照れ虎 若の義姉、ヨネの話
はっきり言って、我が家の誰も旦那様から結婚のお申し込みがあるとは夢にも思っていなかった。 稀代の剣士として著名な旦那様はヘルセス公爵家を始めとする沢山の上級貴族から招聘されていらしたし、どの招聘先も妻として望まれそうな女性を複数用意していたと聞いている。 多くは庶子だったけれど、中には正嫡子もいたのだとか。 でも全てお断りなさった。
公爵家の招聘さえお断りになるなら侯爵家の娘を欲しがる理由はないでしょう。 それでなくとも我が家は他の侯爵家と比べてさえ抜きん出た何かがある訳ではないのだし。 世情に詳しいお父様は、北の猛虎がグゲン侯爵家との縁組みを望む理由はあるまい、とおっしゃっていた。 にも拘らず証人受け入れ先として名乗りをあげたのは、六頭殺しの若様とお知り合いになりたかったからと聞いている。
但し、私のような浮ついた関心からではない。 お父様は近年、先代ヴィジャヤン伯爵様、マッギニス侯爵様、ヘルセス公爵様との御交友を深められ、若様に対して少なからぬ興味を持たれたらしい。 射手としての能力よりお人柄をもっとよく知りたいと思われたよう。
証人の皆様が我が家での滞在を終えられ、ダンホフ公爵家へと移動なさった後、しばらくして審議が終了し、無事北へとお帰りになられた事は噂で聞いていた。 そして十一月の終わりにマッギニス様が北の子爵令嬢と御結婚なさった事も。 マッギニス侯爵様とは少なからぬ御親交があったから、お父様は内輪の結婚式である為に招待されなかった事をとても残念がられていた。 ところがその出席していない結婚式で私との縁談が持ち上がっていただなんて。
驚いたのは私だけではない。 マッギニス侯爵様が我が家を訪問された時の両親の驚きと言ったらなかった。 普段物静かなお父様お母様が、この知らせに飛び上がって抱き合い、喜び合ったのだから。 まるで皇王族のどなたかに正妃としての輿入れが決まったかのよう。 未曾有の豊作という知らせが届いた時にさえ、豊作は不作に備えよとの天のお告げ、といつもと変わらぬ表情を崩さなかったお父様が。
それほど旦那様の名声は高まっていた。 今回の滞在とて我が家の後の受け入れ先であるダンホフ公爵家、ベイダー侯爵家、その他のどの家にも皇都で指折りの美しい令嬢がいらっしゃる。 どこも娘が旦那様のお目に留まるかも、と期待したからこそ滞在先として名乗りを上げたのでしょうし。
誰が猛虎を射止めるか、社交界では結構な噂だった。 ララが教えてくれたのだけれど、可能性が一番高いと専らの評判だったのはダンホフ公爵令嬢。 皇国中で知らぬ者はいない美貌。 加えてダンホフ公爵家は金のなる木と呼ばれる程の資産家。 世間に恥ずかしくないだけの持参金を持たせる事は確かで、旦那様次第では公爵軍の指揮を選ぶ道もあるのだから。
ダンホフ公爵家の次に滞在なさったベイダー侯爵家も有望視されていた。 彼女は皇国屈指の才媛として有名で、女性でなければ大審院法務部に在籍していたであろうと言われている。 法律の事なんて何も知らない私には審問がどうなっているかなんてさっぱり分からない。 でも法律に詳しい彼女なら的確に御説明申し上げる事も容易なはず。
お二方程ではなくとも、楽器や舞踊、様々な才能にあふれる美しい令嬢がどの滞在先にも揃っていらっしゃる。 我が家とて貧乏ではないにしても、資産、家柄、才能、容姿のどれを取っても私は平凡としか言いようがない。 妻候補として下馬評に名前があがる事さえなかった。
世間の噂なんてどうでもいいけれど、結婚を申し込む程私のどこを気に入って下さったのか。 それはとても気になった。
ミッドー伯爵家に未婚のお嬢様はいらっしゃらない。 あの時の滞在に限って言えば私が一番最初にお会いした事になる。 でもそんな理由で私を選んで下さったはずはないし。 第一、北にも美しい女性は沢山いらっしゃるはず。 去年、皇太子殿下御成婚式に御出席なさった折にも式の後で旦那様は数多の御紹介を受けていらした。
