お人払い プラシャント皇王妃陛下の話
陛下が吹き出された事を知っているのは、お隣に座っていた私、玉座のある壇のすぐ下に控えていた侍従長、そして女官長の三人だけだと思う。
他は全員かなりの距離がある所にいた。 おそらく聞こえなかったであろうし、仮に聞こえたとしても婚約式に参列していた北方伯及び親族は全て平伏していた。 誰が吹き出したのか分かるはずはない。
女官、侍従、護衛武官、式部卿は部屋の両脇に立っていたけれど離れていたし、全員陛下ではなく臣下の方へ顔を向けていた。
言い間違い自体、珍しいとは言え時偶にはあるもの。 けれど陛下が吹き出されたのは初めての事であらせられる。
ちら、と陛下に視線を送った。 何もおっしゃらない所を見ると、北方伯をお咎めにはならない御様子。 そう推察した侍従長と女官長のどちらもが一瞬呑んだ息をそっと吐き出した。 陛下はお気付きになられただろうか?
北方伯がこの日を無事に終える事を願っているのは彼の親族だけではない。 陛下をお守りする護衛武官でさえ陛下のお咎めがない事に安堵の色を浮かべている。 かく言う私も旅先で触れた北方伯の直ぐな気性を好もしく覚えており、お咎めがあらば自らの言葉に何の力もない事を承知の上で庇う言葉を紡がずにはいられなかっただろう。
式がとどこおりなく終了したので私はそのまま何も言わず、陛下の後ろに続いて退席しようとした。 すると廊下で陛下がお茶にしよう、とお誘い下さった。 そのような予定にないお誘いなど初めての事。 周囲の者はすぐに対応したものの内心さぞかし驚愕していたに違いない。
陛下に従って内庭へと移動し、冬景色も味わいの深い茶室へと入ると陛下はお人払いをなさった。 侍従長だけではない。 私の女官長や影の如くお傍を離れない護衛武官、そして書記さえ下がらせたのだ。
陛下がこれ程徹底して皆を退けられた事などかつてない。 今日はなんと沢山の初めてに会う日だろう。 私に何か秘め事でもおっしゃりたいのだろうか?
御前に差し上げられた馥郁たる香りを漂わせるお茶を召し上がるでもなく、茶室の窓から冬の日差しに煌めく池の水面をしばし眺め、陛下がおっしゃった。
「私達の子は楽しい義父に恵まれたようだね」
楽しい義父、とは微妙なお言葉と言える。 お褒めのお言葉と受け取って受け取れない事も無い。 けれどあの言い間違いの後では即座に同意するのは憚られた。 陛下のお気持ちがいずこにあるか定かではないのだから。
私は無難な答えを申し上げた。
「緊張のあまり、あのような言い間違いをするとは。 さすがの北方伯も陛下の御威光に恐れ入ったのでございましょう」
「仮に私に威光があったとしてもあれが恐れ入ったりするものか。 其方も見たであろう。 畏れなど欠片もない、あのまっすぐな視線を。 だがそこが良い」
「良い、のでございますか?」
「良い事であろうよ。 皇国にとってはね。 私にとってはどうか分からぬが」
その意味深なお言葉に僅かに目を見張る。 皇国とは陛下であり、陛下は皇国ではないか。 二つの利益が相反するなどあり得ない。 御真意をお伺いする間もなく陛下は唐突に別な話題へと移られた。
「其方は知るまい。 私が初めて北の猛虎と呼ばれる剣士に出会った日の事を」
「彼の者、御前試合での優勝者であったと聞き及んでおりますが」
「あの者に出会った事により私は畏怖には違いがある事を知った」
「どのような違いでございましょうか?」
「私への畏怖は私の地位に捧げられている。 タケオへの畏怖は彼自身へと捧げられている。 私から皇王陛下という地位を剥ぎ取ってしまえば私を畏怖する者はおらぬ。 次に皇王陛下の座に即いた者へと畏怖が移る。 だが彼ならたとえ市井の一個人となろうとも畏怖されるであろう」
慌ててはならない。 このようなお言葉が誰かに漏れようものなら陛下の御歓心を買おうと、タケオを直ちに死罪にせよ、と先走る者が出ないものでもない。 陛下自身それを重々御存知のはず。
するとこれをおっしゃりたいが為に、わざわざ書記を下がらせた?
