詐称 ある兵士の話
その牛丼屋は第一駐屯地近辺にある飲屋街の中でもちょっと外れた、寂れたと言っていい一角にある。
その夜、私が食べに入ったのは偶々だ。 近くで揉め事があり、何とかケリを付けたはいいが、この時間に兵舎に帰っても食堂はとっくに閉まっている。 腹が減って、取りあえず何でも良いから食べて帰りたかった。 みすぼらしい店だがいい匂いがするからそんなにはずれでもないだろうと思ったのだ。
大きな店ではない。 入ってすぐ、正面の壁の一番目立つ所に飾ってある色紙に気付いた。 なんと「六頭殺しの若」の色紙が貼ってある。 声こそあげなかったが、思わず目を見張った。
食事時でもないのにそこそこ混んでいるから美味いのだろう。 しかしヴィジャヤン大隊長が新兵時代とは言え、こんな店(と言っては何だが、本当にしょぼい店なのだから仕方がない)に来ただなんて。 私でなくとも意外に思ったはずだ。
西からいらしたヴィジャヤン大隊長がこんな場末の店を御存知のはずはない。 誰かに連れて来られたのだろうが、六頭殺しを飯に連れて行くならもっとましな店が他にいくらでもあるのに。 何をけちっているんだか。 それでなくてもぱっとしない北軍の印象が増々悪くなるじゃないか。
私が御案内するとしたらソルダートッテンかギャルベズか。 パエルテッシュもいいな、と頭の中で上品で雰囲気の温かい店を思い浮かべた。
だがどんなにいい店に連れて行きたくとも、六頭殺しが新兵の頃ならともかく、大隊長に昇進された今では何の関係もない小隊長の私が御招待申し上げるなど叶わぬ夢だ。
六頭殺しを店に連れて来るという、そんな快挙を成し遂げたら、どの店からだって大いに感謝される。 ひょっとしたらそれから退官までずっとただで飲み食い出来たかもしれない。 それでなければ一生その店では割り引きをして貰えるとか。
もっとも見返りなんて何もなくていい。 たとえ一晩でもあの御方を御招待出来たら、と思わない奴はいないだろう。 六頭殺しと一緒に飯を食った事があるだなんて。 それだけでみんなに羨ましがられる。 特に御結婚なさってからはいつも真っ直ぐお帰りになり、滅多に外食なさらない。 夕食、いや、お昼でも、御一緒させて戴けるなら私の有り金全てを出したっていいのに。
誰が、いつ、ここに御案内したのか知らないが、本当に勿体ない事をする奴だ。
取りあえず腰掛けて牛丼大盛りを注文した。 それから色紙の近くに寄ってまじまじと見る。
「うまい牛丼だぜ
六頭殺しの若」
見れば見る程、何となく変だという感じがしてくる。 どうして変だと思うんだろう?
牛丼は割とすぐ出てきたので、それを食べながら考えている内に、はっと気が付いた。
「うまい牛丼だぜ」なんて、いかにもヴィジャヤン大隊長がおっしゃりそうな事だから、つい流してしまったが、ヴィジャヤン大隊長は御自分の事を「六頭殺しの若」と呼んだ事はなく、色紙に署名なさる時に使われた事もない。 色紙を頼まれた時、お書きになるのはいつも「サダ・ヴィジャヤン」だ。
それに字が全然違う。 犬ぞり部隊の連中が貰った色紙を見せてもらった事があるが、大隊長の筆跡はお世辞にも上手とは言えない。 字が不揃いなのだ。 字を習い始めたばかりの子供のような字で、はっきりした特徴があるだけに見間違えようがない。
だがこの色紙の字は、うまいと言うんじゃないが、良い字だ。 勢いがあって味がある。
絶対この色紙は偽物だ。 ただ偽とは言え、この色紙は別な意味ですごい。 六頭殺しの名を騙るだなんて。 それ程心臓に毛が生えている奴がいるっていうのも信じられない。
カレンダーにまでなったんだ。 六頭殺しに一度も会った事のない奴だってヴィジャヤン大隊長のお顔を知っている。 自分では買っていない奴でもいろんな店にそのカレンダーが貼ってあるから、北に住んでいる奴で大隊長の顔を知らない奴はいないと言っていい。
我こそは六頭殺し、なんて名乗るバカがいたらすぐ偽物である事がばれ、ぼっこぼっこにされるに決まっている。 それともそれ程顔が似てる、とか?