他はともかく、これに関してだけは直接旦那様にお伺いするしか知りようがない。 けれどその勇気がひねりだせないでいる。
マッギニス侯爵様のお言葉によると、御子息の結婚式の席で旦那様が私にどう申し込んだらよいか迷っていらした。 親友の懊悩を見かねたサダ・ヴィジャヤン様が、マッギニス侯爵様に是非橋渡しの労を取って戴けないか、とお願いなさったのだとか。
婚約を発表して間もなく、皇太子殿下御相談役のヴィジャヤン様とヘルセス公爵様が我が家に御祝儀をお届け下さり、その時お父様と長い間お話なさっていらした。 お帰りの際、御挨拶申し上げるとヘルセス公爵よりお言葉を戴いた。
「まさに可憐な花のような。 猛虎の審美眼、いや侮れぬ」
とても嬉しかったけれど、皆様がお帰りになった後、真剣な面持ちのお父様から諭された。
「ヨネ。 皇国史に名を残す程の英雄に嫁ぐのだ。 なまなかな覚悟では務まるまいぞ」
そのお言葉に身の引き締まる思いがした。 お父様のおっしゃる通り。 嫁ぐとは出発地点に辿り着いたに過ぎない。 妻としての真価は結婚後にこそ問われるのだもの。
浮かれてはいられないとは思うものの、お会いする日が近づくにつれ、期待に胸が膨らんでいくのは止められない。
「まあ、なんてかわいらしいお家なのかしら」
旦那様が私のために御用意下さった新居に到着し、私は思わず歓声を上げた。 まるで童話の中にでも出てきそうな温かみのある内装で、部屋数も二十しかない。 冬の厳しさにきちんと対応した造りだから住み心地もよさそう。 これなら管理に大した人手もかからないわ。
嬉しさのあまり、そっと旦那様のお手に触れ、ありがとうございます、とお礼を申し上げた。 旦那様は、う、ああ、とはっきりしない言葉で頷かれる。
口数の少ないお方である事は以前から承知していたから驚きはしなかったけれど。 気の所為か、少し頬を染められたような?
妻になるのだもの。 旦那様のお手に触れるくらい失礼ではないでしょう? でも大胆過ぎたのかしら? まさか旦那様に、はしたないと思われた?
旦那様は、よく来た、と一言おっしゃっただけで、すぐお仕事に向かわれた。 私の言葉と態度をどう思われたのか、お気持ちをお伺いする間もなく。
考えれば考える程心配になって来たけれど、旦那様の事をよく知らない私には推測のしようもない。 仕方がないので旦那様の執事のボーザーに聞いてみたら私の心配は全くの的外れだったよう。
「あの程度で大胆か大胆でないかを御心配なさるとは。 そのようなお気遣いは全く無用でございます。 僭越ながら申し上げますと、旦那様は積極的な女性がお好みでいらっしゃる。 しかしながら奥様は大変控えめな御方とお見受け致します。 旦那様好みの妻となるには、はしたないと思う振る舞いをなさるくらいで丁度よろしいかと。 先ほどを例といたしますなら、喜びのあまり旦那様のお胸に飛び込むのもありでした」
確信を持って言い切るボーザー。 その気迫に気圧され、私は思わずたじろいだ。
「えっ!? い、いきなりお胸に? そんな恥ず、いえ、あの、私には少々、ハードルが高いような」
私の返答は明らかに不合格だったようで、ボーザーの表情がさっと曇る。
「差し出口とは承知しておりますが。 ハードルがどうのこうのと呑気な事をおっしゃっている場合でございましょうか? 世間に積極的な女性などいくらでもいるのです。 旦那様が既婚だからと遠慮するくらいなら積極的と呼ばれるはずもない。 もたもたしていたら先を越されてしまう、という危機感を持たれませんと。 お胸に飛び込むくらいでひるんではなりません」
「そ、そうよね。 妻として旦那様好みになる努力をせねば。 助言をありがとう、ボーザー。 がんばるわ」
ボーザーの強い言葉に背中を押され、そうは言ったものの。 私が積極的と言われた事なんて過去に一度もない。 一体どうすればいいのかしら?
