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弓と剣  作者: 淳A
零れ話 I
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義息  若の母方の祖母、ノマの話

「嫌な男に会ったせいで、せっかくのクラピリックがまずくなっちまったぜ」

 宮廷舞踏会で娘のシノがヴィジャヤン伯爵家次代サキ様にダンスに誘われた。 それを喜ぶどころか、旦那様は自宅に帰った後もしばらく子供のような文句をぶつぶつおっしゃっている。 縁談という縁談をお断りしているのはいつもの事。 とは言え、内心つくづく呆れてしまった。

 クラピリックの味に問題があった訳ではない。 とても美味しかった事は私もお相伴に与ったから知っている。 旦那様とて、いやー、うまいぜ、やっぱりクラピリックはイコフギップ産に限る、と舌鼓を打ちながら沢山お代わりなさっていらした。

 ただここでそんな事実を申し上げたら更に御機嫌を損ねるだろう。 結婚してそろそろ二十五年。 旦那様が愚痴りたいのはクラピリックの味云々ではない事くらい分かっている。 要するにシノの結婚相手として相応しい殿方が現れた。 それであれ程美味しいクラピリックでさえまずくなった、とおっしゃりたいのだ。


 サキ様への悪口は延々と続く。 あの顔を見ただけで女たらしと分かるだの、あいつの親父の顔まで思い出して気分が悪くなっただの。

 顔が良いというだけで女たらしなら旦那様も結構な女たらしなのではございませんか、と冗談を申し上げてもよかったが。 そんな事を言おうものなら後が怖い。 顔が良いと言われて喜ぶようなお人柄ではないし、女たらしと言われて流せる御方でもないのだから。 サキ様の女たらしの手管を実際見た訳ではなくとも、御自分との違いを過去に関係を持った女性の実名入りで長々と話し始めるだろう。 それを聞きたくないのならここは何も言わずにやり過ごすしかない。

 けれど妻が訳知り顔で一言も口を挟まないのが、それはそれでお気に障ったようで。 旦那様がいらだったお声をあげる。

「何だ、何が言いたい」

 私が何も言うつもりはない事を御承知の上での難癖。 更に無言を通しては余計つむじを曲げておしまいになる。 お年がお年なだけに拗ねると子供より始末が悪い。 そっとため息をついて、まず一番無難な言葉を申し上げた。

「旦那様。 シノは十九歳になったのですよ」

「それがどうした。 お前が結婚したのは二十六の時だろうが」

 旦那様は何かと言えば伝家の宝刀の如くそれを持ち出される。 いつもは黙って聞き流しているが、今日はさすがにそのままにしておけず、お言葉を返させて戴いた。

「平民の私と子爵令嬢を一緒にする訳には参りませんでしょう? しかもシノは正嫡子」


 旦那様だとてそれは先刻御承知。 それに私が所謂適齢期を過ぎても未婚だったのは母が亡くなった後、父に再婚する気はなく、まだ幼い弟達を残して嫁ぐ気にはなれなかったからだ。 加えて家業の材木問屋も忙しかったし、私は平民だから婚期を逃しても家具屋として独立する道があった。 一番上の弟が家督を継げる年になれば実家が保有している貸家の一つに住めばよい。 家業を手伝えば給金も貰える。

 弟がいるおかげで家を継ぐしがらみもない。 結婚したい男がいればしても良かったけれど、焦って結婚する必要はどこにもなかった。 旦那様とお会いするまでは生涯独身で構わないと思っていたし、又それが許される経済状況だったのだ。


 けれど貴族の娘が私と同じ道を選ぶ事は出来ない。 世間体と言うものがあるから。 親が爵位を息子に譲っていなくても、おおっぴらに家業を手伝う訳にはいかないのだ。 そんな事をしたら娘一人食わせられないのか、と実家の恥になる。 たとえ旦那様はお気になさらずともシノの婚家は気にするだろう。 それはいずれ子爵位を継ぐ長男のシュウの代になっても変わらない。 シュウの妻の実家が気にするはずだ。 勿論我が家の親戚も。

 シノの場合、今日嫁に行った所で早い訳ではない上、そろそろ嫁き遅れの年齢にさしかかっている。 嫁き遅れたからと言って貴族の女性が一人暮らしするなど許されない。 結婚したら夫人が趣味で店を始めるのは構わないし、その店が流行れば羨ましがられる。 恥じる事など何もないけれど、それが趣味である建前は決して取り払えないのだ。

