年賀状 若の小学校の先生の話
「伯爵様の御三男であるサダ様が新年生として平民学校に通われる事になった」
そう校長先生から知らされ、一年生学級の担任である私は不思議に思った。
「承知致しました。 何日か体験入学なさるという事でしょうか?」
「いや。 タマラ執事によると卒業までこの学校に通われるとの事」
「卒業まで? それは。 なぜでしょう?」
「うむ。 理由は私もお伺いしたのだが、タマラ執事も御存知ないとの事。 どうやら奥様も御存知ないようで。 しかし理由を聞くためだけにお忙しい伯爵様に面会を申し込むのも気が引ける」
この学校はヴィジャヤン伯爵家が全面出資しているおかげで成り立っているから御子息を入学させたいとおっしゃるならさせる事に問題はない。 そもそもここは通学出来るのなら誰でも入学出来る事になっているのだ。 もっとも子供であろうと労働力。 それがなくなっても構わないから学ばせたいと思うのは平民でも余裕がある家庭になるが。
噂で聞く所によると伯爵様は貴族でありながら下々の事情にも通じていらっしゃるのだとか。 しかしお子様もそうであるかは知らない。 お邸の中で育てば平民の日常生活を推察するのは難しかろう。 次代様を平民学校へ入学させるのは無理でも三人いらっしゃる御子息の内、お一人くらいは世情に聡い者がいた方が良いと思われた? それで領民の中に混じって学ばせる事にしたとか?
いずれにしても伯爵様の御子息を粗略には扱えない。
「それでは何とお呼びすればよいでしょう? サダ様ですか?」
「若でよいだろう。 本邸でも奉公人から若と呼ばれていらした」
校長先生はちょっと迷われたようだが、そうお答えになった。
伯爵様に若様は三人いらっしゃるが、学校に通われるのは御三男が初めてだ。 後で知った事だが、御長男は次代様、御次男は若様と呼ばれていた。 若様が二人いては区別が面倒なら、サダ様でもよいと思うのだが。 次代様はともかく、次男が若様で、三男が若と呼び捨てとは。 その呼び方に差別を感じる。
もしや御三男だけ庶子? 伯爵様に愛人がいらっしゃると聞いた事はないが。 何か事情でも? だが貴族の事情など平民の私に分かる訳がない。 余計な詮索はしない方が吉だ。
入学式当日、若は他の子供達のように母であるヴィジャヤン伯爵夫人に連れられて初登校なさった。
上品なお召し物。 きちんと調えられたお髪にきれいな爪。 礼儀正しさから滲み出るお育ちの良さ。 たとえ隣に伯爵夫人がお立ちでなかったとしても他の子とは違う。 それは誰でも、子供でもすぐに気付いたであろう。 整ったお顔立ちに真っ直ぐな視線がとても印象的なお子様だ。
学校を外から見た事はあっても中に入ったのは初めてだからか、若は物珍しげに辺りをきょろきょろ御覧になっていらっしゃる。 夫人に手を引かれながら緊張した面持ちで私に御挨拶下さった。
「何とじょ、よろちくお願い、申ち上げます」
なんとも微笑ましい。 伯爵夫人が「ぞ」と「し」を優しく訂正なさると、もう一度御挨拶し直して下さった。
無口な恥ずかしがり屋さんのようだが、さぞかし賢くていらっしゃるに違いない。 御兄弟のお二方は確か六歳上と三歳上。 ならば若には生まれた時から家庭教師がいたはずだ。
貴族の子弟は遅くとも五歳から教育を開始する。 十八で成人したと同時に皇都で官吏か軍人になるのだから五歳で勉強を始めても早過ぎるという事はない。
貴族ともなれば読み書きは単なる基礎で、儀礼からダンス、お茶の作法、礼拝、覚えねばならない手順、しきたりは数えきれない程ある。 その他に文官を目指すならそれ関係の課目の勉強、武官を目指すなら武芸の訓練をせねばならないのだ。 時間はいくらあっても足りない。
年がいくつか離れていても子供三人の勉強の面倒をまとめて見るくらい、大した労力が要る訳でもない。 既に読み書きの基本を習得されているだろう。 それなら二年生か三年生と一緒に学ばせた方がいいのかもしれないと思っていた。 ただ伯爵夫人から、他の子達と同様の扱いで、と強く念を押された事もあり、まず一年生学級に座って戴いた。
