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弓と剣  作者: 淳A
六頭殺しの若
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ぬれぎぬ  ある軍警の話

 夜も更けてから北軍の第一駐屯地より歩いて十分程度の場所で兵士の死体が見つかった。 見つけたのは駐屯地郊外にある家から通っている兵士で、事件はすぐさま軍警本部に報告された。

 被害者の背中に矢が突き刺さっている。 矢羽根にはヴィジャヤン家の家紋が付いていた。 今では知らぬ者などいない家紋だ。 思わず上官へ通報しに駆け出しそうになったが、幸か不幸か、その晩夜勤の軍警は俺しかいなかった。 死体を発見した者を尋問する事が先だ。 兵士の名と所属を書き留め、いくつか質問した。


「殺されたのは誰か知っているか?」

「オダ・スリカンスです。 第五十三小隊所属じゃなかったかな。 軍曹で。 ええっと、確か、三十過ぎだったと思います」

 事件を先入観を持って見る事は危険だが、死体を発見した者はおそらく発見しただけで事件とは何の関わりもなさそうだ。 身元がはっきりしているし、ざっとの状況を聞いた後、発見した兵士を持ち場へ帰した。 すぐに俺の直属上官であるノーラン小隊長に報告せねばならない。 だがその前に牢番に命令した。

「西の一を出来るだけきれいに掃除しておけ」

「了解」

 若がそこに入る、とは言わなかったが、牢番にはぴんと来たのだろう。 一人にだけ頼んだのにその晩詰めていた牢番五人全員が一斉にバケツ、雑巾、モップ、洗剤を掴み、かつて見た事のない勢いで一号牢の掃除をし始めた。

 どれだけ一生懸命掃除しようと、どの軍牢にも削り落とせない死臭が沁み着いている。 西の一号牢は外に通じる扉に一番近いというだけで他の牢よりましな死臭でもないのだが。


 ノーラン小隊長はどんな反応を見せるだろう? 若ファンであると聞いた事はない。 若嫌いとも聞いてはいないが。 何を命令されるか不安だったが、この状況ではありのままを報告する以外に道はない。

 宿舎でくつろいでいたノーラン小隊長は俺の報告を聞くと小さくつぶやいた。

「まずいな」

 俺と同じ事を心配したようだ。 ノーラン小隊長の上官はギャッツ中隊長で、大きな声では言えないが、若の事をやっかんでいる。 特別待遇されていい気になりやがって、と罵っていたのを聞いた事があるし、ほとんどの部下が似たような悪口を聞いているのだ。 どうやら若人気を苦々しく思っている人は自分以外にも沢山いると思っているらしく、辺りに誰がいようと声を潜めようともしない。

 まあ、軍警だって人だ。 好き嫌いがあったって仕方ない。 それに広い世間には本音を言えば嫌いだが、すごい人気だから表立ってそんな事は言えないという人だっているだろう。 しかし若人気に関しては、隠れ若ファンはいても隠れ若嫌いはそんなにいないような気がする。

 それより問題は、ギャッツ中隊長が拷問好きという事だ。 そういう意味では現職は天職と言ってもいいのだが。


 中隊長でなくとも軍警なら被疑者を拷問する事が許されている。 勿論誰彼構わず拷問していい訳ではない。 ある程度の証拠があるか、黒に近い灰色の容疑者を拷問するのが建前だ。 そんな建前、ギャッツ中隊長がちょっとでも気にされた事はないが。

 黒、白、灰色、証拠のあるなしに関係なく、いつも喜んで被疑者をいたぶっている。 罪が確定していないのにそこまでやったらまずいだろ、と思う場面だってあった。 だけど俺は上官に対してあれこれ意見を言える立場じゃない。 それにここに入れられるような奴らはどうせここで死ぬか不名誉除隊となる運命がほとんどだ。 そんな奴らのために心を痛めた事はなかった。

 しかしこの場合、どう見ても若がやったとは思えない。 絶大な人気を誇るオーク殺しの英雄だから、という訳じゃない。 あいつが、と驚くような人殺しぐらい今まで何人も見てきた。 人気者だろうと優しくて気が弱そうだろうと人は殺したい時には殺す。

 だがわざわざ自分の家紋入りの矢を使う馬鹿がどこにいる。 素矢を使えばいいだろ。 確かに呑気とか、一本抜けているという噂のある人だが、家紋入りの矢を使って殺しをする程呑気なはずはない。