 私自身、家具とインテリアの店を持っている。 でも仕事を理由にして子爵夫人としての務めを怠った事はない。 私の収入が子爵家本業の林業を上回る事を旦那様以外に明かした事もない。 いくら旦那様は世間体をお気になさらなくとも貴族が世間体を無視したら、それこそ商売の障りになる。


 貴族の独身女性なら後宮に女官として就職する道がある。 ただ子爵令嬢では爵位が低過ぎて、正妻として選ばれるより上級貴族の愛人となりがちだ。 シノのように下手に美しいと皇王族や上級貴族のどなたかのお目に止まり、相手の身分によっては本人が望む望まぬに拘らず、断れない事にならないものでもない。

 上級貴族の愛人は一見華やかなだけに、なりたいと言って憚らない女性も少なからずいる。 でも旦那様は後宮や上級貴族の家で起こった修羅場をまるで見て来たかの如くシノに吹き込んでいらした。 そんな話を山ほど聞かされて育ったシノが女官や愛人になる道を望む訳がない。

 それが嫌なら実家で甥や姪の子守りをして一生を過ごす事になる。 長男のシュウは妹のシノ、シマ、どちらとも仲が良い。 とは言え、シュウの未来の妻がいつまでも実家に居座る独身の妹に対して同様に寛容であるかどうかは分からない。


 世知に長けた旦那様の事、それもこれも充分御承知でいらっしゃる。 なのに娘を手放そうとはなさらないから尚更始末に負えないのだ。 十九になった娘を掴まえて社交の場で一瞬たりとも目を離さないなど、旦那様以外一体誰がすると言うのだろう。 伯爵家次代のダンスの誘いを父親が断ったら娘に恥をかかせるだけではないの。 宮廷舞踏会という晴れの場でそんな真似をなさるとは。 最早、呆れてものも言えない。

 旦那様をお諌めしようにも、このような振る舞いが今始まった事ではないから困る。 それどころかシノが結婚適齢期になる前からこの調子なのだ。 結婚を申し込みにいらした殿方ならいくらでもいるのに片っ端から追い払っていらっしゃる。


 奇人変人で有名な旦那様の娘とは言え、美人で子爵令嬢のシノに求婚者がいなかった訳ではない。 シノは気難しい性格でもないからまとまりそうな話もあった。 どなたも旦那様のお気に召さなかっただけで。

 自分の夫は自分で選べ、とシノにはおっしゃっておきながら、では、と選んだ途端にあから様な嫌がらせを相手に始める。 ようやく夕食に招いたかと思えば、その席で借金の返済は順調ですか、とお伺いしたり。 先日エスコートなさっていた女性は中々のグラマーでしたね、いや羨ましい、なのだ。

 褒められぬ事をした方が悪いとは言っても気まずいのは返答に詰まって四苦八苦している殿方より、それを見ているこちらの方。 何もそれをシノの前でやらずともよいでしょうに。

 いくら美人でもこう求婚者を次から次へとなで切りにしていったのでは世間の噂となっても仕方がない。 普通の娘なら私を一生実家に縛り付けておくおつもりなの、と怒って当然だ。

 それもこれもお父様の愛情の表れなのですわ、と物分かりの良いシノが責めないものだから旦那様がいよいよ増長なさる。


 ただサキ様は簡単に蹴散らされた今までの求婚者とはひと味違う感じがした。 旦那様は広い人脈をお持ちだから伯爵家次代を怒らせた所で困る事はない。 騒げば騒ぐ程引っ込みがつかなくなり、後で世間の笑い者になるのはサキ様だったはず。 けれどサキ様はそんな悪意の籠った旦那様の挑発に乗らなかった。 それだけでもお年に似合わぬ思慮と分別のある御方と言える。

 しかもシノを諦めた訳でもなさそうで。 ちらっと後ろを振り返ると、サキ様は闘志に満ちた目を爛々と輝かせ、旦那様の背中をじっと見つめていらした。 旦那様もその挑戦の熱さを感じ取られたのではないか。 だから普段は余裕綽々なのに、このような苛立ちをお見せになっているのだろう。

 旦那様と真っ向から対決し、一歩も譲らない求婚相手がとうとう現れたのかしら? そうだとしたらたとえ決まるのは遥か先の話ではあってもシノにとって紛れもない朗報。 幸先が良い、と私は密かに喜びを抑えられなかった。

 まあ、旦那様に私と同じく喜べと申し上げた所で無駄な事。 既に申し上げた以上の事は何も申し上げなかった。


 旦那様は例の如く、御本人様は勿論、御親戚の果てまで舐めるように調べ上げたよう。 それでもサキ様始め、御両親、御親戚、御友人、領地経営、全てにこれと言った欠点が見つけられなかったらしい。 そこで目を付けたのが領地の場所。