そのようなお気遣いをなさった事も意外だけれど、それ以上に意外なのは陛下がタケオを名指しで評された事。 陛下の評はすぐさま広まる。 それを御存知でいらっしゃるだけに、善かれ悪しかれ、陛下が名指しで誰かの評をなさった事は過去一度もなかった。 少なくとも私の前では。
これは私に御心をお許しになられた証拠と受け取って良いのだろうか? それなら嬉しいけれど。 そのような御信頼をお見せになった事はなかっただけに突然の変化に戸惑いを覚える。 陛下の私に対する態度に変化はなかったし、このような会話をあるのでは、と予測させるような何かが陛下にあったとも聞いていないのだから。
陛下は私の戸惑いを無視なさるかのようにお言葉を続けられる。
「タケオはあまりに格下で。 恐れるに類する言葉を口にする事さえ叶わぬ。
暗殺未遂事件では安堵と無念がないまぜであった事よ。 六頭殺しが殺されなかったのには安堵したが。 私にとって災いの種にしか見えなかったタケオも一緒に生き残ったからね」
あまりに赤裸々なお言葉に、このまま無言でいるべきか迷ったけれど、思い切ってお訊ねした。
「私を出迎えるのにタケオを御指名なさったのは、失敗を期待しての事でしたか?」
「あれは私の考えが足りないせいで、そなたを予想外の危険に晒してしまった。 許せ。
指名自体は他の者が言い出した事だが、それを聞いた私は平民のタケオを出迎えに行かせれば必ずやどこかで失礼があろう。 その罪があれば生涯一兵士として昇進の道を塞いでおける、と考えた訳だよ。
あのような突拍子もない指名、進言する側にも当然裏があると考えるべきであった」
「それでは無事お役目を果たしたとは言え、なぜ感状を御下賜になったのでございますか? 当時は皇太子殿下であらせられましたが感状には金銭では計れぬ価値がございます。 しかもあれは二通目であったとか」
「暗殺未遂事件では先代陛下の手前があった。 出迎えではフェラレーゼ国への」
「そのお胸の内を何故、今私に?」
「そなたがタケオと北方伯をどう思ったか知りたい。 私の周りの者の忠義を疑う訳ではないが。 彼らには彼らの様々な思惑がある。 そなたにもそれがないとは言わぬが、それを言うなら私にとてある。 私は私の隣に並び立つ者の洞察を聞いておきたいのだ」
王族としてまず一番に教え込まれるのが、明確な返答を避ける事。 相手が誰であろうと。 しかしこの御下問は私が逃してはならない機会のような気がした。
陛下が私を「隣に並び立つ者」と呼ばれた。 それは戯れのお言葉ではありえない。 また結婚式を挙げたから、子を生したからという理由で呼んで戴けるものでもない。
受け取る側にとって名誉であると同時に多大な責任と覚悟を要求するもの。 そして我と共にそれらを背負うように、とのお招きの言葉でもある。
「あの二人は皇国の命運を動かすも可能な者達と申せましょう」
「それは何故か?」
「皇都への旅にて感じました。 周りが自然と動いてゆくのです。 命令を下している場面などついぞ見かけませぬのに。 命令によってのみ動き、更に申せば命令されねば動かぬ軍人を見慣れております私にしてみれば、それは誠に不思議な現象でありました」
「やはり、ね」
余計な事をお訊ねしたばかりに聞きたくない事まで聞く羽目に陥る事はよくある。 とは言え、私は陛下にお伺いせずにはいられなかった。
「陛下は彼らが将来への禍根となると思われますか?」
「最早そうは思わぬ」
最早、とおっしゃる所を見ると、以前はそう思われていた訳だ。
「陛下がお気持ちを変えられた理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「くくく。 不届きな娘、には笑わせられた。 勿論、それ故に気持ちを変えたと言っているのではない。 ただ、北方伯は面白い。 瑞鳥と共に空を飛んでいる所を見た時もそう思った。 ヴィジャヤンに向かって『父上ー、サダでーす』だからのう」
