りんご ネシェイムの話
タイ・ネシェイムと彫られた名札が百番目に下げられた時、俺は三十を越えていた。 念願の百剣入りを果たしたとは言え、百剣は剣を握る、いや、握らなくとも北軍兵士全員の憧れだ。 そこに辿り着いたからと言って鍛錬が終わる訳じゃない。 それどころかそこから厳しい稽古が待ち受けていると言ってもいい。
初めて百剣に入ったばかりで俺は落とされないよう必死だった。 五つになる息子のタカの具合が昨日からよくないと知ってはいたが、子供が病気する度に稽古を休んでいたら、あっという間に他の奴らに蹴り落とされる。
その日、俺はいつも通り稽古に行った。 それから通常任務について三時過ぎ、今日は早めに帰ろうと準備していた所に近所のおじさんが駆け込んで来て、タカの急変を教えてくれた。 すぐに帰ったが、家に着いた時にはもうタカは冷たくなっていた。
なんてあっけない。 悔し泣きしたい気持ちはあったが、泣いて子供が戻って来る訳でもない。 そもそも病気で子供が死ぬなんて珍しくもない事だ。 剣の稽古にかまけて少しも子供の世話をやっていなかった事は確かだが。 じゃあ稽古しないで看病してたら死ななかったのか? 医者でもあるまいし。 俺にどうやって病気を治せと言うんだ。
と、女房に面と向かって言った訳じゃない。 ただ普段から無口な俺だ。 一体何と言って女房をなぐさめればいいのか分からなかった。
まあ、夫婦なんて理屈じゃないしな。 タカを埋葬した後、女房が別れたいと言った時、俺はただ頷いた。 俺達夫婦の間の共通点と言ったらタカだけだ。 それがなくなったら一緒に住む必要もない。 金を二等分し、その他に女房には家をやり、俺は軍の単身者用兵舎に入った。
兵舎はにぎやかで気がまぎれたし、稽古場の近くだからいろいろ便利だ。 ただ若い兵士ばかりの所為か兵舎の周りの庭木に気を遣ったりする奴はいない。
不思議なものだ。 自分の家に住んでいた時には一度も庭木をいじった事などなかったくせに、兵舎の庭の寒々しさが妙に気になった。 なんとなく自分の心の中を覗いているみたいな感じがしたのかもしれない。
独身になれば時間は結構ある。 兵舎に住めば飯、掃除、洗濯、風呂は全部用意されているか当番だ。 当番は全部新兵がやらされているので俺がやらなきゃいけない家事は特にない。 それで俺は庭いじりを始めた。
まず雑草を抜いたり、剪定したりした。 それから適当な場所を選んでりんごの木を何本か植えた。 タカの好物がりんごだった。 今更食べさせてやれる訳でもないが、生きている時には何もしてあげなかった父親だ。 せめてこれくらいの供養をしてあげたかった。
徐々にモクレンとかの寒さに強い花の咲く木や、ハスタ、芙蓉、あじさい、菊、バラの類を植えた。 花があると和む。 兵士の食料のための畑は別にあるが、これは食料じゃなく単に見て楽しむだけのものだ。 りんごは食べられるがな。
せっかく植えたんだから面倒見てやんなきゃかわいそうだ。 それに面倒を見てやればやっただけちゃんと返ってくる。 こうして俺の余暇という余暇は全てりんごと庭の世話に使うようになった。
百剣とは言っても九十位以下はしょっちゅう入れ替わる。 俺は何年もの間入ったり落ちたりを繰り返し、去年辺りからようやく落ちないようになれた。 だが北の猛虎じゃあるまいし、俺はここらで頭打ちだ。 上がった所で八十番代がいいとこだろう。
今考えると、なんで一日や二日、病気の息子の側にいてあげるくらいの事が出来なかったんだと思う。 庭木と同じくらい息子の面倒を見てあげていりゃ女房にも逃げられずに済んだろうに。
息子だけでなく女房だって一緒になってから何かをしてやったという覚えはない。 給金は全部渡していたが、家の事は任せっきり。 偶に早く帰る日があったって飯の支度を手伝う親切心なんか持ち合わせていなかった。
水も肥料も貰えず放っておかれりゃ庭木は枯れておしまいだ。 そんな簡単な事が分からなかった。