 それに弓部隊でなくとも兵士なら誰だって弓ぐらい持っている。 ヴィジャヤン伯爵家の家紋入りの矢を入手するのは難しいとしても、手作りしようと思えば出来ない事ではないはずだ。 器用な奴なら素矢を買って自分で家紋を入れるだろう。 これは誰かが若にぬれぎぬを着せたくてわざと家紋入りの矢を使ったとしか思えない。

 ただ殺しにヴィジャヤン伯爵家の家紋入りが使われた事は事実だ。 ギャッツ中隊長はそれを盾に取り、若の事を徹底的に調べようとするだろう。 この事件に若が絡んでいる可能性がどんなに少なかろうと。 いきなり拷問する事さえあり得ない話じゃない。


 六頭殺しの若のような有名人が事件に関係していたら中隊長だけじゃなく、大隊長へもすぐに報告される。 そのはずだが、ノーラン小隊長がギャッツ中隊長に報告した後、ギャッツ中隊長はすぐにトーマ大隊長に報告するだろうか? しないだろうな。 もし今晩の内にギャッツ中隊長がこの事件を知ったら、若を一晩中寝かせず、ぎりぎりまで絞るような気がする。 たとえ若に言える事など何もなくても。

 そうなると知っていながらノーラン小隊長はギャッツ中隊長へ報告に行くのだろうか? 内心はらはらしていると、ノーラン小隊長が命じた。

「今すぐ若を重要参考人として拘留せよ」

「了解」

 それを聞いてほっとした。 既に寝ている若を起こすのはかわいそうだが。

 本来なら、まず出来る限りの関係者全員から事情聴取し、その後でつじつまの合わない事を言った奴らを拘留する。 けれどこの場合、そうすると明日の朝まで誰も知らない事になる。 ギャッツ中隊長なら朝、事件を知ると同時に若を拘留し、拷問し始めるに違いない。 止めが入る前に。

 だが今すぐ拘留すれば噂は夜の内に広まる。 若自身にはどうしたらいいか分からなくても誰かが若を助けるために動いてくれるはずだ。 特に若の従者。 あいつは普通の従者とは格が違う。


 ノーラン小隊長は若の拘留を確認した後、明日ギャッツ中隊長に報告する、と言ってお休みになった。 これがノーラン小隊長に出来る精一杯の時間稼ぎだ。 若の軍牢入りがトーマ大隊長の耳に届くまでどれだけかかる? 明日の午前中には駐屯地の全員が知ると思うが、ギャッツ中隊長は毎朝七時に出頭する。 拷問の最中にトーマ大隊長が入って来る事は避けたいはず。 噂がいつ大隊長に届くか分からないのだからゆっくり責めている時間はないとしても、助けが来るまで三十分? 一時間? それ以上?

 被疑者が新兵である事がギャッツ中隊長にとって有利になっている。 軍規では新兵への刑罰は中隊長が独断で決定していい事になっており、自白させる為に拷問したとしても軍規違反ではない。

 とは言え、若をかわいがっているのは将軍や上級将校だけじゃない。 平民だらけの弓部隊の連中はもちろんの事、俺のように弓に何の関係もない人間でさえ若の飄々とした人となりに魅かれ、弓の稽古を覗きに行っている。 

 何しろ流鏑馬で全的命中する。 命中しない所を見た、というのが自慢の種になるぐらいだ。 因みに俺は何回も見に行ったが若が外した所を見た事はまだない。

 なのに驕らない。 新兵と言ったって貴族で大功を上げた有名人だ。 威張ったって誰も文句なんて言わないのに誰にでも礼儀正しく挨拶する。 嘘臭い愛想を振りまいているんじゃない。 ただきちんとしているのだ。


 若人気は俺に言われるまでもなく、ギャッツ中隊長だって先刻御承知だ。 長々若を拷問している時間はないと知っているからこそ、これこそ千載一遇の機会と捉えるだろう。 後で真犯人が見つかろうと見つかるまいと中隊長にとってはどうでもよいに違いない。

 しかし若に対して下手な真似をしたら、ギャッツ中隊長だけでなく軍警全体が上からも下からも袋だたきにあうのは確実。 そこら辺を承知している人なら俺も心配しないのだが。 外傷がない拷問もあるし、心を壊す拷問もある。 それが原因で若が除隊する事にでもなったら?

