厩番 馬丁、リスネバーグの話
皇王城の中には厩舎が東西南北何カ所にも分かれて何百とある。 伯爵用厩舎だけでも五十棟あるが、その中でも俺は一番正面玄関に近い厩に配置されている第一棟担当だ。 伯爵用厩舎は馬車なら二十台乗り入れ可能なように区画分けされている。 同じ爵位でも更に格付けがあり、誰がどこに乗り入れる事が出来るか予め決まっていて、第一区画は伯爵家筆頭用だ。
新興貴族なら普通は一番遠い厩舎の一番端の区画となる。 距離にして筆頭の厩舎から更に約一キロぐらい歩く。
だが北方伯が叙爵される日は俺の担当区画へ乗り入れなさる事が決まった。 第一区画への乗り入れ権利を持つミッドー伯爵が場所を北方伯にお譲りになったからだ。
その噂が広まった途端、俺の所に同僚どころか位で言えば俺より遥か上の上級貴族用厩番が次々と手伝いをさせてくれとお願いに来るようになった。
「おい、リスネバーグ。 なー、頼むから。 俺を手伝いに使ってくれよ」
「勘弁して下さい。 こんな狭い所に馬丁が百人入れる訳ないんで」
「一人くらい増えたっていいじゃないか」
「だけど誰か一人でも入れたら、どうしてあいつはよくて俺はだめなんだ、て事になりますし」
厩番にも格付けがあり、それはその厩を使う人の地位に準じている。 陛下のお厩番を頂点に、皇王室付き、大公、公侯爵が続き、そして伯爵だから、俺は軍隊で言えば大隊長付き馬丁と同格だ。 結構上と言えば上だが、上に行けば行く程お一人当たりの馬丁の数が増える。 皇王陛下のお厩番となると常時五十人以上いるし、皇王妃陛下は馬が御趣味とかで、歴代の皇王妃陛下より沢山の馬をお飼いになっているから馬丁の数も多い。 つまり俺の格上は何百人もいる。 もう、何人断ったか覚えていない。
念の為に言っておくが、この人気の理由は北方伯じゃない。 まあ、瑞鳥と空を飛んだ御方を間近に見れるというのは確かにすごいが。 北方伯は馬車を降りたらすぐ登城なさるし、その後はお帰りの時、馬車にお乗りになる前にちらっとお姿を拝見するだけだ。 わざわざ格下の厩の手伝いを申し出る程の魅力はない。
みんなの目当ては伝説の調教師、アタマークさんだ。 馬に関しては比類のない洞察力を持ち、鮮やかな手並みの調教にかけて右に出る者はいないと言われている。 馬語がしゃべれるというのは、ただの噂だろうがな。
馬と一緒に働く者にとって是非お近づきになりたい御方だ。 ほとんどの厩番は問題がある馬の一頭や二頭を抱えている。 北方伯は夕方まで城内にいらっしゃるから、その日は丸一日アタマークさんと一緒に過ごせる訳だ。 あれを試した、これもだめだった、と行き詰まった馬でも、アタマークさんなら何とか助けて下さるのでは、と期待しているからお会いしたいのだ。
彼は近衛を辞めなければ今頃厩馬庁長官を務めていた。 それは単なる噂じゃない。 俺自身、厩馬庁長官が補佐にそうおっしゃっていたのを聞いた事がある。 長官は非常に残念そうに語っていた。
「なぜ辞めるのか誰が聞いても理由を言わんし。 結局彼の気持ちを変える事は出来なかった。 自分を含め、同僚も上司も必死に慰留したのだが」
