女官長 ダンホフ公爵の話
「旦那様、ヴィジャヤン大隊長が伯爵に叙せられるとの事です」
豪壮な彫刻と美しい飾り石が敷き詰められた中庭を見渡せる重厚な公爵執務室で、私は侍従長であるソブラズマの報告を聞いた。
ダンホフ公爵家の本邸はダンホフ領にある。 皇都にある邸は数多ある別邸の一つに過ぎないが、皇国の金融を牛耳ると言われるだけあって贅を尽くしたもの。 しかし室内外の美しさは私の苦い後悔を少しも消してはくれなかった。
先の先を読む事で知られるダンホフがこれ程読み違えるなど、かつてあっただろうか? 御先祖様が怒りの余り墓から戻って来そうな失態だ。
腸が煮えくりかえるが、この怒りをソブラズマに吐露する気はない。 共に育った信頼する侍従といえども主従の関係だ。 気安く感情の全てを吐露してよいものではなかろう。 特にその感情が己を苛むものであればあるほど。
六頭殺しの若の噂を最初に聞いた時、伯爵家の三男と聞いて面白いと思っただけで終わらせた間違いは重ね重ね悔やまれる。 あの頃ならダンホフ公爵令嬢をくれてやると言えば、たとえ正嫡子のユレイアではなかったとしてもヴィジャヤン相談役は天にも昇る気持ちになったに違いない。
その翌年バンジが殺された時、若にしろタケオにしろ、只者ではないと思ったのだ。 なぜ己の直感を信じなかったのか。 金銭的に様々な便宜を図ってやっていたバンジが殺された事を残念に思っただけで、若を、ましてや平民のタケオをユレイアの結婚相手に、などとは欠片も考えなかった。
今にして思えば、あれは私の誤りを正す最初で最後の好機。 その後若とタケオは皇王妃陛下のお出迎えを見事にやり遂げ、これは是非とも若を婿にせねばと仲人を差し向けたら、なんともう結婚していると言う。 相手は平民とは言え、猛虎の妹。 それでは離縁しろと迫る訳にもいかない。
若の兄、ヴィジャヤン伯爵はとっくの昔にヘルセスに取られている。 あんな馬公爵にさえ先を越されたかと思うと返す返すも忌々しい。 ヘルセスが娘をヴィジャヤン伯爵にくれてやると聞いた時には何を血迷ってと思ったのだが。 ヘルセスめ。 全く運のいい奴だ。
それにしてもタケオが我が家に滞在していた時、ユレイアがタケオを射止める事に失敗したのは予想外であった。 あの美貌と持参金を以てすれば男を釣るなど容易い、と侮ったのが敗因だ。
ユレイアは確かに美しい。 しかし美しすぎて冷たい人形のように見える。 男に媚びるなどした事はないのだから無理もない。 宮廷で生活するなら表情を隠す事は必須だし、微笑みなど見せずとも男は向こうの方から花に群がる蜂のように寄って来る。
皇王室に望まれる、或いは他国の王族に嫁する場合に備え、陛下の気の引き方なら学んでいた。 後宮の人間関係の対処に不可欠な洞察力と政治や文学を語る時の機知もある。 他の寵妃との駆け引きも上手くやれたに違いない。
美しく賢い皇王妃と讃えられるための資質ならいくらでもあるユレイアだが、高貴の生まれでもないタケオがそんなものを有り難がるはずはなかった。
落ち着いて考えれば私でなくとも分かりそうな事だが、それなら一体タケオはどんな女が好みなのか。 それが分かっていなかった。 調査報告書を読んだ限りでは、どれ程誘われても素人の女に手を出した様子はない。 貴族軍からの勧誘は勿論、そちらこちらからの見合い話は全て断っている。 女は偶に買っていたようだが、馴染みは一人もいないらしい。
それがグゲンの娘に攫われるとは。 まさに青天の霹靂。 挨拶くらいは交わした事があるはずだが、グゲン侯爵令嬢と聞いても顔さえ思い出せなかった。 新年の舞踏会で一緒に踊った事がございましょう、とユレイアに言われてようやく思い出したが。
頭が空っぽとまでは言わないが、金融市場の事など何も知らない、ぽわんとした印象の地味な娘だった。 グゲンの資産は他の侯爵と比べてさえ並でしかないし、本人に社交界で目立とうとか、皇王室に嫁ごうという野望があるようには見えなかった。 侯爵令嬢なら皇王室に望まれる事もないではないが、その場合でも第二か第三皇王子の妾妃がせいぜいだろう。
