御内意
子爵邸から馬で約一時間離れた所にあるおばあ様の別邸は、別邸と呼ばれているけど子爵本邸よりずっと大きい。
本邸は三百年以上前に建てられ、とても重厚な造りだ。 おばあ様が内装を変えた事で有名だが、増築した訳ではないし、外観はそのままだからどんなに明るくしようとしても限界があるという感じ。
その点、別邸は最初からおばあ様好みに建てられた。 趣味の良い今風の建物、と言っても三十年前に建てられたからそれ程新しい訳じゃない。 正面玄関から入ってすぐ広いホールの突き当たりに大きな嵌め込み窓があり、そこから敷地を囲む森林が眺められる。 まるで中身が自然に変わる美しい絵がそこに掛けられているみたい。 自然を愛するおばあ様らしさが表れている家だ。
別邸に近づくと門の所に東軍の軍服を着ている兵士が警備しているのが見えた。 先頭に進んで名を名乗ろうとしたら、その前にさっと門が開いて左右に十名ずついた兵士が俺に最敬礼してくれた。 伯父上が先触れでも寄越していたのかな? お役目御苦労様、とお礼を言っておいた。
そして玄関で出迎えて下さった母上を抱きしめる。 おばあ様と母上はとても仲の良い親子だった。 顔は似てないし、性格だって似てたとは思わない。 それどころか赤の他人に見えるほど似てない親子だった。 でもおしゃべりする時の雰囲気が、うまが合う友達みたいな感じ。 それを不思議とも何とも思わずに育ったが、皇都で様々な貴族の家庭にお邪魔したおかげで、こういう温かい親子関係がどれほど珍しいかを知った。
「サダ、よく来てくれたわね」
少し痩せられた母上がそう言って俺を抱きしめ返す。 いつもは俺に軽い抱擁を返すだけの母上が、なぜかしっかり俺を抱きしめ返して離さない。 まるでこれが人生最後の抱擁とでも言うかのように。
なんだかちょっと変な感じはしたけど、静かにされるままにしていた。 もしかしたらおばあ様が、自分の代わりにサダを抱きしめておくれ、とおっしゃったのかもしれない。
「母上、お嘆きの所にすぐ駆けつけられず、申し訳ありませんでした」
「いいのよ。 それがお母様の御遺志だったのだから。 道中、無事だった?」
「ええ、まあ」
またオークにあっちゃった、とは言わないでおいた。 別に怪我をした訳じゃないし、嘘をついた訳でもない。 なのに母上は俺の後ろに控えていたトビに聞いた。
「何があったの?」
「オークを五頭、仕留められました。 又、アイデリエデン第一王子からの御招待をお断りしております」
母上は俺に向かって、隠すなんて水臭い子ね、と言いたげなお顔を見せる。 隠そうとした訳じゃないんだけどな。
次に叔母上と兄上夫妻に挨拶した。 兄上もお疲れの御様子だった。 九月に新皇王陛下戴冠式が無事済んだばかりだ。 そちらはほっと一息ついた所だと思うけど、爵位を継いでからも宰相庁勤務も続けていらっしゃる。 二足の草鞋だからさぞかしお忙しい毎日だろう。
兄上は母上、叔母上、ライ義姉上、師範と俺を応接間に集め、奉公人を全員下がらせた。 そして改まった雰囲気でおっしゃる。
「サダ・ヴィジャヤンに皇国皇王陛下よりの御内意を伝える」
兄上のその一言を聞いた途端、俺だけじゃなく家族全員がさっと立ち上がり、最敬礼の姿勢になった。
ひー。 二年ぶりだよ、この姿勢になるの。 でも皇太子妃殿下をお出迎えに行くにあたりオラヴィヴァ侍従長に猛特訓されたので忘れずに覚えている。 首の角度から手及び膝の位置、武器を持っている場合の置き方から、どのタイミングで顔を上げるかに至るまで。
あの時は覚えなきゃいけない事が満載だったから起こる確率の低い事は全て訓練項目から外されたが、これだけは百万に一つの可能性でも間違える事が絶対に許されない、という事で訓練項目になったんだ。