後悔はある。 だけど過ぎた事は変えようもない。
何年かしてりんごの木に実がたわわになると俺が育てたりんごは蜜が入っていてうまいと評判になり、更にそっちこっちに植えるようになった。
そんなある日、若が東に弔問に行かれるという事で護衛が選ばれた。 なぜか百剣でも九十五位の俺の名前が二十名の中に入っていた。
確かに三十代はあまりいないし、三十以下は全員軍対抗戦出場者だが。 俺は三十代と言っても三十九歳だからそんなに若いって年じゃない。 四十代なら俺の上にうじゃうじゃいる。
タマラ小隊長は九十九位で入ったり落ちたりしているが、三十一歳だし、なんと言っても若のおしめを替えたという方だ。 選ばれるのは当然だろう。
不思議な感じはしたが選ばれたのだから随行した。 おかげで初っ端から若大隊長の見事なオーク狩りを目にする事が出来た。 無口な俺だが、皆にせがまれ、その時の様子を話してやった。
若大隊長は最初こそオークとの間に充分な距離を取っておられたが、一頭、二頭と次々と当たるものだから自信を持たれたのか、それともさっさと片付けてしまいたかったのか。 手綱を握っていたウィルマーに、もうちょっとゆっくり走れ、と命令なさった。 三頭目を倒した後で、もう一度。
最後の一頭となった時、師範が怒鳴った。
「馬鹿やろう、もっと間を空けろ!」
それを聞いて、どれだけオークに近づいているのか気になったものだから俺は後ろを振り返った。 それと同時に矢が放たれ、若大隊長がオークを射止めるその瞬間をこの目で見る事が出来た。
ぐわあああ、というオークの叫びに「五頭!」の掛け声が混じる。
それを聞いた皆が、どよめいて口々に言う。
おおっ! すごいっ! さすがは!
俺も見たかったぜ、と散々皆に羨ましがられた。 それから更に羨ましがられる事が俺を待ち受けていようとは。 帰ってから労いのお言葉と共に金一封を手渡され、住み込みの庭師兼護衛になってくれる気はないか、と若大隊長に聞かれたのだ。
「ネシェイム軍曹の育てたりんご、とってもおいしいよね。 あれ、俺の家にも植えてくれない?」
試合がある日は、必ずタカが、とうちゃん、がんばれーと言って送り出してくれた。 その声がどこからか聞こえたような気がした。
考えてみればタカが死んだ後もあの励ましの声が頭の中にずっと聞こえ続けていたから今までがんばってこれたんだ。
俺は謹んでそのお役目を引き受け、転属と同時に小隊長に昇進し、大隊長宅内勤となった。
春になって土が耕せるようになると、俺は真っ先にりんごの若木を数本植えた。 これからもがんばるからな、とうちゃんを見ててくれよ、と心の中で呟きながら。
数年後には、どの木にもたわわに実がなった。
若大隊長のお嬢様のサリ様は、りんごが大好物でいらっしゃる。 毎年秋になるのをとても楽しみにされていて、実がなると、まだ熟していないのに、木に向かって「もーいーかい?」とお聞きになる。 そこで俺が「まーだだよ」と答える。 「もーいーよ」と言う言葉が返って来るまで、それを毎日繰り返されるのだ。
ある日、サリ様がお聞きになった。
「ねえ、ネシェイムも食べてないのに、どうしてまだって分かるの?」
「タカが教えてくれたんですよ」
「タカって、だあれ?」
「俺の息子です。 小さい時に死んだんですが。 りんごが大好きでしてね。 これはすっぱい、これはあまいって見分けるのが上手だったんです」
「ネシェイムのりんごはタカが味見してるからおいしいんだー」
「味見? ははは。 そうかもしれません。 食いしん坊な子でしたから」
サリ様は皇太子妃殿下となられてからも秋になるとりんごを御所望になった。 それで毎年俺が摘んで皇王室へ献上している。 勿論りんごは寒い土地ならどこからだって獲れるが、他のりんごでは一口召し上がっただけで、これはタカリンゴではないわね、とおっしゃるのだとか。
俺が育てたりんごは「タカリンゴ」と呼ばれるようになった。




