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弓と剣  作者: 淳A
北方伯
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乳母  エナの話

「そんなおっぱいで、出るの?」

 初対面から北方伯様の御質問に答えられないという失態があった。 けれど「おっぱい」とは何だか分からなかったのだもの。 仕方がない。

 普段なら私の失敗はその場でお咎めになるお父様も、その言葉は御存知なかったようで、怪訝なお顔で北方伯様を見つめておられた。 周りの御親族の皆様も同様だったけれど、タケオ様だけはなぜか天井の方にお顔を向けていらっしゃる。 すると北の方言なのかしら?

 北方伯夫人が少し慌てたようにおっしゃった。

「旦那様、お乳なら私ので間に合っていますから」

 それで初めて何を聞かれたかを理解し、未熟な私は赤面してしまった。


 乳母と御紹介戴いたけれど、巷間で子守りと呼ばれている女性が皇王室では乳母と呼ばれているだけの事。 未婚の私は子供を産んだ事は勿論、育てた事もない。

 後宮には常に乳飲み児がいるから、お乳をあげる女性なら数人は登城している。 でも彼女達はお乳係りと呼ばれており、乳母と呼ばれてはいない。

 お乳係りになれるのは出産直後の女性に限られるし、身元がしっかりした女性である事くらいは確認しているでしょう。 けれどそれ以外の特別な決まりはない。 お世話する殿下が一歳になるやならずでお役御免となる、元々厳しい審査を必要とするお役目ではないからだと思う。


 それに比べ、殿下が十歳になるまで日常のお世話をする乳母には実に様々な審査と決まり事がある。

 乳母の任期は一年限り。 必ず複数の乳母が交代でお世話する。 これは御幼少の頃ただ一人の乳母に育てられる事によって、その乳母に対し殿下が特別な感情を持つ事を防ぐ為と教えられた。

 その昔、皇王陛下に大変な影響力を持つ乳母がいたのだとか。 乳母を喜ばせる為、皇王陛下は悪政と言える程の様々な不公平をなさったと聞いている。 その再発を防ぐ為に出来たしきたりらしい。

 未来の皇王陛下となられる第一皇王子殿下ともなれば、乳母の数は常時十二人を数える。 生まれ月から月毎に一人ずつ増えていき、来年の同月に一番古参の乳母が新しい乳母と交代する。 第二皇王子殿下なら六名、第三皇王子殿下なら三名。 他は皇王女殿下を含め全て二名なので半年交代となる。


 乳母は必ず貴族の庶子から選ばれるしきたりだ。 なぜかと言えば使い捨てだから。

 殿下が十歳になってからお仕え申し上げる侍女や女官ならば任期の期限はない。 生涯お仕え申し上げる事も可能だけれど、一年の任期が過ぎた後、乳母が再びお育てした殿下のお目にとまる事は固く禁じられている。 お会いした場所がどこであろうと、この禁を犯した場合、本人だけでなく家族まで罰せられるので、任期を終えた乳母はすぐに国外へ嫁に出される。 夫は将来皇王族に会う可能性が万が一にもあり得ない平民。 だから貴族の正嫡子が乳母に選ばれる事はない。 でも貴族の庶子などいくらでもいる。 乳母のなり手を探すのに困る訳でもない。

 ただ庶子は庶子でも私の父はマレーカ公爵。 たとえ将来の国母の乳母であろうと使い捨てになる運命に変わりはないのだから、自分から希望したのでもない限り乳母に選ばれたりはしない。 正確に言えば今回私を乳母に、と御希望なさったのはお父様であって私ではないのだけれど。


 元々私の行く末はお父様がお決めになる事。 とは言え、私が将来何になるか、誰の妻となるかに関しては様々な選択肢があった。 女官になる道もあったし、嫁入り先にも事欠かない。 庶子の娘は執事や公爵軍の高位の剣士へのよい報賞にもなる。 格下の貴族なら正妻に貰いたい所もあるだろうし、国によっては王族の妾妃となって寵愛を得るのもあり得ない話ではない。