アタマークさんは、何と言ったらいいのか。 昇進の逆を行く人生を自分から選んだ不思議な経歴の持ち主だ。 聞く所によると、何でもやんごとない御方の庶子なんだとか。 御料牧場で生まれ育ち、そこでずっと馬の世話をしていた。
何代か前の皇王陛下は大変な馬好きだったとかで、調教の腕が陛下のお目にとまり、弱冠十八歳にして陛下の御馬の調教を全て任されるようになった。 陛下の御厩番なら全皇国馬丁の頂点に立つと言っていい。
でもその次の皇王陛下は馬好きという訳ではなかった。 陛下の寵という大きな後ろ盾を失ったアタマークさんは御料牧場で年上の馬丁達から嫌がらせをされ、それが原因で近衛に移ったらしい。
近衛にとっては喜ばしい事だったろう。 そこで三十年ほど務め、厩馬庁長官の地位でも望めば叶うという所まで来ていながらヘルセス公爵家へ行った。 理由は誰も知らない。
なぜ公爵家の馬丁? 確かにヘルセス公爵は代々名騎手として知られており、牧場にも相当数の名馬を揃えると聞いている。 だが厩馬庁なら万を越える馬を管理しているし、その長官ともなれば名馬がいくらでも手に入るのに。
更に訳が分からないのが、その公爵家さえ辞めて北方伯の馬丁になった、という事だ。 北軍って。 寒いだろ? それに転職したのは瑞鳥飛来より随分前の話だ。 こうなると予想して移った訳じゃないだろう。
そりゃ六頭殺しの若が大人気だって事は俺も知っていたが、そもそもアタマークさんはそんな世間の人気に踊らされるような人には見えなかった。 それに今でこそ瑞兆で大騒ぎになり、叙爵もされるが、あの頃は六頭殺しの若と言ったって、たかが小隊長。 伯爵家の三男だ。 公爵家の馬丁の地位を蹴る程じゃない。
北方伯はすぐに中隊長に昇進されたし、今では押しも押されぬ大隊長。 しかも今回準なしの伯爵に叙爵されるっていうんだから、文句なく皇国一の出世頭だ。 ロックと共に空を飛ぶのを見た後なら馬丁になりたくなる気持ちも分かるが。 その前の年にこうなると予想出来たはずはない。
昔、アタマークさんがまだ近衛にいた頃、時々若い馬丁に調教を教えてくれる事があった。 俺はその機会に恵まれた幸運な一人だ。 俺の事をまだ覚えていて下さるなら、どうして北方伯の所に行く気になったのか、出来ればそこら辺の裏話もお伺いしたいが。 何しろ無口な御方だからな。 どこまで話して戴けるか分からない。
いよいよ当日。 アタマークさんが御者となって俺の厩に来た。
まず馬に驚いた。 りっぱな馬車だし、馬車から降りた伯爵夫妻は豪華な正装をお召しだ。 なのに、なんだこの馬、と言いたくなるようなぼろ馬だ。 まさか面と向かってそんな事を言ったりはしないが。 なんとか会話の糸口を見つけたくて、俺は馬の名前をアタマークさんに聞いた。
「こいつがホマレ。 で、そいつがニシキ。 カチドキ。 イチバン」
それって名前負けもいいところだろ。 一体誰がそんな名前を付けたんだ? 馬だって恥ずかしいだろうに。 それとも外見はぼろいが、中身は名馬?
