夫婦喧嘩
弔問からの帰り道、雪は少し降ったけど吹雪にはならず、俺は当初の予定通り二十日後、家に帰り着いた。
オスティガード第一皇王子殿下とサリの婚約をリネに言うのは気が重かったが、言わずに済む事でもない。 倒れられたらまずい。 そう思って寝室に連れて行ってからこの事をリネに教えた。 するとリネはちょっと目を見張ったものの思ったより冷静で。
「あのう、旦那様。 それでしたらこのまま私がサリの面倒を見ていてもいいんでしょうか?」
「は?」
「今はまだ赤ちゃんだし、どっちにしてもお乳をあげなきゃいけないから許してもらえるかもしれないですけど。 将来皇王室へお嫁さんにいくなら沢山お勉強とかしなくちゃいけないんですよね? 私じゃ何を教えていいのか分からないです」
「あー、そうだよな。 俺だって分かんないし。
そういえばサガ兄上が皇王室から乳母が派遣されるって言ってたな。 叙爵式の時に紹介されて一緒に北へ帰る事になるだろう、て」
「乳母、ですか。 まあ。 じゃ、その人も子供を産んだばかりなんですか? 子連れで来るのかな?」
「うー、分かんない。 ま、亭主と子供の三人で来たとしても部屋数はあるし」
「そうですね」
リネって案外しっかりしてるんだな。 俺なんかぶっ倒れたのに。 ま、落ち着いて話せる方が助かるけどさ。
「でね、俺、伯爵になるんだって」
「あれ? 旦那様って、大隊長だから伯爵になるのはもう決まっているんですよね?」
「いや、大隊長になると貰うのは準伯爵。 今度もらうのは伯爵」
「何が違うんですか?」
「準が付いてると子供は平民。 付いてないと子供も貴族になる。 で、領地がもらえる予定」
「そんな違いがあったんですか。 全然知りませんでした」
「うん。 でさ、叙爵式っていう皇王陛下から爵位を貰う式に出なくちゃならないんだ」
「大変ですねえ。 がんばってください」
「何を言ってんのさ。 他人事みたいに。 リネも一緒に出るんだよ」
そこで初めてリネの顔色がさっと変わった。
「独身なら一人で出席してもいいけど、結婚してる時は妻を連れて行くものなんだって」
「それって、あの、私なんですか?」
「俺の妻はお前だろ」
「で、でも。 そういう晴れがましいお式には、ちゃんとした奥様を連れて行った方が」
「ちゃんとした奥様って誰さ? 俺に奥さんは一人しかいないけど」
「いえ、その、身分のある方とか」
「なんだよー、リネ。 俺に貴族の妾を貰えって言いたい訳?」
リネがそんなつもりで言ったんじゃないことくらい分かっている。 でも俺はなんだかむしゃくしゃして。 八つ当たりって言うか。 ついそんな意地悪を大きな声で言った。 陛下の御前に出るという大変な目に俺だけあわせて自分は逃げようってか、と思ったせいもある。
「え、そ、そういう訳じゃ」
「じゃどういう訳? はっきり言ってくれよ。 俺、意味分かんないから」
「えっと、あ、あの、その」
リネはもごもご何か意味のない事を言ったかと思うと、わっと泣き出して部屋から飛び出した。
あ、まずい。 泣かせちゃった、とは思ったが、いらついて後を追いかける気にはなれなかった。
ふん。 大体何だよ、ちゃんとした奥様って。 リネほどちゃんとした奥様なんて他にいないだろ。 ふてくされて窓から外を見たらリネが一目散に厩に向かって走って行くのが見える。
え? 何しに厩?
そこではっと気がついた。 これってまさか、以前リッテル軍曹に教えられた夫婦喧嘩じゃないだろうな?
