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弓と剣  作者: 淳A
新婚
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逃がした魚  ミルラック村の男の話

 俺の住むミルラック村は北の猛虎の故郷だが、それを知らねえ奴の方が多いし、知った所であいつの生家はただの農家だ。 観光名所って訳でもねえ。

 村で新年迎えたって面白い催しがある訳じゃなし、ちょっと離れた所に住む友達の所に遊びに行った。 近くに温泉があるんだぜと言われ、入ってみたいなと思ったんだ。 その村には観光客もよく来るんだと。 北じゃ冬の間の風呂なんて贅沢だからな。 貴族でさえ滅多に入れねえって聞くし、わざわざ行くだけの価値はある。


 風呂は気持ちよかったが、まあ、そこだってそれ以外に見る物がある訳でもねえ。 友達と一緒に酒を飲み、世間話をして帰って来た。 帰るまでたったの一週間だ。 普段何もないこの村を一週間離れただけで俺の人生がひっくり返るだなんて誰が思う?

 帰ってすぐ、お袋に言われた。

「タケオんとこのリネが、嫁に行ったよ」


 リネって、あのリネ?

 そりゃこの村にリネという名の女は一人しかいねえ。 タケオ、て家も一軒だけだ。 でも一体どこの物好きが虎の妹と結婚するって言うんだ?

 あまりにも信じられなくて目を見開いたまま、何だって、と聞き返す事さえ出来ずにいた。 リネが美人だとか力持ちだとか気がきくとか。 そんな事は関係ない。 あのリイの妹、てだけで誰も手を出そうとしなかったのに。

 それは俺にとって好都合。 あいつが売れ残った所で嫁に貰うつもりでいた。 女も二十一になりゃ結納金をやらなくたって貰ってやると言っただけで向こうはありがてえと頭を下げてくるだろう。

 ぎらぎらの刃物が歩いているみたいなリイは恐ろしいが、村から出奔してもう七年。 今まで一度も帰って来た事はねえ。 北の猛虎っていやあ北軍じゃ知らねえ奴はいねえとか、実家に金を送れるほど偉くなった、て噂だ。

 そんなに偉くなったんなら所帯を持つのもあっちだろ。 たぶん二度と戻ってこねえ。 ならそんなに怖がる必要だってねえよな? リネ程の上玉、こちらの懐が痛まずに手に入ると思えば多少の傷には目をつぶらなきゃ。

 それにいくらリイが恐ろしいと言ったって人を殺したとか乱暴を働いたとか言うんじゃねえ。 もっともあいつに喧嘩をふっかけるなんてそんな命知らず、こんなド田舎に住んでる訳ねえが。 そんなに怖いものが見てえなら怖いものがいくらでもあるって言う都に行きゃあいい。

 そこまで行ったってリイ程の奴がいるとは思えねえが。 何しろ道で向こうからあいつが歩いてくるのを見ただけで、さっと他の道に逃げ込まねえ奴はいなかった。 虎と一緒に道を歩きてえ奴がいるか? たとえその虎が今は満腹だと知っていたとしてもさ。


 リイは小さい時からすごい力持ちで、しかも動きがすばやい奴だった。 体格がいいって訳じゃねえし、普段はおとなしいから目立つ事はなかったんだが。 十四、五になった辺りからあぶねえ奴と噂されるようになった。

 原因は、あの目だ。 人をまるで自分の獲物か餌みたいに見る。 ぞっとするったらねえ。 あいつの背中を見ただけで逃げたくなるのは振り向かれたらどうしよう、と思うからだ。 十八になってすぐ、あいつが北軍に入隊したと聞いた時は村人全員がほっとため息をついたもんさ。


 幸いタケオの家の連中はリイを除いて普通の奴らばかり。 酒造りはしているが、酒を飲んで暴れたり、騒ぎを起こした事なんか一度もねえ。 リネの亭主になってしまえば好き勝手したって文句を言ってくる心配はなさそうだ。

 この春、お袋は妹の出産を手伝いに隣村へ行く。 俺はその間リネに住み込みで家事を手伝ってもらうつもりでいた。 そのまま子供を孕ませて家に帰れなくしてしまえば式を挙げる金もかからずに済む。 その目論みがたったの一週間で御破算になるだなんて。


「一体相手は誰だ?」

「それがなんと、あの六頭殺しの若様なんだって。 ほんとかねえ? だって本人が来た訳じゃないんだよ。 その従者って人がリネを連れて行ったのさ。

 いくら貴族の若様自らこんな村まで足を運ぶ訳はないって言っても、従者ですって言われて、はいそうですか、て娘を任せるって。 タケオんちも、一体何考えてんだか。

 もっとも本人に来られたって、この村じゃ若様の顔を見た事ある人なんていやしないけどさ。 少なくとも本人なら、じゃあ弓の腕前見せてくれ、て言う事だって出来るじゃないか」

