教師 シューウィッチ儀礼庁長官補佐の話
「シューウィッチ、どうかこのお役目を引き受けてはもらえまいか?」
ある日突然私はカイザー侍従長に呼び出され、六頭殺しの若ことサダ・ヴィジャヤン北軍大隊長に叙爵式の式次第に関する儀礼を教えてやってほしい、と懇願された。
「残念ながら簡単なお役目とは言い難い。 何しろ儀礼という儀礼を一つも知らない平民同然の方と聞いている。 実はこの件に関しヴィジャヤン相談役から、わざわざ貴重な人材を引き抜くことはしないで欲しい、というお言葉さえあった。 どうせ無駄であろう、と」
カイザー侍従長はそこでほうっと一息つかれた。
「皇王室とすれば瑞兆であるサリ様さえ迎えられるのならその父がどうなろうと知った事ではない。 だがカイザー公爵家としてはヴィジャヤン相談役の御子息の危機を傍観する事は出来ないのだ。 儀礼に関して第一人者であるそなたならば或いは、と一縷の望みに縋った不可能を承知の願いである。 失敗したとしても其方を責める事はないし、成功の暁には望むだけの報賞金を約束しよう」
儀礼典範の生き字引として知られている私が指名された事自体には驚かない。 しかし私の上司は儀礼庁長官で、その上司は宰相だ。 そしてカイザー公爵家の名を持ち出したところを見ると、これは完全に私的なお願いであって公的な命令ではない。
陛下の片腕として動いているカイザー侍従長は有能で、ここで恩を売っておけば損のない御方ではある。 だが宮廷内での実務の全権を掌握しているのは宰相であって侍従長ではない。 陛下の右腕が宰相で、それを支える左腕が侍従長、と言ってもよいだろう。 いくら侍従長であろうと部下ではない私に命令する権限はないし、儀礼庁は原則として部外者からの教授依頼を断っている。
退職間近でこれ以上の昇進を望んでいる訳でもない私にとって侍従長の覚えが目出度くなろうと無用の長物。 退職後は少ないながら生涯年金が約束されているし、蓄えもある。 報賞金が必要な訳でもないのだが、ヴィジャヤン相談役の御子息の危機となれば話は別だ。
忘れもしない。 十五年前、当時十八の私の一人娘が外遊に訪れたセライカの王子に見初められた。 私にとってはかわいい娘だが、際立った美人という訳でもない。 なぜお目にとまったのか訝しく思った。
その時ヴィジャヤン相談役が、この王子の嗜虐趣味は有名で、自国内であまりに沢山の娘を殺して問題になった為国外に蹴り出された、という事を知らせてくれたのだ。 それを知っても国交を断絶した訳でもなく、まだ犯罪を犯した訳でもない他国の王子に国外退去を命ずる事は出来ない。
私は貴族だが爵位を継いではいないので娘の身分は平民だ。 兄は伯爵だが当時の私は一介の儀礼官に過ぎない。 妻は子爵令嬢で私の義兄は子爵だが、伯爵や子爵では強力な縁故と言えず、他に伝手らしい伝手は何も持ってはいなかった。 平民なら何人殺した所で国外退去になるはずはないという読みがあったから私の娘を選んだのだろう。
家族で国外へ逃亡するか、むざむざ殺されるとわかっていながら娘を差し出すかの選択しかなかった時、ヴィジャヤン相談役がサハラン大隊長夫人に後見人をお願いして下さったのだ。 サハラン夫人は黙って見過ごせないという義侠心だけで、縁もゆかりもない娘の後見役をお引き受け下さった。
皇王陛下御幼少の頃よりの御親友として有名なサハラン大隊長は、翌年近衛副将軍を拝命する事が決まっており、将来近衛将軍となられる事が約束されている。 又、サハラン夫人はアイデリエデン王国の王女様。 仮に夫が近衛将軍でなかったとしてもセライカに圧力を掛けようと思えば掛けられる御方だ。
サハラン夫人は娘のために御紹介状をお書き下さっただけではない。 夫人自らセライカ王子への面会を申し込んで下さり、後見している娘の行く末が気にかかるので時偶お宅にお邪魔する事を許して欲しいとおっしゃって下さった。
「勿論王子様のお邪魔にならぬよう、御不在を確認してから参りますわ」
それは自国を蹴り出された王子に何よりの脅しとなった。
翌年セライカの王子が風邪をこじらせて亡くなった時、私の娘がまだ生きていたのはサハラン夫人という強力な後見人がいたからに他ならない。 私にとってヴィジャヤン相談役とサハラン夫人は娘の命の恩人だ。 しかしどちら様も私からお礼を受け取る事を御遠慮なさり、今まで御恩をお返しする機会に恵まれずにいた。
難しいお役目なればこそ私がやる意味もある。 それでこのお役目を引き受けた。 とは言え、自分がどれほどの困難に直面する事になるか、正確に把握していたとは言い難い。
儀礼が煩雑であることは認める。 だがその一方で手順が全部決まっているのだ。 覚えられる者にとってはこれ程楽なものはないとも言えよう。
では覚えられない者はどうなるのか? 死んでもらうことになる。
