刺繍 サルチャート刺繍店女主人の話
サルチャート刺繍店は最初私一人で始めたんだけど、今ではすごく繁盛してお針子だけでも二百人くらい雇ってる。 亭主のラオが、これも俺の新し物好きのおかげだよな、て自慢げに言うのには苦笑いしちゃうけど。 まあ、それが切っ掛けである事は確か。
結婚前はお金がなかった所為で、ラオが新し物好きだなんて私は全然知らなかった。 新婚の頃は借金こそないけど貯金もない一からの出発だったし。
結婚してから転職して定期収入があるようになると、ラオの新し物好きは早速新しい馬となって現れた。 まだお金がきつきつの頃だもの。 馬を買うお金なんてない。 借金して買った訳。 私はすっかり呆れてしまった。
「長年の夢だったんだよー。 みんなかっこいい馬に乗ってる時に俺はよたよたの老いぼれ馬でさ。 分かってくれよー。 な?」
なにが「な?」よ。 お金を借りれば利息だって払わなきゃないし、第一新婚早々子供が出来ちゃって、いろいろ物入りなのに。 病気や事故だってある事を考えたら新しい馬よりまず貯金するべきでしょ。
一応文句を言う事は言ったんだけど。 私も甘いんだよね。 いつもは強気なラオに縋られると、さっさと返して来い、とまでは言えなくて。 結局なし崩しに新しい馬を飼う事になってしまった。
まあ、二人で稼げば返せないお金ではないし。 ラオは物を売るのが上手いことが店の主人に認められ、縫製機器販売を一手に引き受けるようになり、給金がぐんとあがった。 その上がった分を全部借金返済に回したのは面白くなかったみたいだけど、しぶしぶながらも承知してくれたし。
次にラオは服を売る商売始める気なの、と言いたくなるぐらい流行の服を買ってくるようになった。 仕事の関係で衣料の店にしょっちゅう行くし、そこで新しい服に目を留める。 しかも顔が利くから割り引いてもらえるって訳で。 箪笥という箪笥が一杯になり、でかい家に引っ越すか、服を古着屋に売り飛ばすしかない、て所まで来て、ようやく服の衝動買いは収まってくれたんだけど、それで終わりじゃなかった。 服の次は靴。 靴の次は外套。 帽子。 鞄。 結婚して十年を数える辺りにはラオの新し物好きはもう性格と言うか、病気と諦めるようになっていた。
身の回りの物を一通り買い終わり、その次に買ってきたのが、刺繍が出来るっていう最新型ミシン。 二万八千五百ルークなり。 送料別(千三百五十八ルーク)。
ちょっとー。 それって当時の私の月給の約半分よ。 ラオは私の二倍の給金を稼ぐようになっていたけど、それでも大きな買い物には変わりない。 ミシンを使って商売を始めるならともかく、趣味のために払っていいお金じゃないでしょ。
そもそもラオは縫い物関係の仕事をしているとは言っても縫い物が上手な訳でも趣味で縫い物が好きな訳でもなかった。 縫い物が趣味なのは私。 だけど私の為に買ってきたんじゃない。 言いたくはないけど、亭主って女房に高い贈り物なんて買ったりしないよね。 そんなものを買ってくるとしたら何かまずい事をやらかしたか、隠し事が隠し切れなった時のお詫びに決まってる。
たぶん一ヶ月くらいラオは毎日嬉しそうに使っていたと思う。 それが週末に一回になって、三ヶ月目に一度使った後は一度もミシンの音を聞いてない。
これが三桁、いや四桁までの金だったら私だって古道具屋に売り払ってお仕舞にしたわよ。 子供もいるのにミシン一つで切れるの別れるのって騒ぐ訳にもいかないし。
だけど二万九千八百五十八ルークもしたのに二束三文で売り払ったらしゃくに障るじゃない。 物置きに眠らせておくのも勿体ない。 と言う訳で、私が使うようになった訳。
子供はどんどん大きくなるから一々それに合わせた服を買っていたら高くつくしね。 目の肥えたラオの気に入るような服は縫えないけど、自分の服は自分で縫って間に合わせた。
その傍ら、私はミシンを使って刺繍の内職を始めたんだよね。 刺繍は下縫いから仕上げまで全部手縫いでやるものだけど、そんな事をしていたら一枚のちっちゃな刺繍を仕上げるのに一ヶ月以上かかっちゃう。
だから高貴な方々の刺繍がびっしり施された服はお金を身に纏っているようなもん。 当然庶民には手が出ない。 普段刺繍の付いた服を着る事なんてないけど、それでも結婚式とか、晴れの日には刺繍の付いた服が着たいと思うもんでしょ。
注文受けてから作るのは手間だけど、最初から柄を決めてミシンで縫っておいた物を売り始めたの。 女性向けに人気の花柄や、剣士に人気の剣や盾の組み合わせた奴とか、合計四十種類くらい。 手縫いの温かさはないけど、ちょこちょこっと自分の手で刺繍を加えれば結構見れる物になるし。