 ある意味では正嫡子より余程使いでがあるにも拘らず、お父様が私を乳母に差し出した。 これは私が北方伯の子を身ごもる事を狙っていらっしゃるからに他ならない。


 お父様は昨秋、北方伯の実兄であるサジ様へ、私とのお見合いを申し込まれた。 娘が未来の国母の伯母となれば将来女官長職を狙えるという旨みがあるだけでなく、仮に平の女官で終わったとしても後宮でのお父様の発言力を強める助けとなる。 残念ながらそれを考えたのはお父様だけではなかったようで。

 伯爵家の次男なら公爵家庶子を喜んで妻に迎えるはず、というお父様の読みは見事に外れ、サジ様はダンホフ公爵令嬢と婚約なさった。 皇国一と謳われる美女で正嫡子。 しかも巨額の持参金付きなのだから私では勝てる訳がない。

 誇り高い事では人後に落ちないお父様だけれど、ダンホフに出遅れた事は余程こたえたのでしょう。 いくら北方伯の子種が欲しくとも、少なくはないお金をかけて教育を施した私を乳母にするとは思わなかった。 この際なりふり構ってはいられないというお父様の焦りが窺える。

 確かに子供さえ出来てしまえば、その子はサリ様の異母弟妹、つまり二親等。 しかも子は母の実家で育てる事が許されるから、私が国外追放になろうとお父様にとっては充分な見返りがある。

 サリ様が皇太子殿下と御成婚なされば、その日から私の子の祖父であるお父様には皇王室の四親等としての保護が与えられ、同様の保護は私の子の曾孫に至るまで続く。 皇王室の御血筋を家に迎える事には単なる名誉だけではない実益があるのだ。


 無事妊娠出来るかどうかは賭け。 でも一年もあれば何とかなるでしょう。 私にしてみても危うく三十歳年上の夫に嫁がされる所に舞い込んで来た話なのだから望外と言ってもよい。 北方伯の若さ、容貌、肉体美は皆の憧れの的。 六頭殺し、瑞兆の父、若き大隊長という余禄がなくてさえ、女として一度は抱かれたいと夢に見るような殿方なのだもの。

 ところが直接お会いしてみれば、予想を裏切ると言うか。 何と申し上げればよいのかしら。 絶句させられる場面が多々あった。 それは初対面の日に限った事でもない。 とは言え、短所の一つや二つ、気にしている場合でもないのだ。

 子供さえ出来てしまえば私は未来の国母の異母弟妹の実母。 国外に嫁ぐ事は免れないにしても、富裕で私を粗略には扱わない夫を見つけてもらえるに違いないのだから。


 初対面では躓いたものの、毎日同じ家で暮らしていれば御寵愛は無理としても偶のお立ち寄りを戴くくらいは簡単なはず、と考えていた。 ダンホフ公爵令嬢と並び立つとまでは言えないにしても私とて美しさで奥様に見劣りするとは思えない。 胸の大きさでは負けるけれど女は胸だけではないわ。 北方伯とて所詮は男。 妻以外の女性を抱いてみたいと思うはず。

 それがどうした事か。 どのように誘っても旦那様は私の部屋を訪れようとはなさらない。 奥様が邪魔をしている訳でもないのに。 旦那様は私の事をまるで他家からお預かりした行儀見習のお嬢様として見ていらっしゃるような?


 予定は未定とはよく言ったもの。 我ながら北方伯家での毎日がこれほど驚きの連続になるとは思ってもいなかった。 まさか本当に子守りだけをする事になるだなんて。

 旦那様の子を産むという見込みが外れただけではない。 北を訪れた事のない私にとって毎日まごつく事ばかり。 北の寒さは聞いてはいたけれど、経験した事のない者にとっては言い尽くせない。 そのうえ北方伯家の日常は何から何まで私の常識の範疇外だった。