最初の授業で、七足す五はいくつ、と私に質問された若が、おもむろに靴下を脱ぎ始める。 どうやら数えるのに両手の指では足りないから足の指を使おうと思われたようだ。 それを見た他の子達がくすくす笑い始める。 若に恥をかかせようとして指した訳ではないのだが。 若は辺りを見回し、笑われているのに気付いて頬を染められた。
不要だろうと思い、若に学力テストを受けさせなかった事を後悔した。 生徒は平民の子がほとんどだから算数も文字もここで一から学ぶ子がいる。 だが学校に来る前に字を学び終え、足し算、引き算が出来る賢い子も少なくない。 その学力差を見る為にテストをしている。 他の子は入学前に一日学校見学の日があり、その日にテストを受けていた。
若にとって一年生学級は退屈かもしれないと思ったのに。 退屈どころか他の七歳と比べても同じか遅いくらいでいらっしゃる。 どうして家にいる家庭教師が何も教えていないのか? 若にだけ何も教えるなと伯爵様から命じられた? そんなばかな。
ともかく算数がお得意でない事は分かった。 では国語がお得意なのかと言うと、そうでもない。
お習字の時間ではさすがの私も驚いた。 サダ・ヴィジャヤンこそかろうじて書けていらしたが、他の字は余りに下手で、汚い。 読めない事もない、と言う程度。
作文の時間に何かだらだらお書きになっていらしたので読んだが、何をおっしゃりたいのかよく分からなかった。 かと言って口で説明するのがお上手な訳でもなく。
歴史の時間に分かったのだが、若は自分の名前であるサダが初代ヴィジャヤン伯爵の名であるサダヴァンに因んだものである事を御存知なかった。 それどころか領民なら誰でも知っている初代様が皇王陛下をお救いした武勇談さえ聞いた事がないとおっしゃる。
「そんな大昔の事なんてどうでもいいし」
しかし何か秀でていらっしゃる事が一つぐらいおありになるはずだ。 私が知らないだけで。 そしてその秀でていらっしゃる何かは学業関連ではないだけで。
ともかく読み書き算数を始めとして、絵を描く、本の朗読、工作、歌を歌う等、学校で習うような事は全部平均か並以下という事が分かった。
将来の夢を聞いてみると、軍人になりますとおっしゃる。 確かに勉強が出来なくとも伯爵家の私兵を指揮してもいいし、皇国軍のどれかに入れば伯爵の正嫡子なのだ。 強力な縁故にも事欠くまい。 それだけである程度の昇進は保証されている。 飯の種を自力で見つけねばならない平民とは違うのだ。 私が心配する必要などないと言えばないのだが。
それなら剣の稽古をしているのかと思えば、剣を握った事もないとおっしゃる。 とっくに剣道道場に通っていてもおかしくないお年なのに。
かけっこをやらせれば遅くはないが一番でもない。 運動会の時に徒競走で一番だったのは一緒に走った一番足の速い子が若に勝ちを譲ったからだ。
家庭訪問に行った時、若と若の兄二人との間には明確な教育方針の違いがある事を知り、この扱いの差はなぜなのだろうと気になった。 順番から言えば御長男が爵位を継ぐのは当然だし、そちらの教育に熱心になるのは分かる。 それに御長男はとても優秀なお方のようで、爵位継承に関する御心配はないのだろう。
御次男も御長男に勝るとも劣らぬ程学績優秀なお方のようだった。 将来は医師を目指していらっしゃるのだとか。 つまり若が爵位を継ぐ可能性はまずないと言っていい。
だとしても他の子の為に家庭教師がそこに居るのだから、もう一人ついでに教えた所で余計な金がかかる訳でもあるまい。 若は物覚えは遅いかもしれないが、理解力がない訳ではない。 目と耳が鋭く、時々私でさえ気付けなかった事を御指摘になる。 並外れた観察力を持っていらっしゃるのだ。
御兄弟は顔立ちが全く似ていないので若だけ庶子という出生の事情でもあるのかと疑ったが、三人共伯爵夫妻の正嫡子で実子だった。
知ってか知らずか、明らかに差別されているのに若がそれを気にされている様子はない。 毎日とても元気に学校へ通っていらっしゃる。 傍目には家族に深く愛されている幸せな子にしか見えないし、言うまでもない事だが、伯爵邸で暮らす若は平民に比べたらとても恵まれている。
既に御自分の馬をお持ちで、服も上等なもの。 それに食べる物に差をつけられているとか、ましてや虐待されているという事ではないのだから。