 そこでおやじが口を挟んだ。

「馬鹿言ってんじゃねえ。 貴族でもねえのに結納金百万ルーク、ぽんと出せるかよ」

「百万!?」

「それだって、ほんとかどうだか」

 面白くなさそうに言うお袋に、おやじが呆れた顔で言う。

「嘘な訳あるか。 タケオんちの誰かが言いふらしているんじゃねえんだぜ。 大工のデンが言ってたんだ。 春になったら蔵やらなんやら建て増しするんだとよ。 手付け二十万、即金だと。 棟上げの時三十万、終わった時に三十万、その一ヶ月後に最後の二十万払うって話だ。 金貸しからはびた一ルークも借りずにだぞ。 それだけ結納金を貰ったからに決まっているだろ」


 お袋はまだごたごた言ってたが、俺は聞いちゃいねえ。 家を飛び出し、村で一番の情報通であるタジばあさんの所に走った。 タジばあさんはとにかく話を聞いてくれる人がいれば幸せ、というおしゃべりだ。 自分の事を言いふらされたらたまらねえが、誰かに何があったかを聞くならここより正確な所はねえ。

 そのタジばあさんによれば。

 トビと言う名の従者が来た。

 若くて貴族といっても通用するくらいのりっぱな風采をしていたけど、非常に腰の低い人だった。

 近所親戚は勿論、タジばあさんにまで六頭殺しの若饅頭を配ってよこした。

 自分は普通の馬に乗っていたが、見事な鞍が付いたいい馬を連れていて、リネはそれに乗って行った。

 タケオの家では荷物を積む馬を用意した。 その馬の代金も従者が払った。

 何でもリネ好みの家を買いたいと旦那が言ったんだとか。 それで吹雪で長旅が出来なくなる前に、と急いで出発した。


「新居も家具も全て結納金とは別に旦那が金を出すんだってさ」

 タジばあさんがそう締めくくる。 俺は唸った。

 疑う事が商売のお袋でなくたって、こんなうまい話、裏があるって思うだろ? そもそも伯爵家の若様が平民から嫁を貰うなんて話、聞いた事もねえ。 ましてや国中に名の知れた英雄なら、嫁なんてどこからでも選び放題じゃねえか。 妾でもいいから抱いてくれ、という貴族の女だっているだろ。 なんで一文の金もない平民の農家の娘を嫁に貰うんだ? わざわざ大金を払ってまで。


 そう言えば、リネも若様に熱を上げていたな。 手紙でも出して、私を貰ってくれとお願いしたとか?

 うーん、しかし若様って、持参金持って行くから貰ってくれ、とそっちからもこっちからも話が来ているような人気者だろ。

 第一、若様って確か今年ようやく二十歳かそこらだよな? て事は、リネより年下じゃねえか。 嫁にするなら十五、六の娘を探すところだ。

 どうせ妾にするのに呼び寄せたんだろうが。 たかが農家の娘を妾にするのに百万もの金を出すって。 それこそ変だ。

 二目と見れない醜男ならあり得る話かもしれねえが。 そんならそういう噂があってもいいはずだ。 確か、カレンダーになったとか聞いたことがある。 なら顔もいいんだろ。


 貴族なんだ。 ありあまる程金は持っている。

 しかしなあ。 普通は金を持っている奴程けちなんだよな。 俺は金持ちだからお前に金をくれてやるなんて奇特な奴、見た事ねえし。 それに貴族なら家柄だって気にするだろ。 少々見てくれがいいだけの平民の女を何の見返りもねえのに嫁にするなんてある訳ねえ。

 タケオ一家、全員騙されてんだ。 それは間違いねえ。 何がどう嘘なのか、俺のような平民には見当もつかねえが。 田舎者を騙くらかすなんて都会の奴らには朝飯前だろ。 いくらもたたずに話が違う、と逃げ帰ってくるだろう。 この際出戻りでもいい。 俺が貰ってやる。


 いつ帰るか、ちらちら様子を窺っているのに、いつまで経っても帰って来ねえ。 若様だってあいつをひと目見たら、はい、ご苦労さん、で家に返すと思っていたんだが。 夏が終わり、秋になっても戻らねえ。 季節はあっと言う間に過ぎ去り、長い冬が始まった。 一体いつになったら帰って来るんだ?