 貴族なのに父と母と子供が一緒に住み、愛玩動物がいる。

 父は仕事に出かけ、母が自ら子育てをし、それを助ける部下と奉公人がいる。

 聞いた事はあっても見た事はなかったあれこれ。 それだけではない。 主人と奉公人が同席し、食事を共にしているのだ。 各人の好き嫌いが考慮されているから全く同じ食事内容ではないけれど。 それに旦那様が一番多く召し上がっている事が多いけれど、奉公人でもお代わり自由で、旦那様より多く食べても叱られない。

「人間腹が空くと気短になるからな」

 そのお言葉を聞いた時は、さすがの私も驚愕を禁じ得なかった。 そんな理由で奉公人に好きなだけ食べさせている家があるだなんて。

 私の驚きは続いた。 洗濯、掃除、買い物、食事の準備。 お手が空いていれば女主であるリネ様が奉公人の手助けをなさる。

 家事は勿論、雪かきから畑仕事まで伯爵夫人自らなさるとは。 なぜ奉公人にさせないのだろう? 人手が足りないならもっと雇えばよいでしょうに。 現在の爵位は確かに高位とは言えないけれど、仮にも伯爵家。 奉公人がたったの数人だなんて考えられない。 お嬢様は既に将来の国母の地位を保証されていらっしゃる。 そもそも大隊長なら奉公人の二十人や三十人はいても当然では?


 全てが珍しいを通り越して信じられなかった。 夕食の席では皆がその日に起こった事、聞いた事、明日の予定や準備せねばならぬ事を話す。 そして問題があったら意見を出し合って解決する。 私が今まで経験した事のなかった不思議な世界がそこにあった。

 夕食の後の団欒では暖炉の前に家中の者が集まり、サリ様の御成長を喜んだり、昔出会った不思議な話とか珍しい物の話をする。

 旦那様はロックと共に空を飛んだ時のお話をして下さった。 面白い事に私の育ちは旦那様始め皆様にとって驚きだったらしく、実に様々な御質問を戴き、聞かれるままに公爵家の日常や宮廷での経験などを話した。


 その後、夫々寝室に下がり休む。 夜会もお呼ばれもない。 旦那様が早朝稽古を欠かさない北方伯家の朝は早い。

 稽古と言えば、奥様も毎日剣の稽古をなさっている。 背中にオークの縫いぐるみを背負って稽古していらっしゃるので、理由をお伺いしたら、サリ様をおんぶしている時に襲われた場合を想定していらした。

 そのお覚悟。 剣捌きの鋭さと力強さ。 守られるより、守る。 さすがは北方伯夫人、と深く感じ入る。


 信じられないと言えば、奥様の雪かきの豪快さも信じられなかったけれど、それ以上にフロロバがそのまま台所仕事をして手伝おうともしないのにはつくづく呆れてしまった。

 奥さんに任せとけば大丈夫だよ、とは。 男のくせに何を考えているのだろう。

 ともかく主が一生懸命働いているのに乳母の私が座って眺めている訳にはいかない。 それで一緒に雪かきをしたけれど、私では大した手伝いにはならなかった。 軽そうに見える雪があれ程重いだなんて。

 しかもその後、風邪を引いてしまい、サリ様のお世話をするどころかカナさんに私の看病をさせる羽目になり、皆様に大変な御迷惑をおかけした。


 物事には適材適所というものがあるから、とフロロバに慰められたけど、そのような事を言うなら私が適材である場所なんてどこにもない。 家事が下手なのは承知の上で、掃除、洗濯、畑仕事。 出来る限りがんばった。 働くのは楽ではなくとも自分の事を自分でするというのは意外に楽しいもの。 自らの手を使い、仕事を成し遂げた喜びは何事にも代え難い。 私の手は間もなく美しい滑らかさを失い、その代わりに逞しさを得た。


 日々が過ぎていく。 寒い日々が緩み、ついに春が訪れる。

 春は輝くばかりの夏となり、そして美しい秋の訪れ。 楽しい時は矢のように過ぎ去る。


 最初の頃こそ私は旦那様を何度もお誘い申し上げたが、三ヶ月もしない内に諦めるしかない事を悟っていた。 旦那様にとって妻とは奥様ただお一人。 それは私にとっては残念な事なのに、なぜか嬉しくもあった。


