななくてもその間は客が取れなくて借金こさえ、にっちもさっちもいかなくなったらどうすんの。 それに下手な客にぶちあたって殺されたらチカが天涯孤独になっちまう。 そんなんで死んだら、あの世であたしが親に叱られるじゃないか。 自分達はさっさと死んどいて何よって言い返してもいいけどさ。
それでこの人に言った訳。
「妹には絶対手を出さない、て約束してくれるんなら手を打つわ」
「いいぜ。 じゃあ部屋へ案内するから付いて来な」
で、その日の内にここに転がり込んで。 はっと気が付いたら二十年だもんね。 言いたかないけど、あたしの人生って勢いでうんと言ったら後が恐い、て事のいい見本みたいなもんよ。
とにかくここに落ち着いて間もなく、あたしに服屋の下働きの職が見つかってね。 家賃がただだから雀の涙の給金でも妹と二人、ちゃんと食べてこれた。 それは有り難いって思ってる。
最初の頃、この人はほんとにやるだけで、泊まらずにどっかへ帰ってた。 あたしがなべやら包丁やら揃えて御飯を家で作る様になってから寝泊まりするようになったんだよね。 別にあたしは料理がうまいって程でもないんだけどさ。 飯屋で手伝ってたことがあるから、そこそこのもんは作れる。
この人はシブチンだけど、払うものは払う人だし。 御飯を食べるようになってから三人分の食材を持って来てくれるようになった。 家賃をただにしてやってるんだから飯をただで食わせろ、とか言ったりしない。 おかげで食費も浮いて暮らしが随分楽になった。
ここに住んで三年して、十七になったチカにいい人ができてね。 その時はまだ大工の卵で大した稼ぎじゃなかったけど、まじめだって話だし、大工の棟梁って人が、空いてる離れに一緒に住めばいいと言ってくれたから、そっちに所帯を持った。
今じゃチカも三人の子持ち。 有難い事にみんな元気一杯のいい子でさ。 亭主も一人前の大工となってりっぱな家も建った。 あたしが心配する事なんて何もない。
下働きから売り子になって給金も増えたから、大したもんじゃないけど自分のお金もちょっとは貯まってる。 男付きじゃない家に住もうと思えば住めるんだけど、ずるずるこんな調子。
まあ、好きの惚れたのはないけど、他に誰かいるのかって言えばいないし。 チカに、あんな先行き見えない男より、ましな男は世の中いくらでもいるのよ、と心配されちゃったけどね。
いい人がいるんだけど、と紹介された事だって何回もあった。 結局あたしが煮え切らないものだから、どれもぽしゃって。 本気で好きになっていたら別だったと思うけど、今あるものを捨てても一緒になりたいくらいの男がいなくてさ。
子供が出来たらどうすんの、てチカに言われたけど、いつまで経っても出来なかったから余計結婚する気になれなかったのかもね。 男のせい、て事もあるんだってよ、とは言われたけど。 じゃあ、試してみるか、て気にもなれなくて。
この人もここに毎日来るようじゃ他に女がいる訳ない。 あたしと会う前に出来た子供がいる様子もないし。 あたしだけじゃなく、いつまで経っても誰とも結婚しようとしないんだよね。
他人の事を心配してる場合じゃないとは思ったけど、この人がそろそろ四十になるって時、結婚する気ないのって聞いた事がある。 ないって返事だった。 ちょっと驚いたのが、お前はどうなんだって聞き返された事。
「なによー、それ。 あたしに男でも作れ、て言いたいの?」
「ばか、そんなんじゃねえ。 お前が結婚したいなら、してもいいって話だ」
ちょっとやそっとの事には驚いた事なんてないあたしでも、これには魂消たね。 思わずこの人の顔を穴の開く程見ちゃった。 でも顔色はいつも通りだから、病気で死ぬ、て訳でもなさそう。 じゃあ、後残るっていったら。
「すごく危ない任務に決まって、死ぬかもしれない、とか?」
「お前な。 もしそうだとして、俺が死んだらどうしよう、とか思わねえのか?」
「そりゃそうなったらここの家賃払わされるな、とは思うけど。 こんだけ古けりゃ新しい大家だってぼる真似はしないでしょ」
あの人ったら、俺もつくづく物好きな野郎だぜ、とかぶつぶつ言い始めた。 一体何が言いたいんだか分かりゃしない。
よくよく考えてみりゃ、その話をしてからだって、もう五年も経っているんじゃないさ。 ほんと月日の経つのは早いったらないね。 この分だと何だかんだ言いながら死ぬまで付き合う事になったりして。 別にあたしはそれでも構わないよ。 だってさ、この人にくっ付いていたら、いつか若様にお会いする機会が来ないとも限らないじゃない。
「いやー、リッテルにこんなすばらしい奥さんがいたとは。 隠しておくなんてリッテルも意外に照れ屋だ」
なーんて言われたりして。 うふふ。
「あらー、それ程でもお。 若様ったら、ほんとにお上手」
とかさ、年甲斐もなく恥じらっちゃう訳。
でさ、でさ、お会いした記念に若様に色紙書いてもらったりして!
勿論、宛名付きでよ。 「チハ・ニュエンさん江」と入ってるやつ。 きゃっ。
それをここに飾ったら、もう誰にも疑われずに済むじゃないの。
そんなすごいものチカに見せたら、あっと言う間に「あの大家」が「あたしのおにいさま」になるんじゃない? あの子も現金だから。 あはは。
ま、夢よ、夢。
いいじゃない、夢見るくらい。 ただなんだから。




