見学者名簿 ある近衛軍兵士の話
まず、六頭殺しの若とだけ噂になった。 それが誰を指すのかしばらく知らずにいたが、その内若の本名がサダ・ヴィジャヤン、ヴィジャヤン伯爵家の三男である事が知れ渡った。
聞いた事がある名前だ。 それ程前の話ではない。 そう思った私は先月の見学者名簿を漁った。
私は近衛軍曹で、近衛に見学に来た入隊希望者を案内するのが仕事だ。 侯爵家次男という自分の出自を鼻にかけているつもりはないが、伯爵家の三男なぞ近衛では普通以外の何者でもない。 大公家や公爵家子弟ともなれば入隊の際に特別な配慮がされるし、侯爵家辺りまでならそれなりの扱いになるが。
そもそも近衛軍に入隊する者で全くの平民は少ない。 平民なら上級貴族の縁故か推薦があるのでもない限り、応募しても弾かれる。 公侯爵の子弟なら付いて来る従者でさえ全くの平民である事は少ないのだ。
入隊志願者なら貴族の子弟かその縁者と決まっている。 伯爵家の三男では十把ひとからげとまでは言わないが、上げ膳据え膳にならない。 ただ毎日相当数の見学者を案内しているにも拘らず、私がひょっとしたらあの若者では、と見当をつけられたのには理由がある。 先月の見学者の中に一人だけ全然やる気のない者がいたのだ。
見学者にとって近衛は第一志望だ。 当然見学も真剣で、説明を聞く態度も熱心。 親戚や知人を通し、配属、任務、昇進等、様々な軍に関する詳細を既に知っているから中々突っ込んだ質問をする。 ところが見学者のやる気のなさといったら、あからさまと言ってもよかった。
関係のない所をきょろきょろ見回し、心ここにあらず。
「お昼はどこで食べるんですか?」
「それはたった今説明したばかりだが?」
「あ、その、念の為、聞きました」
その日の夕食についても二度同じ質問をしていた。 つまり人の説明を聞いていないだけでなく、答えを覚えていないのだ。
偶に真剣に質問するかと思えば、昼飯代はいくらかかる、朝飯を食べずに出発したら宿泊費は安くなるか、見学者用宿舎の飯と洗濯と風呂はどうして有料なんですか、等々。 入隊後の任務、配属、昇進とは全く関係のない事ばかり。
入隊必需品リストを渡したら、そこに明記されてある購入価格を見て、ちょっと、暴利じゃね? と従者に囁いていた。 平民ならともかく、貴族が不満に思うような価格設定ではないにも拘らず。 貧乏貴族なのかとさえ疑った。 ただ貴族の懐具合など外見からは分からない。 困窮していればいる程それを世間に悟られないよう気を付けるので却って金離れがよくなったりするし。
その若者は初日に第一庁舎を見学し、見学予定表を受け取るとグループから離れて辺りを散策しただけで、さっさと見学者用宿舎へ帰った。 新兵を受け入れ、最初の年の訓練を担当する小隊の小隊長と面談の機会を設けていたにも拘らず。 そしてなんと、次の日にはもう旅立っていた。
最低でも五日はかかる体験見学だ。 広大な敷地だし、将来の上官に挨拶したり、身内で既に近衛兵である者に会ったり、同じ部隊になるであろう兵士との顔合わせも予定されている。 皆少なくとも一週間は滞在し、十日とか二週間に延長する者さえいるのに。 僅か一日で帰った者がいたとは聞いた事がない。
言ってしまえば、その若者は悪い意味で目立っていたのだ。 それ程前の話ではないから、いつ頃の見学者名簿を探せばいいのかすぐに見当がついた。
あった。 ヴィジャヤン伯爵家三男 サダ・ヴィジャヤン
……字は、下手なのだな。
私はあたりをさっと見回し、誰も見ていない事を確認してから、その見学者名簿をそっと懐に隠した。 この名簿は来月になれば廃棄処分になる。 私が持ち去った事が分かっても罰せられる事はない。 それでも知られたくなかったのは、六頭殺し直筆の署名が載っている事が上官に知られ、上官に欲しいと言われたら私に断わる術はないからだ。
何しろ私の周囲には相当数の若ファンがいる。 六頭殺しを案内したのが私であると知られた途端、毎日あちこちから呼び出され、散々愚痴られたり、どのような若者だったか質問されたりした。
その時初めてサダ・ヴィジャヤンはサハラン近衛将軍の親友の息子で、見学に訪れたら即座に将軍へ連絡するように補佐が待ち構えていた事を知らされた。 ただいつ見学に来るのか将軍も御存知ではなく、案内人全員にその連絡が行き届いていなかった。 当日、偶々それを知らない案内人が案内したという訳だ。
将軍にお会いしたがっている新兵は数え切れないほどいるが、将軍がお会いしたい新兵など何人もいない。 連絡がなかろうとそれぐらい当然知っておくべき事で、連絡されなかったから知らなかった、で済まされるような失態ではないのだが。 なぜか将軍はもとより、上官の誰からも責められずに済んだ。 ただ自分で自分を責めずにはいられなかった。
因みに私が若のファンになったのはオークを殺したからではない。 それは確かにすごいが、私自身は弓を射る訳でもないし、オークを見た事もないからそのすごさを実感出来ない。 だが流鏑馬を見るのが好きで暇があればよく馬場に見に行っている。 そこでサダ・ヴィジャヤンは流鏑馬で全的命中を普通にやるという噂を聞いた。
近衛の弓部隊でもそんな事が出来る射手はいない。 さすがは六頭殺し。 稀代の弓の名手として歴史に名を残す事は疑いもない。 その射手と間近に出会っていながら握手の一つもせずに別れただなんて。
もし、あの時。 いや、逃した機会を今更悔やんだ所でどうにもならない。
私はそれ以来、入隊志願者に対して親身な態度で接するようになった。 爵位や縁故に拘らず、必ず一人一人に話しかけ、いつ帰るのか予定を聞き、別れ際に握手をする。 六頭殺しがこの世に二人といるはずはない、と知ってはいても。