 ある晩、夕飯の後で旦那様が私にお訊ねになる。

「エナ。 乳母の任期は一年って言ってたよね。 任期を終えたら、どこかにお嫁さんに行くの?」

「そうなると存じます」

「お嫁さんになってもいつかまた会えるといいね」

「それは許されておりません」

「え?」

「任期を終えた皇王室の乳母は外国へと嫁がされます。 お育てした御方に再びお会いする事がないように」

「外国って、どこ?」

「それは私が決める事ではございません」

「あの、さ。 もし、だけど。 もし自分で自分の事が決められるとしたら、エナはどうしたい?」


 それは何と残酷な問いだろう。 けれど私が旦那様の世界を知らなかったように、旦那様は私の育った世界を御存知ない。 自分で自分の行く末を決めるなど上級貴族であればある程考えられないし、許されない。 庶子であれば尚の事。 でもここで戯れに夢を見る事くらいは許されよう。

「乳母として、いつまでもサリ様の御成長を見守っていけたら。 それ程幸せな事があるでしょうか」


 その時なぜ涙が零れたのか分からない。 子育てなんて今までした事がない私は手際の悪い事この上ない乳母で。 手伝うどころか足手まといでしかなかった。 家事もやった事がなかったし、私が生まれ育った土地ではめったに雪も降らない。 暖炉を見たのも初めての私には冬の寒さをどのように乗り切ればよいかなど、何から何まで一から教えて貰わなければ分からない事だらけ。

 なのに旦那様、奥様を始めとして、この家に住む奉公人の誰一人として私を邪魔にするとか除け者にした事はない。 私の目的は旦那様の子を妊娠する事、とおそらく旦那様以外の全員が知っていた。 それでも。


 日々の慎ましい営みだけではない。 例えば旦那様のお兄様の御結婚式にも私の席は当然のように用意されていた。 六頭杯を拝見するのも。 湖で遊ぶのも。 秋祭りやりんご狩り。 そして氷滑り。

 厳しい冬の寒ささえ、いずれ懐かしく切ない思い出となるのだろう。 どこかに正妻として嫁ぐ事になったとしても北方伯家ほどの居心地の良さは望めまい。 私にとって北での生活は夢のような日々だった。 これが話に聞く、幸せというものなのかもしれない。

 小さい時から他の誰かが決めた事に従って生き、死んでいく。 そのような現実だけを嫌という程見せられて育った。 生まれてから幸せを望んだ事などない。 そんな私に、この一年は天から下された贈り物。 この思い出さえあればこの先どんな人生が待ち受けていようと耐えられる。


 十二月の中旬、私はウィルマー執事に執務室へと呼ばれた。 次の乳母が決まったのだろう。

「エナ、皇王室よりお許しを戴きました。 サリ様が自ら女官を選ばれるまで、あなたが希望する限り、このまま乳母として勤め続けてもよいそうです」

「え?」

「将来エナが結婚しても婚家が北の地で勤続が可能ならお許し戴けるとの事」

「なんですって? どうしてそのような事が可能なのでしょう?」

 私が知る限り乳母に関して皇王庁が規則を曲げた事などただの一度もない。

「エナは有能な乳母であるので手放し難い、と旦那様が皇王陛下へ嘆願なさいました。 しきたりに縛られる事も善し悪し。 北方伯家は結局の所、皇王家ではありませんし」

 満足げにおっしゃるウィルマー執事の顔を呆然と眺めた。 しばらくして我に返り、ようやく自分にどのような幸せが訪れたのかを知る。


 そう、北方伯家は皇王家ではない。 皇王家ではあり得ない、奇跡が起こる家なのだもの。


「北方伯」の章、終わります。

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[良い点] 周回中です ああ~~~良い話だぁぁぁ…ほっこりする… >タケオ様だけはなぜか天井の方にお顔を向けていらっしゃる。 師範の顔が浮かぶようwww
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