けれど明らかに放任されている。 考えられる理由と言えば、三男だから。 三男だって将来家名を上げる事がないとは言い切れないだろうに。 伯爵家には何人もの優秀な奉公人がいるのに、若の宿題を助ける人が一人もいない。
若は時間を足したり引いたりなさるのが苦手で、よく計算間違いをなさる。 授業に遅れがちだったから、放課後私が若の勉強を見てさしあげる事にした。 平民の私が貴族の若を不憫がるなどおこがましいが、何だか放っておけなかったのだ。
そんなある日、いつものように放課後宿題を見てあげていると少し離れた所にある鶏小屋から何か物音が聞こえて来た。
「狐だ!」
私が何だろうと思う間もなく若は一声叫んで教室から飛び出して行かれた。 けれど鶏小屋がある方に向けてではない。
一体何をなさる気だ、と若の行く先を目で追うと、御自分の馬の方へと一目散に駆けて行かれる。 なんと若はそのまま馬に飛び乗り、鶏を銜えて走る狐の後を追いかけ始めた。
「若、危ないからお止め下さい!」
仰天して声を限りに叫んだが、夢中で追いかけている若には聞こえなかったようだ。
若は毎日子供用の弓をお持ちになって登校なさる。 それは馬に括り付けてあったが、子供の弓で狐が仕留められる訳がない。
私は急いでまだ学校にいらした校長先生に報告した。 校長先生の馬の方がずっと速い。 それで若が駆け去った方角へは校長先生が向かい、私は一部始終を報告し、助けを呼ぶために伯爵家へと駆けつけた。
玄関に現れた執事のタマラ様は私から事情をお聞きになると落ち着き払っておっしゃる。
「それでしたら大丈夫でしょう」
大丈夫? いくら三男なんかどうでもいいとは言え、あんまりではないか。
タマラ執事は校長先生の上司。 本来なら私がどうこう言える御方ではない。 だがその冷静なお言葉は、若が大怪我なさるかも、最悪の場合落馬して打ち所が悪くて、と考え半狂乱で駆けて来た私の神経を逆撫でした。
「大丈夫とは。 大丈夫でなかったら、どうなさるおつもりです? 落馬の危険もあるし、道に迷うかもしれない。 それなのにこのまま放っておくとおっしゃるのですか! まだたったの七歳でいらっしゃるのですよ?」
大声で怒鳴る私をタマラ執事が宥める。
「心配せずとも若は狩りに慣れていらっしゃいます」
「は? し、しかしいつもお一人で狩りをなさっている訳ではないでしょう?」
「いつもお一人です。 兎や狐なら簡単に仕留める腕前なので、程なくお帰りになるでしょう」
タマラ執事のお言葉通り、間もなく若は仕留めた狐と共にお戻りになった。
「見て、見て! 今日は狐だよ!」
「お見事でございます」
タマラ執事に褒められ、若はとても嬉しそうだ。
「但し、カーゼペーダ先生に大変な御心配をお掛けしたのは褒められた事ではございません」
そう言われて、若ははっと私の顔を見る。 安堵のあまり私の頬は濡れていた。 若はばつが悪そうにごめんなさい、と私に謝って下さった。
先生が生徒の前で泣くなど、それこそ褒められた事ではないとは思ったが。 堪えきれず、私は若をぎゅっと抱きしめた。
「ご、無事で、な、何より、でした」
きれぎれに言葉を絞り出す。
美しいこの瞳に傷がつかなくて、本当によかった。
その後は特筆すべき事も無く、若は無事進級された。
それから毎日私が教える事はなくなったものの、ここは全校生徒三百人。 先生は六人しかいないから発表会や遠足など行事がある度に手分けして生徒の面倒を見る。 誰かが休暇を取ったり病気の場合、その穴埋めもするので、若の御成長は卒業なさるまで様々な機会を通じ、拝見する事が出来た。
卒業なさる頃になっても若が勉強に秀でる事はなかったが、時々食べて下さい、と獲物を持って来て下さる。 それで狩りの腕前が年を重ねる毎に上がっていらっしゃる事は知っていた。 それでもオークを射殺したと聞いた時にはさすがに驚いたが。 同時に誇らしくてたまらなかった。
先生として当然の事をしたに過ぎない私に、若は毎年義理堅く年賀状を下さる。 若の担任になった先生は他にも五人いるし、彼らも担任している年には貰ったが、その後も貰っているのは私だけだ。
それは「六頭殺しの若」と勇名を馳せ、瑞鳥と飛来する大功により北方伯に叙されてからも続いた為、他の先生達から大層羨ましがられている。
年賀状を見る限り、お習字の腕前に進歩が見られないのは少々残念な気もするが。




