飛ぶ
それはとても幸せな夢だった。
「元気な女のお子様ですよ。 母子ともにお健やかでいらっしゃいます」
あれはミンの声だ。 それと重なるようにして、おぎゃあ、おぎゃあと元気な産声が聞こえて来る。
ああ、サリが生まれたんだ。
リネ、がんばったんだな。 えらいぞ!
ゆさゆさ揺られて俺は空を飛んでいる。
くくく。 今日の夢にはまともな続きがあるみたいだな。
きっとこのまま家に帰れるんだ。 あんなに帰りたい帰りたいと思ったからだろう。
よしっ。 このまま覚めるんじゃないぞ。
でも何か変だ、と気付いた。 早朝の風がビュービュー当たって来る。 寒いだけじゃない。
「ヴィジャヤン大隊長っ!」
バスラーの悲痛な叫び声が聞こえる。 はっと気が付いて声がする方を見ると、俺は空からみんなを見下ろしていた。 あわててハンモックの両端をぎゅっと掴む。
ひーーっ! あっぶねー。 あとちょっとで転がり落ちるところだった!
あやうく死ぬ目にあったものだから一気に目が覚めた。 地上にいた全員が一斉に飛び起きたのが見える。 夜番で乗るばかりに用意されていたポーロッキの側にいたバスラーが一生懸命俺の後を追いかけてくれていた。
バスラーの後に続き、師範がもう一頭のポーロッキによじ上り、鞭をくれたのが見える。 それを追うソーベル補佐とウェルター中隊長。
見上げてみると、そこにはロックがいた。 俺が寝ていたハンモックの両端についている輪を掴んでいる。 ウェルター中隊長が言った通りの美しい巨大な鳥で、首輪と鶏冠があるから雄だ。
ふええ。 ちゃんと服を着て寝ていてよかったぜ。 どこに連れて行かれる事になるのか分からないけど、裸じゃ恥ずいもんな。
俺ってば、何呑気な事を考えてるんだよ。 これって生死の瀬戸際だろ?
でもなぜか怖い感じがしない。 バスラーから、ロックは誕生を祝った人と出会うとその人を掴んで一緒に空を飛ぶ、と聞いていたからかな。
俺の方を覗き込んだロックと目があった。 ロックが嬉しがっている?
らあーーーっ
らあーーーっ
らあーーーっ
鳥が笑った? 鳥が笑うものなのかどうか分からないけど。 明け方まで見ていた夢のおかげでとても幸せな気分でいる俺の耳には喜びに溢れた鳴き声に聞こえる。
ロックの気分がいいならそれに越した事は無い。 ただあまりにでかい鳴き声で耳がじんじんする。 耳を塞ぎたかったが、必死にハンモックにしがみついているので両手が自由にならない。
ロックは段々大峡谷の裂け目に近づいて行った。 するとまるで何羽ものロックがそっちこっちから呼び返しているみたいな木霊が聞こえてきた。
らあっ、らあっ、らあああっ、
ふと、これが最後の一羽だとしても、ロックって昔は何十羽もいたのかもしれないな、という気がした。
それにしてもなんで俺を攫ったんだろう? 一羽で寂しいから? 俺と遊びたかった、とかじゃないよな?
これがロックが俺の誕生を祝ったって証拠だとしても、じゃあ俺の誕生を祝うのはなぜだ? 説明のつかない事ではあるけれど、もしかしたらサリの誕生を俺と一緒に喜んでくれてる、とか?
うーん、まさかな。 さっき俺が見たのが正夢だとしても遥か遠くで生まれた子供の事をロックが知っているはずはない。 ひょっとしたら偶然ロックの雛も今日孵っていて、それで嬉しいのか?