ええっと。 なんだっけ。
そう、夫婦喧嘩は後で考えたら何が原因かさえ覚えていないような些細な事で始まる。
次に妻が怒るか泣くかして、実家に帰らせて戴きます、と家出する。
最後に夫が、全て俺が悪うございました、と謝って決着を見る。
それを教えてもらった時のリッテル軍曹との会話を思い出した。
「ま、夫婦喧嘩と一口に言っても色々ありますがね。 夫が謝らんうちは纏まりがつかない、てとこだけは変わりません。 それは夫が悪い悪くないに一切関係ない。 そこん所、きちんと押さえておいて下さい」
「それなら最初にさっさと謝ってしまえばいいじゃないか」
「今のその言葉を肝心な時に思い出すんですよ。 それが運の分かれ目ってやつで。
喧嘩の最中は頭に血が上ってその当たり前の事が見えなくなる。 すぐに謝ってケリをつける基本が身につくのに並の奴で三年、てとこですか。 物覚えの遅い奴は痺れを切らした女房に逃げられ、嘆き節を歌うって訳で。
大隊長は物覚えが早いって訳でもなさそうだから気を付けた方がいい」
そう警告された事を思い出した。
まさかリネ、実家へ逃げようとしている訳? そ、それはやばいっ!
うわーっと叫びながら、俺は慌てて二階から駆け下り、リネの後を追いかけた。
幸いいつもは素早いアタマークが、まるで心得たかのように時間稼ぎをしてくれていて。 リネはべそべそ泣きながら馬の準備を待っている。
ごめんね、ごめんね、と何回も謝って宥めすかし、ようやくリネを家に連れ戻した。 でもちらちら玄関の方を見たりして、今にも飛び出していきそうな感じ。 これはもう、奥の手、必殺泣き落としを使うしかない。
急いでリッテル軍曹が伝授してくれた三大重要ポイントを心の中で繰り返す。
一、めったに使うな。 効果がなくなるから。 二、三年に一回が理想。
二、その時妻に約束させた事を忘れるな。 後でさりげなく繰り返せ。 自分が何を言ったかは忘れていい。
三、仲直りは床の中、ここ一番の濃いやつで勝負しろ。
俺はリネを抱きかかえるようにして寝室へ連れ込んだ。 私じゃ無理ですう、とかなんとかごちゃごちゃ言っていたが、全部無視。 ぱぱっと思い切りよく服を脱ぎ、リネのもさっさか脱がせる。
季節的には湯たんぽが欲しかったが、そんな悠長な事を言っている場合じゃない。 えいやっという気合いでお床に潜り込んだら、ありがたい事に湯たんぽがもう入っていた。 おお。 なんて気が利く。
ほっと落ち着いて優しくリネを抱きしめる。 そして俺にはリネがいなけりゃだめなんだと言ったら、別な人を見つけて下さい、とか情けない事を言われ、思わず涙がぽろっと零れた。
それから後は何を言ったかよく覚えていない。 俺を見捨てないでくれとか、俺達はいつも一緒だろ、みたいな事を囁いたような気がする。 ま、忘れていいと言われていたから自分が何を言ったかなんて気にしない事にした。
初めてやったからかもしれないが、泣き落としには抜群の効果があった。 俺の涙を見た途端リネが慌てふためいて。 ごめんなさいとか、死ぬ気でがんばります、逃げませんから、と言い始める。 すかさず家出は絶対しない事をしーっかりと約束させ、その後とびっきりの熱い仲直りで締めくくった。
よしっ! 明日念を入れておく事を絶対忘れないぞ、と心の中で誓って一息ついた。
いやもう、どーっと疲れたぜ。 湯たんぽのおかげで寒い思いをしないで済んだけどな。 カナとトビは用事で外出していたから、これはフロロバだ。
夕食の給仕をする時、訳知り顔でフロロバがそっと囁く。
「ぎりぎりセーフでしたね」
なんだよ、湯たんぽを作っている暇があったならリネを止めてくれればいいのにとは思ったが、湯たんぽを入れておいてくれただけでもありがたいと思わないと。 夫婦喧嘩に口出しするのは気が引けるよな。 夫婦喧嘩は犬も食わない、という名言もあるらしいし。
道理でリネを止めるくらい朝飯前のケルパが、涼しい顔をしてリネの後を追いかけて行く俺を見ていた。 夫婦の揉め事は自分達で何とかしなくちゃいけないものなんだろう。
それにしても本当に危ない所だった。 今リネに実家に帰られたら連れ戻しにミルラック村まで行っている暇なんかない。 だからって放っておいたら俺は離縁したくなくても離縁しろという圧力が皇王庁辺りから来たと思う。 正妻なのに叙爵式に出席しないとはけしからん、て感じで。
そもそもリネだって俺と一緒に特訓しなきゃまずいだろ。 皇王陛下の御前で失礼があったりしたら首が飛ぶとまでは言わないが、かなり面倒な事になるのは確かなんだ。
この夫婦の危機を乗り切れたのはリッテル軍曹の貴重な助言のおかげだから後できちんとお礼を言って酒を贈っておいた。 それにしても一度も結婚した事ないくせに、リッテル軍曹はどうしてこんなに詳しく夫婦喧嘩の内情を知っていたんだろ?