 気が気ではないが、俺やノーラン小隊長では上官であるギャッツ中隊長を止められない。 トーマ大隊長でなくては。 かと言って頭越しの報告をしたら、それ自体が懲罰の対象だ。 牢番や下働きだろうと軍警所属なら同じ事。 だから俺は若の従者にそっと耳打ちした。

「トーマ大隊長に知らせろ」

 こんな夜中に大隊長が新兵の従者に会って下さるだろうか? たとえそれが若に仕えている従者であっても。 それに門番が四角四面な奴だったら従者というだけで門前払いにする可能性がある。 そうでなくとも今晩トーマ大隊長が駐屯地内にお泊まりではなく、御自宅でお休みだったら? 従者に時間外通行券は出されないから駐屯地の外へ行く術はない。


 どうなる事か、不安と共に迎えた朝。 ノーラン小隊長から報告を聞いたギャッツ中隊長が喜々として取調室という名の拷問部屋に若を連れて行こうとした。 そこにオンスラッド中隊長が駆け込んで来た。 朝稽古に現れない若を心配して中隊長自ら探しに来て下さったか。

「ギャッツ中隊長。 なぜ若を牢に入れた? 理不尽極まりない。 すぐに出してもらおう」

「オンスラッド中隊長。 越権行為は止めて戴きたい」

「どこが越権行為だ。 自分の部下の無実を主張するのは上官として当然の権利である」

「貴公はなぜ若が無罪と分かるのだ」

「貴公はなぜ若が有罪と分かるのだ」

「それを調べようとしている所だ。 こちらは忙しい。 職務の邪魔はしないでもらおうか。 それとも公務執行妨害で軍牢の座り心地を試したいのか」

「公務執行妨害だと? ふん、上等だ。 早速トーマ大隊長に報告しろ」

「私に命ずる気か。 思い上がるな。 軍警は同階級の者だろうと逮捕出来るのだぞ」

「思い上がっているのは貴公だ。 なぜまずトーマ大隊長に報告しない」

「五月蝿いっ! 新兵の処断は中隊長の権限だっ!」


 そこで怒鳴り合いが始まった。 中隊長同士だからお互い遠慮がない。 俺みたいな下っ端が仲裁に入ったって素直に聞くようなお二方でもないし。 ギャッツ中隊長が俺に、オンスラッド中隊長をつまみ出せ、と命令しませんように、と祈るだけだ。

 ギャッツ中隊長が出て行けと叫び始めたと同時にトーマ大隊長がいらした。 間に合って下さった!

 上官の前ではさすがのギャッツ中隊長も勝手な真似は出来ない。 トーマ大隊長に被害者の名、死因、家紋入り矢羽根の事を報告なさった。

「動機は分かっているか?」

「現在の所、不明です。 調査を開始しようとした所で邪魔が入りまして」

「若はどこだ?」

「西牢一号に拘留中です」

 トーマ大隊長はギャッツ中隊長だけをお連れになったが、扉を開けっ放しにして下さったので、 そこに居た全員が若の受け答えを聞く事が出来た。 トーマ大隊長の、被疑者として拘留されているのではない、欲しい物があったら牢番に言うが良い、便宜を図るよう伝えておく、というお言葉も。

 査問が上首尾に終わり、トーマ大隊長はお帰りになった。 ギャッツ中隊長が悔しそうなオーラを出している。 俺はほっとしたような顔にならないよう、気を引き締めた。

 

 ほどなくして若の言葉が証明された。 若自身は家紋入りの矢など持っていない。 

 軍医が検死した結果、背中の矢は弓で射ち込まれたというより手で突き刺されていた事が分かった。

 死亡当時スリカンスは相当酒を飲んでいたようで、九時過ぎ頃に酔っぱらって飲み屋を出たのを見た者がいた。

 遺体は十時半に発見されたが、かなりの人数がその頃若は風呂に入っていた事を証言した。

 スリカンスの身辺を洗っていると、女を巡るいざこざで、ある男から恨まれていたという情報が入ってきた。 いくらも経たずに事件の夜、スリカンスの後ろをつけるように歩いていた男の容姿が恨んでいる男と似ているという目撃者が現れた。 

 若御用達の店でヴィジャヤン伯爵家家紋入りの矢を売っているという無記名の投書もあった。


 とにかく情報が驚くべき早さで集まってくる。 普通は目撃者を見つけるのも一苦労なのだが。 どうやら弓部隊だけじゃなく、相当数の兵士が情報や証拠を見つけ出すのに駆けずり回ったようだ。

 軍警がスリカンスを恨んでいるという男の部屋を捜索したらヴィジャヤン家の家紋入りの矢が見つかった。 証拠が上がり、真犯人の尋問と検証を済ませる事が出来た。 

 その間、無実の罪でずっと入牢していなければならなかった若には気の毒だったが、一週間で釈放する事が出来たのは軍警史上最短で解決した事件と言っていい。 誰も若の無罪を疑っていなかったとは言え、冤罪により若の勇名に傷がつかなくて本当によかった、と密かに胸を撫で下ろした。


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