厳しすぎると言うのか? 儀礼の手順が決まっていないために無礼者と百名が断罪されるのと、儀礼の手順を覚えられないために十名の者が罰せられるのを比べれてみれば良い。 手順が決まっているおかげで九十名の命が救われた事になるではないか。
それを詭弁だと言う者は歴史を紐解いた事がないのであろう。 儀礼典範が出版される前には不敬罪によって投獄され獄死する者が毎年二百人前後いた。 ところが出版後その数が二十人前後にまで減っている。 それが良い証拠だ。
儀礼典範は今では三千二百六十一冊あり、儀礼官でさえ基本の五十冊の他は自分の職務に関係した四、五冊と、関連する二十冊程度を読んで覚えるのがせいぜいだ。 全部を覚えている者などいないし、読んだ事のある者さえおそらくいないだろう。 私以外は。
まあ、一日一冊読めば十年かからずに読み終える量だ。 十八歳で出仕し、勤続四十年になる私には難しい事でもない。 因みに私はほぼ全冊を暗記している。
私の指南は厳しい事で有名だが、それは厳しくなければ必ずや後で問題にしようとする者が現れるからだ。 けれど私はどうすれば問題にされないか、というコツも知っている。 北方伯にはその最低のレベルを習得してもらえばよい、とやや楽観的に考えていた。 完璧を要求するつもりは最初からない。 出来ないはずはなかろう、と。
しかしお会いしたその日、あまりの救いようのなさに私は唸った。 いくらなんでもこれはひどい。 陛下の御前に進むのに八十六歩数えるように、と言ったら八十五歩だったり八十七歩だったりする。 決して本人にやる気がないとか、覚える気がないという事ではない。 要するに賢くない為、数え間違いをしているのだ。 まさか数を数えるところから教えろと言うのか?
私は北方伯が不敬罪で投獄される事を覚悟した。 すると側で北方伯の間違いを見ていたウィルマー執事が、八十六歩の長さの紐を持って来て床に置いた。
「旦那様。 八十六歩はこの長さです」
それ以降、北方伯は紐がなくても間違いなく八十六歩の位置で止まれるようになった。 私には八十六歩の長さの紐を見て正確にその長さを覚える事など出来ない。 その方がよほど難しいだろうに。 一体そんな事が出来る人が他にいるのか?
ともかく重要なのは正確な距離を動く事であり、動くべき距離をどのようにして覚えたかではない。 ウィルマー執事はそのように私が出す指示を全て主が覚えやすい形に翻訳していった。
例えば北方伯が言うべきセリフは決まっている。 それを全て大変小さな文字で紙に書き留め、隣にいる夫人の服の襞裏に縫い止める、という風に。 あんな細かい字がどうして読めるのか、私にはそれも不思議だったが。
そして儀礼の手順は口で説明したり暗記させるより、ウィルマー執事にお手本をやらせ、それを北方伯に見せて真似させるというやり方にした。 言葉で言われた事を覚えるのは苦手な北方伯だが、一度見た事はかなりの精度で覚え、忘れないからだ。
これらの工夫が効いて北方伯は驚くべき早さで儀礼を習得していった。 二ヶ月後には、生まれて初めて陛下に拝謁したため緊張している、と誤摩化せる程度の形になっている。
北方伯夫人の方は陛下の御前で話す必要はない。 ぎこちないながら拝礼の手順を何とかものにされたから大丈夫だろう。 ただ叙爵式の後、慣例で自分より位が上の貴族に御挨拶せねばならない。 はっきり言ってそこまで練習している時間はなかった。 少々不安が残るが、タケオ大隊長夫人が北方伯夫人のために無難な受け答えをいくつか御用意下さったし、その場には御親族の方々がいらっしゃる。
人事を尽くした。 後は天命を待つのみ。
どれ程必死に努力しようと、たったの二ヶ月やそこらで習得出来る量ではない。 何か一つでも不測の事態があればぼろが出るだろう。 けれど不思議な程私の中に恐れはなかった。
短期間ではあったが、毎日接する事により北方伯のお人柄に触れたからでもあるが、それだけではない。 何と言うか、北方伯は意図せず自然と幸運を呼び寄せる御方なのだ。 無傷のオークの甲冑を近衛将軍に献呈なさった事にしてもそうだ。
「俺の補佐に甲冑をあげようとしたら、叔父さんが持ってないのに自分が貰う訳にいかないって遠慮するからさ」
どうやら北方伯は当日の警備兵配置を采配するのはマッギニス近衛将軍である事を御存知ない。 第一、甲冑を献呈なさったのは自らの叙爵を知る前だ。 叙爵を予想して献呈したのではないだろう。
マッギニス近衛将軍がどれほど恩義を感じていらっしゃるかは分からないが、細かい間違い程度なら見て見ぬ振りが出来る者を要所に配置して下さるはず。 侍従や侍女の配置に関してはカイザー侍従長がお心配り下さる。
北方伯夫妻は一つか二つでは収まらないくらい手順を間違えるに違いない。 それがお咎めを受けずに済む程度のものである保証はないのだが。 北方伯の強運を以てすれば何とかなるのでは、と思う。 いや、思いたい。
一月十四日の朝、教師の真摯な祈りを背に受け、北方伯夫妻は叙爵式、続いて行われる婚約式へと臨まれた。