受ける場所が屋内、屋外、周りに自分より位が上、或いは下の者がいる、火急の場合、邪魔が入った場合等々、もう覚えようと思えばいくらでも応用形がある。 でも俺達はそんなの全部覚えられないから一番基本で最もあり得る室内で御内意を承る場合の練習だけをやらされた。
結局お出迎えの最中も後も、この姿勢になる必要がある場面は一つもなかったが、あんなに練習したのに無駄になって残念だ、と文句を言う者は一人もいなかった。 皇王陛下の御内意を承るという事がどれほど大変な事かが分かって皆どれだけびびったか、語り尽くせるものじゃない。
ここにリネがいなくてよかった、と心の中でほっとした。 偶々使者が兄上だし、周りは全員身内だからリネの最敬礼がまずくとも誰もちくったりする恐れはないけど、普通はそんな幸運は望めない。 貴族なら陛下の御内意を承る可能性があるので小さい頃から俺以上に徹底した訓練を受けている。 母上、叔母上、ライ義姉上、ここにはいないがヨネ義姉上だって、どう振る舞うべきか良く知っているだろう。
でも平民出身のリネがそんな儀礼を知っているはずはない。 だけど知らなかったから出来ませんでした、ごめんなさい、と謝って許されるものではないのだ。 姿勢が不適当という理由で投獄された人さえいるんだから。
深く叩頭して皇王陛下のお言葉を待つ俺に兄上が重々しく告げる。
「此の度、北軍大隊長サダ・ヴィジャヤンに大功あり。 宜しく授くるに栄爵を以てし、依って寵光を示さんとす。 一月の佳き日を選び、伯爵位に叙し、殊勲を賞すなり。 その子孫をして忠貞を篤くし、世々その美を為さしめよ。 以上」
以上という言葉が聞こえたところで一呼吸おき、申し上げる。
「皇恩に深き感謝を捧げ、皇王陛下の御代に万歳万々歳を申し上げます。 皇国に更なる栄光を齎すため、臣民サダ・ヴィジャヤンは子々孫々に至るまで日々努力研鑽に励むでありましょう。 お言葉、確かに承りました」
もちろん俺は兄上が何を言ったのかなんて全然分かっていない。 伯爵位がどうのこうのって言われた事は分かる。 だけど「たいこう」「えいしゃく」「ちょうこう」? どれも今まで一度も聞いた事がない言葉だ。 いや、聞いた事が全くない訳じゃないけど、大公あり、じゃ変だろ。 兆候? 長考? を示す、てどういう意味? 「ちゅうていをあつくし、よよそのびをなさしめよ」に至っては、一体どこの外国語って感じ。
それでも一応返答出来たのは何を言われたとしてもおそらく通用する無難な模範解答をオラヴィヴァ侍従長に丸暗記させられていたからだ。
俺の返事が終わると兄上がおっしゃった。
「母上、かわいい子には旅をさせるものですね。 御内意にきちんとした返事が出来るとは。 我が耳で聞いておりながら信じられない思いです」
兄上ったら目を大きく見開いている。 いや、そこまで驚かれる程の事でも。
「本当に。 旦那様にも聞かせてあげたかったわ。 私の言葉だけでは信じて戴けないかもしれないもの」
母上が目頭をそっとハンカチで押さえる。 あ、ちょっと親孝行した気分かも。
叔母上が何度も頷き、微笑みながらおっしゃる。
「お母様も草葉の陰でさぞかし誇らしく思われた事でしょう」
「実にお見事なお返事でございましてよ。 オラヴィヴァをふと思い出しましたわ」
そうライ義姉上に言われて、これを教えてくれたオラヴィヴァ侍従長に結局一度もお礼を言ってなかった事を思い出した。
「ライ義姉上、ありがとうございます。 この返答が出来たのはオラヴィヴァ侍従長のおかげなんです。 機会があったら俺がとても感謝していたってお伝え下さいますか?
ところで、兄上」
「何だ?」
「今の陛下のお言葉の意味を通訳して戴けませんか?」
なんだかちょっと嫌な感じの間があり、おもむろに母上がおっしゃる。
「零した涙を返して頂戴とまでは言わないものの、損をした気分は拭えないわね」




