誓石 タケオ家執事、ボーザーの話
試験の結果、ヘルセス公爵家推薦の私がリイ・タケオ様の執事として選ばれた。 皇太子殿下御相談役ヴィジャヤン様、マッギニス侯爵、グゲン侯爵のそれぞれが推挙した三人の候補はいずれも次代様の執事になるべく子供の頃から長年厳しい訓練に耐え抜いた者達で、彼らが能力において私より劣っていたという事ではない。
上級貴族の執事ともなれば忠誠心の強さは言うまでもなく、数字に強い、歴史に明るい、人間関係の機微に聡いから始まって、体力に至る広範囲の能力が要求される。 それらの基礎を満たした上で更にヴィジャヤン様御推薦の者は情報収集能力に優れ、マッギニス侯爵御推薦は軍事、特に武器に詳しく、グゲン侯爵御推薦は法律に造詣が深かった。
総合的に判断するなら私達は知識、体力共に甲乙付け難しという評価。 にも拘らず私が選ばれたのは殺気耐久試験で最高点を獲得したからだ。 各家選りすぐりの剣士が発する殺気に一時間程晒された直後、お茶を給仕する事が出来たのは私だけだった。
「手元に僅かな震えさえないとは。 さすがはヘルセス公爵御推薦。 あっぱれである」
ヴィジャヤン様よりお褒めの言葉を戴き、私は深く一礼した。 隣でグゲン侯爵が満足げに頷かれ、私が給仕したお茶を啜られる。
「事と次第によっては北の猛虎の怒りをものともせずに立ち向かわねばならぬのだからな。 剛胆でなければ到底務まらぬ仕事だが、そなたならやれる」
そこにマッギニス侯爵が付け加える。
「其方の演技力も評価出来る。 貴族の執事は有能が基本。 それだけに知性が隠しようもなく表れる。 だがタケオにそれは逆効果。 馬鹿に見えるよう振る舞った所で下手な演技では簡単に見破られよう。 その点、其方なら大丈夫だ」
ヘルセス公爵が同意なさった。
「うむ。 それにタケオの前では無能、無害、無知に見える必要があるが、対外的にはタケオ家執事として恐れられはしても軽んじられてはならぬ。 その匙加減が難しい」
「時と場合によって自在に印象を変えられる其方の演技力は大きな強みとなろう」
そうヴィジャヤン様がおっしゃった。
執事は一家一人の決まりだからタケオ家の采配は実質私が全てを取り仕切る事になる。 ヴィジャヤン様、マッギニス侯爵、グゲン侯爵、いずれも自分の息のかかった執事を送り込みたかったであろうに。 盟友の推薦ではあるにしても、皆様からこのような御信頼厚きお言葉を頂戴するとは予想しておらず、改めてお礼を申し上げた。
皆様がお帰りになる時、ヘルセス公爵から激励のお言葉を戴いた。
「そなたを失うのは痛いが、タケオ家の繁栄は皇国の繁栄となるであろう。 忠勤を励むのだぞ」
私はすぐに北へ旅立つ事になり、出発前、継嗣レイ様へ暇乞いに伺った。
ヘルセス家には執事見習いが五人いる。 その中から私がタケオ家執事候補として推挙されたのは、ボーザーは将来のための欠かせぬ布石、とレイ様がおっしゃったからだ。 子供の頃からヘルセス家への揺るぎなき忠誠心を叩き込まれて育った私は、そのお言葉をヘルセス家の間諜として働けという意味と捉えていた。
レイ様の私室に入ると、レイ様の前には手のひらに収まる大きさの青く輝く石が置いてあった。 これこそ伝え聞く「誓石」に違いない。 代々のヘルセス家執事は皆その石の前で生涯変わらぬ忠誠を誓ったという。
私は直立不動となって遂にその時が訪れた喜びを噛み締めた。 ところがレイ様から思いがけないお言葉を頂戴した。
「ボーザー。 本日よりそなたの唯一無二の主はリイ・タケオとなる。 将来そなたにとって辛い選択を強いる事がない事を祈るが、もし万が一、そのような場合があれば、何を犠牲にしてもリイを守るのだぞ。 仮にその犠牲がヘルセス家当主の命、家名、財産の全てであろうとも。