 ひょっとして娼館に売り飛ばされたんじゃないだろうな? 嫁としては年を食っているが、磨けば娼婦として人気が出てもおかしくないぐれえの美人だ。 考えてみりゃ娼館に売り飛ばす気なら百万て金を出すのもあり得るんじゃねえか? 都まで行けば一晩十万ふんだくる娼婦だっているって聞くし。

 だけど第一駐屯地辺りにそんなお高い女がいるのかね? 兵士なら高給取りって訳でもねえだろ。

 それとも何か特別な事をさせたくて、その為の女だったとか? いくら貴族だって百万もの金をつぎ込んだ女を簡単に殺したりはしねえと思うが。 用が終われば口封じ、てのもあり得るんじゃねえか? それなら家族に大金を渡して黙らせる、てのも分かる。 


 俺には娼婦を身請けする金はねえ。 だが逃げてえなら逃がす手伝いをしてやるぐれえは出来る。 それで手遅れになる前に第一駐屯地まで足をのばすことにした。 とにかくリネがどういうことになったのか、自分のこの目で見なけりゃ納得出来そうもなかった。

 お袋が早く嫁を貰えとうるせえが、どいつもこいつもリネに比べりゃ数段落ちるくせに結納金が十万欲しいとか、ふざけた事をぬかす。 リネの所為で突然この村の結納金の相場があがっちまったんだ。


 詳しい住所を聞かずにここまで来たが、若様は有名人だ。 第一駐屯地に着きさえすれば、どこに住んでいるか誰か知っているだろ。 その予想通り、住んでる所も奥さんも知らねえ人はいなかった。 リネの事を聞いたら、みんなが口を揃えて言う。

 美人で、美声で、気だてが良くて、淑やかで、初々しくて。

 次々聞かされる褒め言葉。 第一駐屯地周辺は北じゃ都会と言っていい。 そりゃ村では美人で通るが、ここでそこまで褒められる程か?

 特に淑やかって。 あのがさつを絵に描いたリネが?

 そりゃ働き者だが、やかんの口から水をがぶ飲みするような女なんだぜ。 一事が万事、そんな調子の奴なんだ。 男にしか見えない格好で野良仕事をしているし。 まさか同名の別人じゃないだろうな?

 でも秋祭りの時、のど自慢大会で「六頭殺しの若に捧げる歌」を歌って大賞を受賞したんだと。 確かにあの声はちょっとない。 歌うのが六頭殺しばっかだから聞き飽きたが。

 それに男顔負けの速さで雪かきするって。 まあ、それならリネだろ。


 家が大きいから遠くからでも見えるのはいいが、あれだって指を指されてからかなり歩いた。 間もなく家の門という所で後ろから、どどどど、と馬の蹄が聞こえた。 振り返ると雪だるまか、と言いたくなるくらい着膨れした人が乗っている。 その人は家の門をくぐり、中庭に着いた途端大声を出した。

「リネー! リネ! 帰ったぞー!」

「はーい! お帰りなさいませー!」

 これまたでかい、リネの声。 あいつの声ってほんとに響くんだ。 こんな大きな家に住んでいる、てのに往来にまではっきり声が届く。

 ぱたぱたぱた、と誰かが家から飛び出し、馬から下りたばかりの人にぱふんと抱きついたのが見えた。

 リネだ。 見違える程きれいになったが、リネだ。

 豊かな髪を見た事もない形に結い上げ、きれいな刺繍入りの綿入れを着ている。 ありゃずいぶん高かっただろうな。

 それにあの簪。 宝石が埋め込まれてるんじゃねえか?

 冬の日差しに揺れて、きらきら輝いてやがる。


「ばか、寒いだろ! 家の中で待ってろって何度も言ってるじゃないか」

 リネを抱きとめた人が優しく叱る。

「えへへ。 待ちきれませんでした」

「うん、俺もだ。 でも風邪引くからな。 お前っていつもこんな薄着だし。 外に出る時はもっとちゃんと着込んでからにしろ」

「はいっ」

 馬丁らしき人が馬を引いていくと、若様らしき人は自分のマフラーやコートをさっと脱いでリネをすっぽり包み、急いで家の中に入っていく。

 薄着って。 あのもこもこに着膨れしたリネを捕まえて薄着って。

 いや、それより。

 俺が今まで見た事のねえリネの幸せそうな笑顔。 そしてそれを慈しみを込めて見つめる若様の顔。

 ぐるぐるに巻いたマフラーの下から現れた色黒の顔は醜男どころか女に騒がれるぐれえの顔立ちだ。


 金あり、顔よし、貴族で、若くて、強いってか。

 くそったれ。 そんならどこぞの貴族のお姫様でも嫁にしたらいいだろ。 農家の娘は農家の息子のために残しておいてあげるっていう親切心はねえのかよ。

 肩をがっくりと落とし、大きなため息をついた。

 今更言っても仕方のない愚痴が次々頭に思い浮かぶ。

 結納金をけちろうとしなければ。 二十一になるまで待とうなんて思わなければ。 あの時正月休みなんか取らずに、さっさと結婚の申し込みをしていれば。

 あの女は俺のものだったのに。


 今となってはリネが村に帰ってくるはずがねえことぐらい言われなくとも分かる。 金があっても不幸せな奴はいくらでもいるが、あれじゃあな。

 逃がした魚の大きさに再びため息をついただけで俺はどこにも寄らず村へと帰った。


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