それが段々売れ始め、私が今までやっていた仕事の給金くらいは稼げるようになったんで、自宅で刺繍を売りながら子育てするようになった、て訳。
そんなある日、私にボルダック侯爵家から緊急の呼び出しがかかった。 お針係のマシバナン様という方に会って話を聞くと、何でも六頭殺しの若様の家紋の刺繍を叙爵式に間に合うように百枚仕上げなきゃいけないんですって。
「時間があれば一つ一つ手縫いで仕上げて差し上げたいところですが、何分叙爵式は一月十四日。 今ここに百人のお針子がいたとしても期日までに登城儀礼服を仕上げるのは無理なのです。 そこであなたの刺繍の下縫いを使うという案が出されました。 これがその家紋です。 一日何枚仕上げられるか、今ざっとの所でいいですから予想がつけられますか?」
それは六枚の矢羽根があしらってあるかなり凝った刺繍だった。 でも糸を用意してもらえるならミシンで背景を下縫いをするのは出来ない事じゃない。 ただ私のミシンに細かい刺繍は無理。 だからそこは手縫いで何とかしてもらうしかない。 下縫いの上に手縫いを加えれば、まるで全部が手縫いの刺繍であるかのように見せる事だって出来るし。
私はマシバナン様に、これこれこのような下縫いなら一日五枚出来ます、と申し上げた。
「それではすぐに取りかかるように。 帰る前に執事から手付金十万ルークを受け取っていきなさい。
その日に仕上がった分は毎晩ボルダック家の者が取りに行くので、納品について心配する必要はありません。 十日後に十万。 百枚全部が仕上がった所で十万。 合計三十万ルークを支払いましょう。
いいですか。 これにはボルダックの家名が懸かっているのです。 あなたにとって一世一代の大仕事と覚悟なさい。 間違いも言い訳も許されません。 何か問題があれば隠さず、すぐに報告するのです。 ボルダックの方でも援助を惜しみませんから。
取り敢えず急ぐのは百枚ですが、北方伯夫人は家紋入りの服を一つもお持ちではないのですから今後相当な枚数の刺繍が御入用となるはず。 もし今回見事納期に間に合わせる事が出来たら次の仕事もあなたに回します。 頑張るのですよ」
それからはもう、毎日死に物狂い。 ミシンは連日休みなく稼動した。
ラオにこの仕事の事を話して、子守りと料理女を雇ってもらい、それと同時に夜も働けるお針子を探して来てもらった。 三交代でがんばったおかげで何とか無事、納期を守り切る事が出来た、て訳。
儀礼服が出来上がった時、マシバナン様の御好意で北方伯様へお届けする前に見せて戴いた。 まあ、その仕上がりの見事な事。 どこからどう見てもミシンで縫った刺繍を使ったようには見えない。 しかもかかった日数はわずか二ヶ月とちょっと。 自分で下縫いしていながら信じられなかった。
ボルダックの家名が懸かっているとおっしゃっただけの事はあるよね。 ここまできれいに仕上げるには相当な人手をかけたに違いないもの。
叙爵式の後で北方伯夫人の服は高貴な方々の大変な関心を引いたって聞いた。 そんなにすぐ儀礼服が出来上がるとは誰も思っていらっしゃらなかったからでしょ。
北方伯夫人は服の事を聞かれる度に、私は不調法なもので何も分かりませんの、服の事は全てボルダック侯爵夫人にお任せ致しました、とお答えになったんですって。 それってすごくいい宣伝になってるよね。 ボルダック侯爵夫人はさぞかし鼻を高くされたんじゃないかな。
何しろ貴婦人が服を頼むとしたら今までは全てブリアネク製だった。 最新のスタイルで縫製も美しくて。 庶民の憧れだけど、なにしろ高い。
その点ボルダック製は安さが売り。 貴族の夫人でも普段着ならボルダック製の服を着る事もあるみたい。 でも儀礼服の御注文を戴いたなんて今まで噂でも聞いた事はなかった。
ところが北方伯夫人が着て以来、儀礼服やお呼ばれ、舞踏会用ドレスの御注文が次々とボルダックに来るようになった。 その皮切りは叙爵式の年の春、皇国一の美人と評判のダンホフ公爵令嬢が結婚式で着た花嫁衣装。
それにも私の刺繍の下縫いが使われた。 仕上がった物を見せて戴いたんだけど、まるでお花畑のような愛らしいドレスで。 思わず、きゃーっと歓声をあげてしまった。
北方伯夫人は舞踏会用ドレスもボルダック製をお召しになった。 その時家紋の他におしゃれな刺繍をあしらった髪飾りやスカーフを身に着けていらしたんですって。 今年はロック、次の年は狛犬、というように。 その刺繍が必ずその年の流行となる。 でも他の店に頼んだって中々すぐには同じ物なんて手に入らない。 それで私の店に皇国中から注文が殺到するようになった、て訳。
だから私の店の始まりはラオでも、店がこんなに大きくなったのは北方伯夫人のおかげなんだよね。