常にリイと彼の家族の安寧を第一に考える事を、ここでこの石に誓うように」
驚いた事などついぞない私だが、これには驚愕せざるを得なかった。 私はしばらく無言でレイ様のいつに変わらぬお顔を見つめる。
私の能力に関してはレイ様が一番良く御存知でいらっしゃるが、それだけではない。 次代の執事はおそらく私、とほとんどの者が考えていた。 驚愕の次に感じたのが失望だとしても誰も私を責められまい。 他家へ失っても構わない程度の者と思われていたのか、と。
だが失望の次に興味が湧き、私はレイ様にお伺いした。
「例えば、でございますが。 選ばねばならぬのがタケオ様とサダ・ヴィジャヤン様のお二人の内どちらかでしたらレイ様はどちらを優先させる事を御希望なさいますか?」
「それもまた起こって欲しくはない可能性だが。 その場合リイはまず間違いなくサダを救えと言うだろう。 それは主の言葉に従えばよい。 選択がサダか私かの場合でも同様だ。
リイが自分の命より私を先に救え、と言った時だけは従ってはならぬ。 ここで誓いを立てれば、そなたの主はリイとなる。 これは私がそなたの主として下す最後の命令だ」
「レイ様。 自らのお命よりもそのお二方の命が尊いと思われ、それを守るために私を送る、とおっしゃるのなら納得もいたしましょう。 なれば私の誓いはヘルセス家に捧げても許されるのでは? それがレイ様のお望みなのですから」
「この石は一度忠誠を誓った家に害為す事を許さぬだけでなく、二家に渡る忠誠を許さぬ。 忠誠が受け入れられた時、この石の色は透明に変わる。 そなたの忠誠に迷いがあれば色が変わる事はない。 その場合はタケオ家執事になる事を辞退せよ」
「レイ様にとって、それほど価値あるお二方なのでございますか?」
レイ様は無言で頷かれた。
私は長年忠義を心に誓ったレイ様のお顔を、まるで生まれて初めて出会った人であるかのようにまじまじと見つめ、考えた。 この御心境の変化は何によって齎されたのだろう?
レイ様とはほとんど毎日お傍で様々な学習と鍛錬を共にさせて戴いた。 侍従達のように御身の回りの世話をする訳ではないが、レイ様のお人柄、将来への御希望、我こそが一番の理解者であるとの自負もあった。
だが北軍へ御入隊なさって以来、この御方は見事に変わられた。 蛹から蝶へと言える程に。 皇国の未来を見据え、揺るぎなく歩まれる。
北軍御入隊の際に私が御一緒しなかったのは、当初の御予定が四年と言う長期間に渡るものであったため、まずヘルセス領内でレイ様の長期不在に関する様々な準備をしておく必要があったからだ。 私は二ヶ月程遅れて北に到着するはずだった。
しかしレイ様は御入隊なさったその月に皇太子妃殿下御出迎えのお役目を賜り、東へ、続いて皇都へと旅立たれた。 レイ様の元へ駆けつけようにも準備が要る。 結局私は年を越して皇都で再びお会いする事になったのだが、その時既に以前のレイ様ではなかった。
もし。 もし最初から私が御一緒していたのなら何か変わっていたのだろうか?
いや、変わった、という言い方は正しくない。 私が思い描いていたヘルセス公爵家執事としての生涯を終えたのではないか? つまり私の人生は何も変えられずに済んだ。
北で何があったのか? それを知った所で既に変えられた運命の歯車を逆戻しにする事など叶わぬ事だが。
誓石を見つめる。 その青さが私の新しい運命を映し出しているかのよう。 深く引き込まれ、逃れられぬ運命を。
今更何を恐れる。 私は深く一つ呼吸した。 そして生涯破る事の叶わぬ誓いの言葉を述べ、青い石が段々と色を変えて行く様を静かに見守った。
その時私の脳裏をよぎったものが何であったのか。 己にさえ定かではない。 ただこれだけは確かだ。
タケオ準伯爵家執事ともあろう者が、つらいお役目を賜った所で躊躇するなどあり得ない。