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弓と剣  作者: 淳A
零れ話 I
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顧問  ミサンランの話

 入隊したばかりの頃、私にとって師範は神も同然だった。 八年後、百剣に入ってからも一番上がるのにどれだけ苦労したかを思えば、燦然と一位に輝く名札の主は雲の上の人で、いつか自分がその地位に上りつめる日が来るなど想像もしなかった。

 過ぎ行く年月を数えた事はない。 ただ日々修練し、稽古に稽古を重ね、少しずつ先に進んで行った。 努力型と天才型の剣士がいるとしたら私は努力型の典型と言えよう。

 天才であろうと努力なしで頂点に到達出来るとは思っていなかった。 常識から言えばそうだろう。 だがその常識を打ち破る剣士を目のあたりにしては己の間違いを認めるしかない。


 北の猛虎。 不世出の剣士に生きている内に出会えたというのは幸運か不運か。 私は五十五歳の時遂に一位の座を獲得し、師範と呼ばれる様になった。 そしてその年の同じ月、後に師範となるリイ・タケオが入隊する。


 平民。 それは構わない。 百剣の中にも平民は何人もいる。 しかしこの強さは何だ?

 本物の剣はおろか稽古用の剣さえどうやら今まで一度も握った事がなかったらしく、剣慣れしていないのが分かる。 動きにぎこちなさがはっきり出ているし、礼儀も規範もあったものではない。 剣を棒切れの如く無茶苦茶に振り回す。

 だが素早い。 目にも留まらぬその早さは今すぐ百剣に入れる程。 加えて本能とも言える防御と相手の意表を突く天性の勘。


 入隊したばかりの頃は剣の稽古をしてきた者達に簡単に負けていた。 実戦であれば勝っていたのはタケオだろうが、あのままでは試合で勝つ事はない。 なぜかポクソンに気に入られ、指導を受けるようになった。 それからの伸びは目覚ましい。 半年もしない内に新年の御前試合で新人戦北軍代表を務めたハイジュマと互角に渡り合い、力で捻じ伏せた。


 人を獲物であるかの如く睥睨し、殺気がだだ漏れ。 その様はまるで野獣。

 野良犬か、と苦々しげに言う者。 強いというだけであんな奴を百剣に入れたら、ただでさえ平民軍と呼ばれているのに北軍の格が更に落ちると言う者。 今の内に追い出しにかかる者。 とても人気者とは言い難い始まりではあった。 それでも皆の目が正直に語っている。 畏怖と共に。

 稀代の剣士、ここに現れり、と。


 新兵にしてはあり得ない強さを見せていたタケオ師範は、程なくして百剣入りを果たした。 にも拘らず、新兵だという理由でタケオ師範は相変わらず道場で掃除当番をさせられていた。

 掃除当番自体は新兵と二年兵がやる決まりだからタケオ師範に対する嫌がらせとは必ずしも言えなかったが、普通百剣に入る程の剣士が掃除当番をさせられる事はない。 それは新兵が百剣入りするという例が過去になかったからでもあるが。

 しかも平民。 ただ出自より、あの木で鼻を括ったようなかわい気のない性格が買わぬでもよい反感を買うのに拍車をかけていた。 特に年上の剣士を次々破って行くにつれ、負ける方が悪い、と言わんばかりの態度。 それは傲岸不遜と受け取られ、それであの礼儀知らずを何とかするには掃除をさせろ、となった訳だ。 稽古をする時間が削られるから。


 彼が貴族の出身であればそんな事をやらされたはずはない。 不公平を感じていたとしてもタケオ師範がその不満を表に出した事はなく、黙々と掃除をしていた。 もっとも公平に扱われた所で有り難がったとは思えないが。 タケオ師範は今でもそうだが、周囲にどう思われるか、どう扱われるかに関して全く無関心だ。 おそらくそれで他人への扱いも無関心なのだろう。


 だが私は不公平に気付いていた。 そしてそれが稽古時間を削っている事に気付いていながら何も言わなかった。 なぜ言わない?

 雑巾の絞り方に文句を付けるより剣の稽古をさせ、今の内に直すべき所を直しておけば来年の新人戦は北軍が勝ったも同然。

 そもそも剣は人気商売でもなければ舞踊でもない。 北軍代表として御前試合に出るとなれば見苦しくない程度の挨拶は知っておいてもらいたいが、美しい挨拶が出来た所で強くなければ出場など叶わないし、出場した所で負けるだけだ。


 師範は百剣に入った剣士全員に稽古をつける事になっている。 けれど私はタケオ師範が百剣に入った後でも他の者達に稽古をつけさせ、自分で手合わせした事はなかった。 理由など言うまでもない。