私には妾に産ませた娘が何人もいる。 ああいう平凡な娘が好みと知っていれば似たような娘を用意する事くらい簡単だったのに。 そもそも最初から妻候補をユレイア一人に絞らず、何人か異なったタイプの娘と引き会わせておけば良かったのだ。
己以外に誰も責めようがない失態。 取り返しのつかぬあれこれを愚痴った所で時間の無駄だ。 それよりこれからの事を決めねばならぬ。
六頭殺しが伯爵に叙せられるという事は、生まれたばかりの娘を皇王室へ迎える為の布石だろう。 妾妃なら準伯爵の娘だろうと構わないのだから正妃に望まれているのは間違いない。 年頃の皇王子殿下は何人かいらっしゃるが、叙爵までするとなるとオスティガード皇王子殿下の正妃というのが一番可能性が高い。
未来の皇王妃陛下の母上や義伯母となる地位を逃した事は痛恨の極み。 だからと言ってユレイアを皇王陛下の妾妃として後宮に差し出すつもりはない。 それは間違いの上に間違いを重ねるようなもの。
仮に寵妃となり、陛下の御在位中は多少の便宜を図ってもらえたとしても、妾妃が何人子供を産もうと皇王位を継ぐ事はない。 彼らはいずれ臣下となって母の実家に金の無心に来るだけの存在となる。 そんな馬鹿な目にあうために、たった一人しかいない正妻の産んだ娘を使ってはいられぬ。 ユレイアには是非ともダンホフの家名を盛り上げる為に一役買ってもらわねば。
アイデリエデンの王子になら打診されている。 しかしアイデリエデンでは王子の内の有能な者を次の王に選ぶ。 第一王子だから王になるとは限らない。 正妃が産んだから優先権がある訳でもない。 現在十四人いる王子の誰が次代の王となるかは来月の天気を予想するも同然。 戴冠式の日になってみないと分からないと言っても過言ではないのだ。
近隣諸国には何人もの王族がいるが、たとえ王族だろうと後妻や妾妃として輿入れさせる気はない。 すると国内貴族を考えるしかないのだが。 大公家や公爵家の継嗣という継嗣は全員正妻を貰っているか、既に婚約者がいる。 唯一の例外がヘルセスだ。
ヘルセス公爵家継嗣なら家柄に不足はないだけでなく、ヴィジャヤン伯爵の義兄でもある。 何もなければ誰でも飛びつきたくなる結婚相手だが、あの継嗣には皇王妃陛下の愛人だったという嫌な噂が付きまとう。 適齢期なのに誰とも婚約さえしていないせいで更にその噂を煽っている。 表立って口にする者はいないものの、噂が皇王陛下の耳に届いていないとは保証出来ない。 それが御不興の元とならぬものでもないし、仮に根も葉もない噂だったとしても両陛下は噂を煽らぬためにヘルセスを遠ざけようとなさるだろう。 娘を嫁にやったためにダンホフまで遠ざけられる事になってはたまらぬ。
では公爵の孫を狙う? それなら婚約が決まっていない者もいる事はいる。 けれど爵位を継ぐかどうか決まっていない上にユレイアより年下だ。
侯爵家継嗣という選択もあり得るが、残念ながら姻戚関係を結びたいと思えるような有力な侯爵家の継嗣は全部相手が決まっている。 そこそこの家柄で我慢するしかない。
いっそのこと家柄には目をつぶって軍人を選ぶか? そうは言ってもどの軍人が未来の将軍になるかなど、アイデリエデンの王より予想し難い。 未婚の将軍、副将軍などいないし、大隊長も同様だ。 すると数百人いる中隊長の中から選ぶ事になる。
ふーむ。 どれも選択として今一つ。
ならば後宮で女官長になる道を探るのはどうだ? 女官長への道も平坦ではないが、ユレイア程の頭脳、ダンホフの後ろ盾があれば問題なく女官長を務める事が出来るだろう。 実務を掌握しているから皇王妃陛下に勝るとも劣らぬ権力を振るう事も可能だ。 それだけに何にも増して必要なのが皇王妃陛下の御信頼。
現皇王妃陛下の周りは既にフェラレーゼから来た女官長と侍女で固められている。 狙うとしたら次代の皇王妃陛下の女官長だ。 ユレイアの年では平の女官として始めるしかないのだからそれはいいとして、問題はサリ様の御信頼をいかにして勝ち得るか。
「ソブラズマ。 ヴィジャヤン伯爵には六頭殺しの他にもう一人弟がいたはず。 急いでその弟の事を、特に女関係を詳しく調べよ。 婚約者がいるか。 いたらその女性はどこの誰か」
「御意」