「あんな西の果て。 飛竜の糞にまみれた土地に誰が大事な娘を嫁にやるものか」

「若い頃、その飛竜の背に乗って見た西の山脈がいかに美しかったか、私達に教えて下さったのは旦那様ではございませんか」

「そ、そんな事を言ったか」

「ええ。 おっしゃいました。 何度も」


 初めてお会いした舞踏会から間もなく、サキ様は遥々ジョシ子爵本邸へ結婚の申し込みをしにいらして下さった。 お家柄もお人柄も申し分ない。 過去の求婚者のどなたと比べても一番と言って良い御縁。 サキ様は格上でありながら傲慢な様子も見せず、未来の義父の無礼を諧謔を以て受け流される。 何よりシノへの真摯な態度と、ここまで御自分で足を運ばれたという熱意に好感が持てる。

 これ以上一体何を望むとおっしゃるのか。 飛び上がって喜んでもよいぐらいではないの。 なのにシノに会わせないために仮病まで使うだなんて。 もう常規を逸している。

 しかし対するサキ様も一筋縄ではいかないお方でいらした。 正面からでは開かない扉と見極め、ありとあらゆる絡め手をお使いになる。


「ジョシ子爵夫人の内装の素晴らしさを東に止めておくには余りに惜しいと申せましょう。 この際、皇都に出店しては如何ですか?」

 皇都に出店するのは私の夢だった。 それを手伝う、と申し出られては旦那様もやるなとは言えない。 シノは表立って手伝う事は出来ない事になっているのだし。 でも私に会いに来れば私の側にいるシノに会うのは容易い。 程なくしてシノからサキ様にお会いするのを心待ちにしている様子が窺えるようになった。

 服をどれにするか迷い、髪を調える。 シノの美しさに加えられた華やぎが誰のおかげであるかなど問うまでもない。 物分かりが良すぎて、もしや結婚自体を諦めたのでは、と一時は心配したのだけれど、どうやらそれは私の杞憂に終わってくれたよう。


 眩しいばかりの春を謳歌する娘を見て、今度ばかりは年貢の納め時とお覚悟なさったか。 察しの良い旦那様はがっくりと肩を落とされた。 シノは私から見ても商売になかなか鋭い才覚を持っている。 もしかしたら旦那様は自分の跡をシノが継いでくれるのでは、とお考えだったのかもしれない。

 旦那様は副業で情報を売っていらっしゃる。 長男のシュウは実直で生真面目。 旦那様の人を読む能力こそ受け継いでいるようだけれど、清濁を併せ呑む事もある商売には向いていない。 それにジョシ子爵家の本業である林業だけでも充分忙しく、副業をせねば困る訳でもない。

 ただいくらシノに才覚があっても仕事が仕事なだけに女性が一人で引き継ぐのは難しい。 情報という形のないものをやりとりするのは目に見え、手で触れる家具を売るのとは訳が違う。 信頼していない相手と商売をする人はいないし、信頼されるためには直接会うしかない。

 つまり皇国中を旅する事になる。 けれど貴族の女性の一人旅など許されない。 護衛や侍女を付けての旅となる。 当然身軽には出発出来ないし、準備もある。 何より周りの者に秘密を守る口の堅さが必要だ。

 でもサキ様なら。 あっと言う間に東に情報網を確立された手際は旦那様を密かに唸らせた。 私の家具の店も普通なら皇都で開店するには何年もかかったはず。 それをたった一年足らずでやりとげた。 それはサキ様の土地勘と人脈があればこそ。


「旦那様、シノをお褒めになって下さい。 私達に立派な息子をもう一人授けてくれたのですから」

「ふっ。 ま、そういやあ、そうかもな」

 旦那様は、あのいたずらっ子のような笑みを溢された。 もしかしたら旦那様も最初からそのつもりでいらした?

 旦那様は結婚祝いとして見事なランプを贈られた。 あの梟の彫刻は紛れもなく私の家具の店で働いている職人、トロムによるもの。 あれだけ手のこんだ彫刻となると旦那様が御注文なさったのはサキ様がデーサレケン男爵夫人と訪問なさるずっと前だ。

 だとすれば、この良縁をすぐにお許しにならなかったのさえ旦那様の作戦だったのではないか、という気がしてくる。 恋は障害が大きければ大きい程、燃えるとも言うし。 すぐにはお許しが出なかった為サキ様が東に拠点を作る事にもなった。 仕事があるとなれば、いかに遠かろうとこれからも東へお越し戴けるだろう。


 ふふふ。 旦那様らしいといえば旦那様らしい義息への後押しだ。


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