 怖かったのだ。 強さが、ではない。 今なら私が勝つのは簡単だ。 しかしあの覚えの早さに秘められた無限の可能性が怖かった。

 タケオ師範は相手の技を一度見たら即座に覚える。 その習得の早さは教えた技だけに限らない。 その技に自分なりの変化応用を加えられるのだ。 この分なら私が三十七年かけてこつこつと習得してきた技を二、三年でものにするだろう。


 後生畏るべし。 その言葉がこれ程似つかわしい者を見た事はない。 きちんと指導すれば、いずれは御前試合で北軍優勝を齎す事さえ可能な剣士だ。 しかし今の私に彼の指導をする気があるかと問われれば、ないと答えるしかない。

 それでも師範か、と自嘲する。 ただポクソンがタケオの指導を始めた時、それを止める事もしなかった。 それはかろうじて私の剣士としての矜持だったと言える。


 ポクソンに指導されたタケオ師範は予想通り急速に強くなり、新人戦での勝利は試合が始まる前から当然と見られていた。

 翌年タケオ師範の進歩は更に目覚ましく、秋に当時十四位だったポクソンを打ち破り、十二月には私に勝ち、一位の座を手にした。

 百剣では一位の座を獲得した者が師範と呼ばれる。 一度師範になった者でも二位に落ちたら師範と呼ばれる事はない。


 師範として退官したい気持ちはあったが、それを残念がった所で何になる。 己の稽古が足りなかっただけの事。 努力する気がないのならタケオ師範を一年見た時点で退官を決意する事も出来た。 私が負けるのは時間の問題。 それは当時、既に分かっていた事なのだから。

 だが恐いもの見たさ、とでも言うか。 タケオ師範から、あの豪快な剣から目を離す事が出来なかった。 たとえ二十歳前の若僧に一位の座を譲る事になろうとも。


 タケオ師範は師範と呼ばれるようになっても相手をぶちのめして終わりという稽古のやり方を変えようとはしなかった。 高位の剣士ならともかく、下位の剣士にそれでは技の向上は望めない。

 軍対抗戦出場者ならタケオ師範の勝負強さ、勘所を習う意味もある。 だがそれ以外の、特に二十位以下の剣士にそれでは問題だ。 それで私が引き続き下位剣士の指導を担当し、それはタケオ師範が六頭殺しの若と出会うまで続いた。


 一ヶ月や二ヶ月でタケオ師範の変化に気付いた訳ではない。 いつの日からこうなった、と言える訳でもないのだが。 相手をぶちのめすまで止めない事が師範の稽古から消えた。 いや、ぶちのめす事はぶちのめしている。 しかし終わった後で相手のどこがまずかったかを指摘し、そういう時はこうしろ、とやってみせる。

 相変わらずお強い。 勝負は一瞬の内に終わる。 だが強い相手と対戦する時どうすれば長続きさせ、逆転の瞬間を引き寄せられるか、そのコツを教えるようになった。


 私がしなかった、いや出来なかった事をした者がいる。 それは誰か、と聞くまでもない。 六頭殺しの若と一緒に茶を飲み、くつろいで饅頭を食べるタケオ師範を見ればよい。

 師範から殺気が消えた訳ではないのだが、普段の稽古で殺気をもろ出しにしたり、道場外での殺気のだだ漏れを目にする事はなくなった。 試合で殺気を相手に向ける時も憎しみに彩られたものでは最早ない。 この変化が見れただけで急いで退官しなかった甲斐があったというもの。


 その年の十一月。 私は正式に退官した。 最後の稽古を終えた後で皆から感謝の言葉と退官祝いを貰い、四十二年の歳月の流れを静かに見つめた名札を受け取る。 その空いた場所に三位以下の者が繰り上がっていく。

 そこでタケオ師範が立ち上がり、百剣の名札がぶら下がっている壁に行き、自分の名札の左横にもう一本の釘を打ち始めた。 その上にもう一本の釘を打ち、札を掛ける。 その札には「顧問」と書いてあった。

 タケオ師範が私の手から名札を取り、「顧問」の下に掛けながらおっしゃる。

「ミサンラン顧問。 まさか本気で退官なさるおつもりじゃなかったでしょう?」

 その言葉に道場からどっと笑い声が湧き上がる。

 まさか、はこっちの言うせりふだ。 このような形で一本取られるとは。

「ほう。 安心して退官も出来ぬとは。 いやはや、それでは一から鍛錬し直してやるしかないか。 明日が楽しみな事ではある」

 笑い声が一斉に止む。

 

 ふっ。 そうこなくては。 タケオ師範だけは、にやりと私に笑い返す。

 これからもこの稀代の剣士と共に研鑽を積めるのだな。 その幸せをしみじみと噛み締める。

 私の中から湧き上がった晴れやかな笑い声が道場を満たした。


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