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弓と剣  作者: 淳A
零れ話 I
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稽古相手  アラウジョの話

 ヴィジャヤン伯爵家の若様がラハティネン剣道道場に入門した時、若様は既に十三歳だった。 別に十三歳から始めたって悪い事はないだろうけど、それって珍しい。

 俺は若様より二つ下だ。 でも六歳の時に通い始めたからその時にはもう稽古して五年経っていた。 普通、剣の稽古を始めるのは五つか六つ辺りで、遅くとも八歳か九歳前には入門する。 俺の年になると止めるか一生続けるかを決めるんだ。


 若様の年では中級以上の剣士しかいない。 でも中級が初心者の相手をしたら中級剣士にとって稽古にならない。 だからって領主様の御三男を五つや六つの初級の子達と一緒に稽古させる訳にはいかないだろ。 一桁の歳じゃ剣はまだまだちゃんばらごっこ。 お遊びでしかないんだから。

 若様もお遊びだったらそれでもよかった。 ところが若様は本気も本気。 挨拶なさる時にも相当な気合いが入っていた。 真っ直ぐに俺を見つめる真剣な瞳。 少なくとも親に言われて嫌々みたいな、ふざけた理由で入門したんじゃない。 師範に対してだけじゃなく、年下で平民に過ぎない俺にまで御丁寧に、よろしくお願い申し上げます、と御挨拶下さった。


 それに若様が剣を振り回している所を見ると結構力がある。 ちっちゃい子供が相手をしたら簡単にふっとばされるだろう。 でも初心者なだけに剣を狙った所でぴたっと止める事が出来ない。 反則とか、やってはいけない事の区別も付かないから、ぎょっとするような方向から剣を振り下ろしたりなさる。 それを咄嗟に防げる相手でないと、ちょっと危ない。

 同い年の剣士なら問題なく避けられるが、その年でも稽古しているのは軍人を目指しているからだ。 単なる歩兵で終わるか剣士として認められるか。 入隊を僅か五年後に控え、稽古にも真剣味が加わる。 それより更に年上だと人によっては御前試合の新人戦出場を視野に入れた猛稽古をしているから、若様のような初心者の相手をしている暇はない。 と言う訳で、年がまあまあ近く、時間にまだ余裕がある俺が稽古相手に選ばれたんだ。


 若様は道場内でただ一人、新年の御前試合を見ていらした。 すごい剣士が現れたという噂は皇国中に広まっていて俺達も聞いていた。 若様が入門された動機も、その新人戦の優勝者であるリイ・タケオを見て憧れたのが理由なんだとか。

 休憩の時間になると、みんな若様からリイ・タケオの話を聞きたがった。 若様は、俺って口下手だから、とおっしゃって、リイ・タケオの技をそこで実演して下さった。 それは見事で華やかな大技だった。 これを大観衆の前で臆せずに繰り出すだなんて。 リイ・タケオって、ほんと信じられない凄腕の剣士なんだな。

 同時に、若様の記憶力ってすごい、と内心舌を巻いた。 俺だって上級剣士の試合を見た事がある。 だけど勝ち負けを覚えているだけだ。 剣の動きまでは覚えていないし、そもそも剣の動きを見極められた事なんてなかった。 若様の剣はリイ・タケオの速度こそないけど、かえってその方が動きが読めて分かりやすかった。 いつか本物のリイ・タケオに会いたいな、と俺でさえ思ったくらいだ。


 ただ若様が剣で身を立てる事は難しいんじゃないかな。 まあ、剣はからっきしでもそういう剣豪を見たら憧れる気持ちは分かる。

 その憧れが高じたのか、ある日若様は俺との稽古の最中、リイ・タケオの技を真似しようとなさった。 そんなのいきなり初心者がやったって怪我するだけなのに。 その時俺は若様が一体何をしようとしているのか分かっていなくて。 変な返しをしてくる若様の剣を思いっきり叩き落した。 その落ちた剣が跳ね返り、若様の腕を直撃した。

「ぎゃっ」

 若様が叫び声をあげた。 相当痛かったのだろう。 涙目になっていらっしゃる。 普段とても我慢強い御方だからわざと痛そうにしているとかじゃない。

 やばい、師範に怒られる、と思った。 いや、師範ならまだいい。 伯爵様に怒られたりして。 俺だけじゃなく、俺の親も。 怖くなった俺はその場で土下座して謝った。

「お許し下さいっ!」

 すると若様は、一瞬ぽかーんとなさっておっしゃる。

「え? 今の、悪いの俺だよね?」

 そこで一部始終を見ていたらしい師範からお声がかかった。

「若、まず基本からです。 リイ・タケオの真似は今後一切やらないように」

 それでようやく何が起こったのか俺にも分かった。 若様が怒っていらっしゃらない事にほっとして、剣が当たった部分に湿布してさしあげた。

 若様が道着を脱がれると、見事に鍛え上げられた背中が現れた。 自警団団長をしている俺の父でもこれ程の筋肉は付いていない。 びっくりして聞いた。

「すごい。 若様は今まで何の訓練をやっていらしたんですか?」

「何って。 何もやってないけど? 剣は始めたばかりだし」

「でも背中の筋肉が発達していらっしゃいますよ」

「へえ。 そうなんだ」


 何もしてないのにこんなに筋肉が付いたりするんだろうか? それとも自宅で何か秘密の特訓を受けていらっしゃる?