それならもっとましな店に行けばいいじゃないか。 確かに美味い牛丼だし、色紙を書いたら牛丼代をただにしてくれただろうが。 こんな店でそれ以上の事が出来たはずはない。 場末の牛丼なんて大した金じゃあるまいし、わざわざ名前を騙るまでもないだろう。
もし六頭殺しのそっくりさんとかいたら、それはそれで有名人というか、すぐ有名になるような気がする。 いい客寄せにもなるだろう。 金を払ってでも来て欲しいと言う店だってありそうだ。 こんな所よりよっぽど高級な所で。 しかしそんな奴がいるだなんて噂を聞いた事はない。
どうにも腑に落ちないので私は店の主らしき親父に訊ねた。
「おい、親父。 いつこの店にヴィジャヤン大隊長が来たんだ?」
すると店主は私をきょとんとした顔で見る。
「おや、お客さんは知ってていらした方じゃねえんで? いや、若様がここにいらした事はねえです。 そりゃ北の猛虎が書いて下さったんですよ」
「北の猛虎って、タケオ大隊長が?」
「へえ。 以前、この店で面倒おこしたお客さんがいらしてね。 酔っぱらってぐでんぐでん、店じまいの時間を過ぎても居座って帰らねえ。 俺は北の猛虎の一番弟子だー、とか騒いじゃいたが。 そんなのほんとか嘘か、こっちにゃ知りようもねえでしょ。
つええ事はつええ。 あっしじゃ放り出せねえんでさ。
そこで軍警呼んでもよかったんですが。 なんとなく仏心が湧いちまって。 その内酔いも醒めるだろってほっといたんで。
ま、それはどうでもいいっすが。 次の日その酔っぱらいと一緒に、なんと本物の北の猛虎が謝りに来て下さった、という次第で。 もう、魂消たのなんの。
こんな有名人に来店してもらったなんて一生に一度、間違いなく話の種だ。 でも北の猛虎が来たんだぜ、なんて他の奴らに言ったってさ、信じちゃもらえねえ。 自分のこの目で見てるってのに信じられねえんだから。
で、思い切って、色紙を書いて戴けませんかねってお願いしてみたんでさ。 まさか本当に書いて下さるとはねえ。 いやー、言ってみるもんですなあ」
「じゃあどうして六頭殺しの若? 北の猛虎って書けばいいじゃないか」
「あっしもそう思ったんですがね。 北の猛虎じゃ客が寄り付かなくなっちまう。 客寄せするなら若がいいって。 そう御本人様がおっしゃったんですよ。
こう言っちゃあなんだが、お若い頃のあの方は遠目で見たって怖かった。 あっしなんか思わず物陰に隠れちまった事があったくらいでさ。 人間変われば変わるもんですねえ。 こんなしがない牛丼屋の客寄せまで思いやって下さるだなんて。 ほんとに有り難い事で」
親父によると、それ以来ここは北の猛虎が書いた六頭殺しの若の色紙がある店として知られるようになり、流行るようになった。 立地の悪さにも拘らず、遠くからも色紙見たさに牛丼を食べに客が来るらしい。
隊に戻って聞いてみると、その色紙は私が知らなかっただけで随分有名だった。 そこでもう食べてきたという奴が結構いたし、まだ食べた事はない奴のほとんどが、その内食べに行くつもりだと言っていた。
「なら、タケオ大隊長が誰のために謝りに行ったのか知ってるか?」
それは誰も知らなかった。 ただ親父の話から類推すると、タケオ大隊長がその色紙を書いたのは随分前、おそらくまだ小隊長だった頃の話だ。 現在いる部下のほとんどは大隊長に昇進された後で部下になった者ばかりだから詳しい事情を知る奴がいなくとも不思議はない。
私は後でもう一度、まだ食べていないと言う奴らと一緒にその店に牛丼を食いに行った。
「おい、親父。 面倒起こした部下の名前は知っているか?」
「さーてねえ。 お名前はまではちょっと。 俺は悪い奴なんかじゃねえとか、散々管巻いて。 婚約者に逃げられるとか逃げられねえとか。 それっぽい泣き言を繰り返し言ってらしたが」
何だ、あいつか。 まったくしょうがない奴だ。 牛丼屋の親父が軍警に連絡していたら、せっかく決まっていた昇進をふいにしただろう。 それでタケオ大隊長がわざわざ一緒に謝りに御足労下さったんだな。
それにしても御自分だってあれ程有名なのに。 商売繁盛のためには若の名を騙る、か。 平民出身で下々の事情にお詳しいとは言え。 なかなか侮れぬ御方だ。




