会話
目を開けたらトビが例の心配そうな顔をして俺を覗き込んでいた。 辺りを見回すと、おばあ様の別邸に滞在した時いつも俺が泊まる部屋だ。 外は明るい。 夜でもないのに、俺、なんで寝床に横になっているんだろ?
そしてようやく思い出した。 兄上のお返事の後、なんだか頭の中が真っ白になっちゃって。 それからすーっと気が遠くなっていったんだ。
体を動かしたらどこも痛くない。 どうやら床に叩き付けられる前に誰かに受け止めてもらえたようだ。 誰に、なんて聞くまでもない。 俺の後ろにいた師範に決まっている。 後で忘れずにお礼を言っとかないと。
おばあ様の邸はでかい。 あの応接間からこの部屋までかなりあるし、階段まで登らせちゃっている。 オークの甲冑をあげといてよかった。 でなきゃ後でしっかり嫌みを言われていただろう。
「旦那様、御気分は如何でございましょう? 何かお飲物でもお持ちしますか? 他の皆様は御昼食を済ませられ、中庭で食後の果物を召し上がっていらっしゃいます。 御一緒に軽食の類をつままれては?」
食べないとみんなに心配かけちゃう。 それは分かっているが、俺は首を横に振った。 とてもじゃないけど何かを食べる気になんてなれない。
「トビ、お前、聞いた?」
俺にそう言われ、トビはすっと立ち上がり、流れるように見事な伯爵家執事が主人に対して行う正式の拝礼をした。
「伯爵位に叙せられる此の度の御名誉、心よりお慶び申し上げます。 今後も旦那様に相応しい奉公人となるべく誠心誠意努力して参る所存。 何卒よろしくお願い申し上げます」
何年もやっていなかった拝礼を、ぱっと間違えずに出来るだなんて。 さすがはトビ。 それは同時にトビがどれほど長い間次代の執事候補として修業したかを物語っている。
心は晴れなかったが俺の方こそ、おめでとうとトビに言ってあげたくなった。 伯爵家執事になるための努力が無駄にならずに済んで良かったな、て。
だけどそれより先に俺の口からは別の質問が零れた。
「ほんとに慶べる?」
顔を上げたトビから答えはない。 それが答えだ。
賢いトビの事だから叙爵は叙爵でも準が付かないと聞いただけで、そこに隠された意味を悟ったんだろう。
可哀想なサリ。 生まれてすぐ父の仕事を助けるという親孝行をしたために、皇王室に嫁に行く事になっちゃっただなんて。
ロックの馬鹿。 俺の家の屋根で鳴いたりしなきゃサリを見て喜んだと誤解されずに済んだのに。
もー、泣いちゃおうかなっ。 今別邸にいるのは身内ばかりだし。 娘を嫁にやりたくないと泣いたって、ちくる人はいないだろ。 とは言っても皇王室に対する服従は絶対だ。 皇王室に望まれたら喜びはしても悲しむ訳にはいかない。 世間的には満面の笑顔でいなきゃいけない場面なんだ。
あ、おばあ様が死んだばかりだ。 じゃ、泣いてもいいかも。 おばあ様を偲んで涙が止まらなくなった、と言えばいい。
なんだい、私をだしにしようというのかい、というおばあ様のぷんすかするお声が聞こえるようだな。
それに泣き出したら止まらないかもしれないと思うと簡単に泣き出す事も出来なかった。
第一、父親の俺が泣いてどうする。 赤ん坊だから何も分からなくたって実際つらい目にあうのはサリであって俺じゃない。 父として娘を助けてあげなくちゃいけないのに。 その俺が泣いてるばかりじゃ役立たずだろ。 ほんと、情けないったら。
だけどさ、皇王族になるなんて大変な事だ、くらいは分かっていても、じゃあどうしたらいいの? 次に何をしたらいいのか俺には全然分からない。
もしかしたら母が平民のくせに、とサリにはどうしようもない理由で他の高貴な方々にいじめられたりして? 御飯も他のお妃様よりワンランク下、とかさ。 たとえそれが庶民が食べる物よりずっと贅沢な美味しい物であったとしても差別されるってつらいだろ。
それに結婚したからって陛下に好きになってもらえる保証はない。 広い皇王城だ。 陛下が会いたいと思わなければ会う事もないんじゃないか。 お二人で行事に御出席となれば会うだろうけど。 それは仕事であって。
食堂だってたぶん何ヶ所もある。 一緒に御飯を食べたくないから別の食堂で食べたり。 陛下の顔は結婚式の時見たのが最後となる事だってあり得ないとは言えない。 それでも陛下以外の人を好きになる事なんて許されないし。
なんだか考えれば考える程暗い未来ばっかで落ち込んじゃう。 どうして後宮に一歩も踏み入れた事のない俺がそんな暗い想像ばかりするのかと言うと、そんな話を沢山聞いた事があるからだ。
俺は貴族の夜会とか社交の場には一度も顔を出した事はない。 でも貴族の子弟は十三歳になると新年の御前試合に連れて行ってもらえる。 辺りは貴族ばかりだし、席に着くまですごい歩く。 そして何かと待たせられるから、途中で会った知り合いや親戚と立ち話とか、結構いろんなおしゃべりをするんだ。