 考えてみれば貴族の子弟なんだ。 それくらいやっていても不思議はないよな。 秘密なら聞かれた所で誰にも言わないだろう。 そう思ってそれ以上何も聞かなかった。

 ただ若様は毎日欠かさず稽古にいらっしゃる。 だからこの道場以外のどこにも通っていないというのは嘘じゃない。 それに合計四年半、一緒に稽古させて戴いた。 お人柄というものに触れる。

 稽古だけの付き合いで、お家に招待されたとか遊びに行った事とか一度もないけど、あの素直な剣筋を見ただけで分かる。 若様は秘密の特訓なんて何もしてない。 賭けてもいい。

 若様ってまんまって言うか。 秘密を守れと言ったって無理って言うか。 聞かれたら知っている事を全部話しちゃうって言うか。


 それからしばらくしたある日、若様の背中の理由が分かった。 若様が、いつも相手をしてくれてありがとうとおっしゃって俺に鴨を下さったんだ。 別に俺は先生に言われた事をやっていただけで特別な事した訳じゃない。 そもそも領民の俺に領主の息子がお礼を言う必要なんてないだろ。 でも断るのも失礼だからその鴨を家に持って帰った。 すると母さんがその鴨を見てすごく感心して。

「さすが伯爵家ともなると随分狩りの上手な方がいらっしゃるんだねえ」

「なんでそんな事が分かるの?」

「ほら、ここを見て御覧。 普通の鏃で射ってるでしょ。 鳥はね、普通の矢だと当たっても急所を外したらそのまま飛んでいっちゃうから鳥を狩る時は鏑矢を使うのよ」


 その鴨は普通の矢で急所に当てて射落とされていた。 それで次の日、美味しかった鴨のお礼を改めて若様に申し上げたついでに誰が射落としたのかを聞いた。

「俺だよ」

「あの、いつ狩りに行かれたんでしょう?」

「毎日稽古の後に行ってるんだ」

「稽古の後、毎日ですか?」

「うん。 雨の日は行かないけどな。 服を濡らすと文句言われるから」


 嘘をつく御方じゃないし、背中の筋肉が発達している理由は弓をやっていたからだと分かったが、やっぱり不思議だった。 貴族の事なんてよく知らないけど、貴族の子弟って毎日お勉強してるのかと思った。

 若様は朝、お弁当を持って道場にいらっしゃる。 そしてお昼を食べた後、二時にお帰りになる。 それから狩りに行っているんだとすると、行けない事はないだろうけど、すぐ獲物を見つけたのでもない限り日が落ちる。 森へ行くならどんなに馬で急いでもここからお邸とは逆方向に三十分かかり、お邸からここまで三十分以上かかるんだ。 剣の稽古の後に狩りに行ってたら勉強している暇なんかないだろ?


「ひょっとして、毎晩夜遅くまでお勉強なさっているんですか?」

「しない」

 しないって。 ますます訳が分からなくなったが、なんだかそれ以上は聞いちゃいけない様な気分になった。


 ともかく一生懸命稽古なさったおかげで若様の剣は随分上達なさった。 とは言っても始まりが遅かったから腕前は他の十八歳の剣士と比べれば中の下でしかない。 遅咲きの剣士だっているとは言っても、何年稽古しても年下の俺に勝てない腕前では若様が剣士として名を上げる事はないだろう。

 それでも年を重ねるごとに若様の北の猛虎への憧れは強くなりこそすれ、なくなってはいない事が窺えた。 時々お一人で素振りをしていらっしゃる。 その合間に猛虎の技の真似してにまにま笑ったり、いかに猛虎がすごいか、きらきら輝く瞳で語る若様を見れば分かる。 猛虎が軍対抗戦に出場出来なくなってもそれは変わらなかった。


 若様がどの軍に入隊するかを決める旅に出発される前、俺だけにこっそり教えて下さった。

「実はもう、北軍に入隊するつもりでいる。 寒いけどな」


 ここら辺の若者が入隊するとしたらほとんどが伯爵軍私兵か西軍だ。 偶に海軍に入りたくて南軍に行く奴もいるけど。

 俺は若様に出会わなかったらきっと西軍に入隊したと思う。 だけど若様の決心を聞いた時、密かに俺も北軍に入隊する事を決めた。 二年後、母さんには散々愚痴られたが。


「何だ、アラウジョ。 お前も北の猛虎に憧れてこんな寒い所に来たのか? 物好きな奴だ。 あっはっはっ」

 二年後の秋にお会いした若様は相変わらずでいらした。 六頭殺しの若として皇国中に名を轟かしただけでなく、あれよあれよと言う間に小隊長から中隊長、そして特命大隊長へと大出世なさり、来年には正式に大隊長に昇進なさると聞いた。 元々平民の俺が気軽に近寄れる御方じゃなかったけど、今では雲の上の御方と言っていい。 なのに昔剣の稽古相手をしたと言うだけの新兵の俺を、こんな風に温かく出迎えて下さるんだから。


「まあ、住めば都って言うし。 股引三枚重ねりゃ何とかなる」

 そう明るく笑って若様は私の背中をぽんぽんと叩いて下さった。 いや、今はヴィジャヤン大隊長とお呼びしなきゃな。

 たとえヴィジャヤン大隊長がオークを仕留めていなくても。 そして、ここにリイ・タケオがいなかったとしても、ヴィジャヤン大隊長がいるなら俺は北軍に入隊していた。

 だけどそれをこの暖かい日だまりのような御方に言う気はない。


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