いや、違うな。 雛が孵ると餌を探すのは雌、とバスラーが教えてくれた。 自分の雛が孵ったのなら尚の事、雛を守る為に雄は傍から離れないはずなんだ。
地上を見れば師範達が必死に俺を追いかけてくれているのが見えるが、どんどん引き離されていく。 先頭のバスラーでさえもう米粒くらいにしか見えない。 あちらからこちらははっきり見えていると思うけど。
大峡谷の裂け目に辿り着くとロックは下へ下へと降りていった。 すごく深い。 おそらく一キロ以上は降りて行ったんじゃないかと思う。 そこにはなんと川が流れていた。
大峡谷に川? 信じられないが、確かにこれは川だ。 しかも川幅が二十メートルはある。
ロックは一旦俺を川岸に下ろすと、川面に飛んで行き、がしっと魚を捕まえた。 そしてその魚を俺の前にばしゃんと落とす。 もう一度飛んで行って、また魚を捕まえたが、それは自分で食べている。
これって俺の朝飯? 人間が食べても大丈夫なのかな? 一度も見たことない魚だ。 ロックにとっては餌でも、あれだけでかいと少々の毒なんてへいちゃらだろうし。
でもまあ、せっかくもらったんだ。 いくら死にそうな目にあったと言ってもまだ死んでいない。 次の飯がいつになるか分からないし、食べれる時に食べておかないと。
魚の毒に当たって死ぬのと飢え死にするのと、どちらがいいかと聞かれたら、どちらもよくないけど、取りあえず食べる方を選ぶのが俺だ。
ポケットから小刀を出し、鮮度だけは間違いのない魚を捌いて食べてみた。 あまり食欲のわかない外見をしている魚だったが、身は明るい橙色でうまかった。 塩があったらな、とつい思っちゃった。
川の水を口に含むと歯にしみるような冷たさで、とても美味しい。 最後の井戸を通り過ぎたのは二週間前だ。 それから毎日生温い水ばかり飲んでいたから余計美味しく感じられるのかもしれない。 思わずがぶ飲みしちゃった。 飲み終わってから、あ、生水飲んだりして、と気付いたが、もう飲んじゃったし。
お腹が痛くなったりしないか心配になったが暫くしても大丈夫だったから、ハンモックにくくり付けてあった瓢箪にもこの美味しい水を入れた。
久しぶりに水で顔を洗う。 手が痺れるぐらいの冷たさだが、水で顔が洗えるのも二週間ぶり。 いつまでここにいるか分からないし、こんなに冷たくなきゃ裸になって体もついでに洗ったんだけどな。
ロックは楽しそうにばしゃばしゃ水浴びしている。 しかしさすがに一緒に水浴びしている場合ではない。 せめて水がある事だけでも皆に知らせる方法はないかなあ。 ただ知ったとしても大峡谷をこれだけ下るのはロック以外には無理だと思うけど。 いや、下りるのはまだいい。 上るのをどうする? このまま死ぬまで川岸、とか?
ステューディニ中隊長なら不可能を可能にしちゃうかも? でも上り下り出来るようにするには何を作るにしたってすごく時間がかかるよな。 特に既に下りちゃった俺にとって、どうやって上に戻るかが問題だ。
どうしよう? まあ、ロックに巣に戻る気があれば俺もついでに上まで連れて行ってくれるかも。 ただなぜロックが俺をここに連れて来たんだか分からない。 単なる気まぐれ? だとしたら、このままここにおいてけぼりもあり得るんじゃ? まさか、と言いたいが。 その可能性の方が多いような。
大峡谷は下に行く程深く抉られている。 下りるのだって生易しい事じゃないが、一度下まで下りたら人間がよじ登れるような岩壁じゃない。
ちゃんと上に連れ戻してくれないと困るんですけど。 たとえ装備があったとしても上るのは無理だと思うが、俺は着の身着のままだ。 ここに置き去りにされたら助からない。 どうしてくれる、とロックに文句を言ったって助けてくれるとは思えないし。
みんなが俺の後を追っているのは見えたけど、ロックが大峡谷の裂け目に下りた所で追いかけるのは諦めただろう。 食料と弓矢を下に投げ落としてくれれば、水があるからかなりの日数を生き延びる事は出来るかも? 但し、猛獣に襲われなければ、の話。 ここにだって毒虫がいるはずだし。
俺達は短い綱なら持って来たが、ここまで落とせるくらいの長さの奴は持ってきていない。 こんな下まで届く程の長さの綱なんて第一駐屯地に帰ったってないだろう。 帰ってそんな綱を作り、戻ってくるにしたって時間がかかる。 その前に雪が降ったりして。 そう考えると先行きは真っ暗だ。
ロックはいい気なもんだ。 何匹目かの魚を食べ終わり、水浴びも済ませ、御機嫌、て感じ。
どうしてくれるんだよー、責任取って、みたいな目でロックを見てやった。 すると俺にハンモックの中に入れ、と言うかのようにハンモックをつんつんと嘴でつつく。
俺の気持ちを分かってくれた訳でもないんだろうけど。 上に行きたいなら下りた時と同じようにハンモックで運んでもらうしかない。 ハンモックに入り、わっかを上に差し出したらロックはそれをがしっと掴み、大峡谷の上へ向かって飛び始める。
頼むから途中で気が変わったとか言って、ぽとっと落としたりしないでくれよ。