本人同士はこそこそしゃべっているつもりかもしれないが、俺の耳にはちゃんと聞こえている。 たぶん子供が近くにいたって誰も警戒しないからだろう。 あからさまと言うか、ぶっちゃけてると言うか。 御夫人同士でよく交わされるのが、今御寵愛を受けているのは誰それで、去年のあの方への最後のお渡りは半年前、みたいな後宮の噂話だ。
それだけじゃない。 誰がどんな意地悪をした、された、蹴り出した、出された。 その仕返しがどうの、とばっちりを食ってこうの。 いやもう、えぐいのなんの。
女に生まれなくてよかった、とつくづく思ったね。 女に生まれたって俺の繊細さに欠ける性格がましになったとはとても思えない。 伯爵令嬢なら結婚するか後宮に出仕するしかないんだ。 どっちを選んでも悲しい結末に終わっていただろう。
特に後宮で生き延びるには周りへの気配りと次に何が起こるかを予想する先見の明が必要だ。 俺だけじゃなく、リネだってそんなものは持っていない。 俺とリネの子供にそんな難しい事をやれと要求されたってさ。 ちょっと無理って感じ。 親の顔を見て言ってくれよ。 まあ、祖父母がしっかりしてるから希望がゼロとまでは言わないが。
いずれにしても皇王室に望まれて断る道なんてある訳ない。 俺はすっかりどよーんとした気分になった。 だけど眠くはないから起き上がって窓を開けた。 すると微かだが中庭での会話がはっきり聞こえて来る。 あれは叔母上の声だ。
「お義兄様は何とおっしゃったの?」
「何も。 今更変えようもない事なのだし。 なるようになると思っていらっしゃるのじゃないかしら」
母上のお応えの後、ライ義姉上の声がした。
「お義母様。 サダ様とリネ様は叙爵式での儀礼を練習せねばなりませんでしょう? ヘルセス公爵家より儀礼教師を派遣して戴いては如何ですか?」
げーっ。 また特訓かよ。 でも確かに練習しておかなきゃまずいよな。
伯爵なら新年の挨拶だって陛下にお目通りする。 叙爵なら直接頂戴する事になるだろう。
普通の儀礼作法でさえみんな何年もかかって習得するんだ。 陛下のお言葉を頂戴し、それに返事を申し上げなきゃいけない叙爵式の儀礼はもっと複雑だろう。 それを二ヶ月やそこらの突貫工事でものにしようって言うんだから普通の儀礼教師じゃ務まらない。
だけどそれよりライ義姉上が俺とリネを様付けで呼んだ事が気になった。 なんで? 俺も伯爵になるから? ライ義姉上だって伯爵夫人で俺と同位じゃないか。 しかも俺は弟だろ。
理由が思い付けないでいると、母上の返事が聞こえた。
「そちらの方は旦那様がお手配下さるとおっしゃっていたの。 儀礼服の事と併せてね。 サダ様は大隊長儀礼服でよいけれど、リネ様の登城儀礼服は急いで仕立てなければならないから」
なんと母上まで俺とリネに敬称を付けている。 それを聞いてもう一度ぶっ倒れそうになった。 これってつまり俺がそれほど偉くなった、て事? そりゃ母上は先代伯爵夫人で爵位はもう持っていない。 でも息子であるサガ兄上が伯爵になったからって様付けで呼んだりはしていなかったのに。
「旦那様は九月にこのお知らせを頂戴して、すぐさまボルダック家に儀礼服をお願いして下さったのだそうよ。 陛下はサダ様がヴィジャヤン姓をそのまま名乗る事をお許し下さったのですって。 それで実家との区別を付けるため、これからは北方伯と呼ばれる事になるでしょう」
「では家紋もお決まりなのでしょうか?」
「ええ。 旦那様がヴィジャヤンの家紋を下地に六本の矢を加えたものをお選びになったの。 何と言っても六頭殺しですものね。 同じ下地が使えるなら家紋の使い回しも利いて何かと便利だし。 とは言ってもたったの四ヶ月で百枚の刺繍を仕上げるだなんて。 いくら早さが売りのボルダックでも無理なのでは、と心配なの」
「ところでお姉様。 リネ様の産後の肥立ちの御様子は聞いていらっしゃる?」
「カナは順調な回復と言っていたから、それは大丈夫だと思うわ。 もっとも儀礼の稽古は健康であってもきついから相当な負担にはなるでしょう」
「お義母様。 儀礼服の他に同行する執事、侍女の服にも家紋を入れねばなりませんわ。 北では儀礼服に慣れているお針子の数が足りないのではないかしら。 こちらで仕上げて差し上げては如何でしょう?」
「それはサダ様次第ね。 本人は何も知らない事とは言え、周囲が全てお膳立てしてあげては余計何が何だか分からなくなると思うし。
それにしてもこの知らせを聞いただけで倒れたりして。 本当に先が思いやられるわねえ。 叙爵式までいくらも日にちがないというのに。 あんな調子で大丈夫なのかしら」
「お姉様が案ずる以上にサダ様はしっかりしていらっしゃいますわよ。 困難な任務でも立派に遂行なさったのですもの」
せっかくの叔母上のお言葉だが、俺はもう何も聞きたくなくて、そっと窓を閉める。
兄上から、悪い冗談で驚かせて済まなかったな、というお言葉を戴きたかった。 そして、兄上ったらいつからそんなお人の悪い冗談をおっしゃるようになったんですか、と笑い返してやりたかったけど。 どうやらそれは無理っぽい。
俺はため息と共にトビに言った。
「明日北へ帰ると護衛の皆に伝えてくれ」