アタマークさんに聞いてみた。
「あの、速そうには見えないだけで速いんですか?」
「どれも遅いのう」
「どれも遅いって。 じゃあ、なんで遅い馬に乗っていらっしゃるんでしょう?」
「速いのだけが馬じゃあるまい」
そう言われりゃあ、そうだが。 貧乏人ならともかく、大隊長の給料と伯爵位があればオークを殺した賞金を除いても名馬を手に入れる金くらいあるはずだ。 それでなくとも北方伯の補佐って、ジンドラ子爵令嬢と結婚したマッギニス侯爵の次男だろ。
厩番でジンドラの名前を知らない奴はいない。 伯爵用厩舎ではそんなに何頭も見ないが、公侯爵の厩舎に行けば、ずらっと居並ぶ駿馬の大部分がジンドラ産だ。 娘婿の上官がちょっとお願いすれば、ジンドラだってただ同然の値段で名馬を献上するだろうに。
献上と言えば、陛下が御成婚なさった翌年、マッギニス大隊長補佐夫人がまだジンドラ子爵令嬢だった頃、皇王妃陛下に馬を献上しにいらした事があった。 その時何だか本が入っているみたいな重たい箱がいくつもあって、俺まで手伝いに駆り出された。 あれには参ったぜ。 ま、そんな事はどうでもいいが。
今日はアタマークさんから出来るだけ調教の秘訣を聞いておかないと。 次にお会い出来るのは来年だ。 勇気が要ったが、手早く自分の馬の世話をしていくアタマークさんの手伝いをしながら恐る恐る聞いてみた。
「実は、その、難しい馬がいまして。 よろしければどこが問題なのか、何を直せばいいのか、見て戴けないでしょうか?」
アタマークさんが頷いたのを傍で見ていた奴らが、わっとばかりに四方に散って行った。 知らせはあっと言う間にそちこちの厩舎に広がり、馬場にわんさか人が集まった。
調教に手こずる馬自体は珍しくない。 名馬であればあるほど気難しいとさえ言える。 普通なら大金を払って手に入れた馬を簡単に潰したりはしないが、皇王室、近衛、上級貴族となれば名馬といえどもただ同然で手に入れたか、自分で金を払ったとしても幾らしたかを気にする人はいない。
俊足の馬だから、と手に入れても調教に躓けば二束三文で売り払う。 俺から見たら手放すのはあまりに惜しい馬でも。
今、俺の手元には売りに出される寸前の馬が二頭いる。 俺より調教のうまい奴がいない訳じゃないが、そいつらにも手こずっている馬がいるから手伝ってもらおうにも限りがある。 それにアタマークさんほどの調教の腕を持っている馬丁は城内にはいない。
アタマークさんは困った癖が付いている馬を調教するコツを俺に教えながら、馬場に次々と連れて来られる一頭一頭を丁寧に見て、何頭かは自ら乗り回し、矯正して下さった。
いや、その身軽な事。 アタマークさんは確か去年死んだ俺の親父より年上だ。 なのにあの身のこなし。 当代一の名騎手と謳われるヘルセス公爵家継嗣と競っても負けないんじゃないか? アタマークさんを初めて見た厩番はみんな舌を巻いていた。
あっと言う間に時間が経ち、もうすぐ北方伯がお戻りになられる。 俺はどうしてもこの人が皇王城にいないのが残念で、現皇王妃陛下は大変な馬好きで、馬に関して造詣が深くていらっしゃることを言った。
「アタマークさんならすぐに御料牧場の長になれるだけでなく、厩馬庁長官になる事も不可能ではないと思います」
「その気はないでのう」
ふぉっふぉっふぉっと笑っただけで帰る準備をなさる。
「あのう、どうして北方伯の下へ行く事を決められたのか、聞いてもいいですか?」
「儂は馬と面白いものが好きじゃからのう。 そのどちらも揃っていたら、そりゃあ見逃す事は出来んて」
アタマークさんは何かを思い出したかのようにくつくつ笑う。
馬と面白いものが揃っている? 馬はともかく、面白いものって何だ?
そこで北方伯御夫妻がお戻りになった。 アタマークさんは手綱を握り、皇王城から退出した。
俺だって馬が好きだから馬丁になったんだ。 でも面白いものとか、そんな事は考えたこともなかった。 だからって今の自分の人生を面白くしようとか、どうしたら面白くなるのかを探そうとは思わない。
ただ思っていた以上にアタマークさんの言葉は俺の心に深く残っていたようで。 その年の秋、俺は侯爵用厩舎勤務への昇進を通達されたが、少しも迷わず辞退した。
俺の上司は理由を聞こうとはしなかった。 きっと聞かなくても分かったんだろう。 北方伯がいらっしゃる厩舎から離れるのは、人生から面白いものが、全部とは言わないまでもごっそり抜け落ちてしまうようなものだって事が。