そこで陛下は典雅な茶菓子を召し上がり、懐紙でお口元を拭われる。
「そなたは現在のタケオしか知るまいが、あれは大層変わった。 初めて会った頃のタケオは怒りと殺気の塊でな。 今はそれらが静かな水面の下に沈んだような。 なくなった訳ではなかろう。 しかし少なくとも彼の目は破壊と殲滅を目指しているようには見えぬ。
まあ、北方伯のような者が身近にいれば変わりもしよう。 面白い事には事欠かぬ毎日であろうからの。 私でさえ思わず、北方伯を近衛に召し出したくなった程だ」
「それは大変なお気に入りよう」
「だが北方伯は北にこそ必要だ」
御心に葛藤があるのだとしても、それを面に出される事などない陛下は静かにお言葉を続けられた。
「猛虎の獰猛な牙が、いつか我が身に向けられる日が来ぬとは言い切れぬ。 とは言え、今は皇国を守るに有用な牙。 そう思えるようになったのは自らの気の持ち様が変わったからでもあろう。 羨む事を止めた故」
「羨む、とは?」
それはさすがに予想していなかったお言葉。
「そう、私達は普段羨まれる側。 それ故羨望や嫉妬については他の者達より知っているつもりでいたのだが。 嫉妬されるのと嫉妬するのでは大きな違いがあった。 我ながら子供のような。 これをないものねだりと言うのであろう」
「陛下には」
「全てを持っている者などおらぬ。 またそうありたいと言う訳でもない。 怖れられれば私が成し遂げようとしている事がより簡単に運ぶ、と思っただけの事よ。 いずれにしても物事を動かすのは怖れではないと気付かされた」
「怖れではない?」
「其方も彼らの周りで物事が動く様を見たのであろう? それは怖れによるものであったか?」
「確かに。 それでは陛下が成し遂げようとなさっている事は何でありましょう?」
「北の開発、と言えば近いかもしれないね」
「それは民を移動させる、という意味でございますか?」
「皇国は広い。 しかしその大きな部分を占める北の大地は何も生み出さぬまま打ち捨てられている。 特に大峡谷の向こうは寒い上に碌な食料も水もない。 人が寄り付くはずもないが、資源はあるのだ。
それで少しずつながら貴族を選んで北へと移住させようと思っていた。 けれど北へ喜んで移住したい者などおらぬ。 ゆえに恐れさせ、従わせるつもりであった。
ところが瑞兆以来、北軍へ続々と皇国中から入隊希望者が向かっているという。 全員が北に住みつく事にはならずとも自ら動いた者には無理矢理動かされた民よりも熱意と工夫がある」
「それを予想された故、瑞鳥を捕えるよう御下命なさったのでしょうか?」
「捕える事をではなく、捕えられない事を予想していたのだよ。 見つからぬ瑞鳥を探すためには何度も大峡谷へと行かねばならぬ。 それには基地を準備せねばなるまい。 水も食料も。 それが人の住む下地にもなろう、とね。 もし六頭殺しが行ったきり帰って来ぬという事態になれば、次々と捜索隊が派遣されようし。 まさか本当に捕えるとは」
そこで陛下は冷たくなったお茶をお気にかけず、召し上がった。 どうやらお帰りになる御様子。 お付きの者達を呼ばれる前に呟かれた。
「皇国皇王にさえ変え得ぬものを変える者、か。 いや、興の尽きぬ時代に生まれたものよ」
お手を叩かれ、侍従をお呼びになった時には既に常のお顔に戻られていらっしゃる。 お胸の内にあるのは喜びか、はたまた悲しみか。 私に読む事は叶わなかった。 侍従、武官、書記の一団に囲まれ、孤独が一層際立つ陛下の背をお見送り申し上げる。
私は陛下の傍らに立つ事をお許し戴けたのだろうか?
確信はないけれど、その糸口を掴んだような気がする。
思いがけなくも北方伯の言い間違いがきっかけで。