あ、そういえば、ララから戴いたあの下着。 あんな大胆なものを身に付けるだなんて。 彼女には無理よと言ったものの、せっかく戴いたお祝いだから持って来てある。
うう。 本当にあれを身に付けるの? 恥ずかしくて死んでしまいそう。
でもあれならきっと旦那様も私の事を積極的と思って下さるわよね? ただ積極的なのはよいけれど、似合わなくて笑われたらどうしましょう?
まあ、私ったら。 最初からそんな弱気でどうするの。 たった今がんばると言ったばかりではないの。
それにしても我が家に滞在なさっていた時には若様以上に無口でいらした旦那様。 この家といい、室内の装飾から家具調度に至るまで、どのようにして私の好みを知られたのだろう? 皇都の侯爵別邸は豪壮な造りで、私の趣味で装飾されているのは私個人の部屋だけ。 旦那様は一度も私の部屋を訪れていないし、あの時滞在なさった旦那様以外の方々にも私の趣味嗜好なんて何も話していない。 皆様、鍛錬と剣や剣士の技のお話にばかり夢中で。 私が入り込む隙など少しもなかった。 お父様とマッギニス補佐は軍備に関し、かなり込み入ったお話もなさったようだけれど、どなたかが私についての何かを訊ねたとは聞いていないのに。
旦那様にお聞きしたい事やお話したい事はいくらでもある。 でもとてもお忙しくていらっしゃるからボーザーが旦那様の日常をかいつまんで教えてくれた。
お父様だってとてもお忙しいし、私の弟も侯爵家継嗣として相当な勉強を毎日詰め込まれているけれど、旦那様はそれ以上だ。 そのため中々お会いする時間が取れない。 この分では式当日までお顔を見る事さえ叶わないかも。 覚悟していた事とは言え、残念である事には変わりがない。
私の落胆を慰めるかのようにボーザーが説明してくれた。
「お忙しいのはお忙しいのですが。 加えて旦那様は大変な照れ屋でございます。 奥様の事が気にかかればかかるほど、奥様とお話しになるのが照れくさく、わざわざ理由をつけて避けていらっしゃる。 北軍では命知らずの者達に陰で、北の照れ虎(てれこ)と呼ばれているほどですので」
本当かしら? でもこんな質問、まさか御本人にお訊ねする訳にもいかない。 それで旦那様の妹であるリネさんに聞いてみた。
「え? 照れ屋かって?
うーん。 まあ、その。 実は、私の主人もそれっぽい事、言ってました。
だけどあのリイ兄さんがねえ。 ちょーーーっと信じられないって言うか。 昔の兄さんからは想像もつかないって言うか。 入隊してから性格が変わったんなら私が知らなくても当たり前だけど。 軍に入隊したら照れ屋になっただなんて。 それもなんか変ですよね? それにもしそんな天地がひっくり返るような事が起こっていたら、私がここに来てすぐ気付いたと思うし。 でなければフロロバさん辺りが面白がって教えてくれそう」
少し間を置いてからリネさんが言う。
「でももしほんとに照れ屋になったんだとしたら。 それってヨネさんにすごーく惚れちゃった所為なんじゃないのかな。 自分でもどうしていいか分かんないから照れる、とか。 だってそれ以外は今まで通り、相変わらずみんなにびびられているし。 ヨネさん以外の誰かの事で照れたとか、全然聞かないもの。
あら? ヨネさんったら赤くなっちゃって。 照れ虎に照れ妻? お似合いかもー」
「リネさんったら。 いやだわ」
私達は一緒にくすくす笑った。