考えてみればリッテル軍曹だけじゃない。 フロロバだってアタマークだって一度も結婚した事がない奴ばかりじゃないか。 どうやら夫婦の事は結婚した者にしか分からないと思うのは間違っていたみたいだな。
ともかく周りのさりげない心遣いがあったおかげで初めての夫婦喧嘩の方はなんとか丸く収まった。 しかし次の日から早速宮廷儀礼の練習が始まった。
初日から、こんな面倒くさい事をこれから二ヶ月もの間やらされるのかよ、と泣き言を言いたくなった。 うんざりして逃げ出したかったが、残念ながらカイザー侍従長より派遣された儀礼の教師、ハレ・シューウィッチ先生は容赦ない。 おまけに家族が一丸となって俺とリネが逃げ出さないよう見張っているんだ。
時々トビが用事でいない時があるから、その時に嘘をついて練習から逃げ出そうとしたら。 シューウィッチ先生の傍で俺の嘘を聞いていたケルパが、ぶーっ、ぶーっと変な音を出し始めてさ。 本当に行かなくちゃいけない時には何も言わないのに。 今ではみんな俺の予定を俺よりケルパに確認するという始末。
そりゃ周りが焦る気持ちも分かる。 自慢じゃないが俺は何かを覚える事にかけてとろい。 なのにこれは賢い人でさえ十年がかりで習得する事だ。
という事はさ、二ヶ月間寝ないで頑張ったって覚えるなんて無理なんじゃないの? やらなくてもいいとまでは言わないけど。
そんな俺の心の中を見透かしたかのようにシューウィッチ先生が釘を刺す。
「やっても無駄、どうせ覚えられないなどとは決して思われませんように。 努力は報われるものです」
こうして特訓は日に日に激しさを増していくばかり。 俺達夫婦は毎朝毎晩お互いの顔を見つめては、ながーいため息をつくようになった。
矢の様に素早く過ぎ去っていった日々が突然のろのろと全然進まない。 朝起きてからなかなか昼にならないし、昼を過ぎると夕飯の時間がいつまで経ってもやってこない。 夕飯の後だって訓練が待ち受けている。 ひたすら就寝の時間が来るのを待つしかない。 でもシューウィッチ先生の特訓の夢を見た後では寝るのさえ待ち遠しいとは言えなくなった。
ただ時間というのは有り難いもので、どんなにのろくともいつかはその日に辿り着く。
明日は叙爵式。 間違えずにやり遂げられる自信なんかない。 だけど仮に不敬罪で死ぬ事になったとしても、これでシューウィッチ先生の特訓が終わりを告げた事は確かなのだ。
最後のおさらいの後、リネが深い喜びに目を輝かせて言った。
「とうとう!」
「うん!」
万感胸に迫り、互いをぎゅっと抱きしめる。




