婚約 猛虎の話
「マッギニスに先を越されたか」
幸せそうな新郎新婦の挨拶が終わった所で隣に座るポクソン補佐が呟く。
マッギニスの結婚式当日は晩秋には珍しい柔らかな日差しの良い天気だった。 ごく内輪の式なので騒がしい事もない。 遠くに控えた楽師達が奏でる美しい調べが招待客の会話の邪魔にならないように流れているだけだからポクソン補佐の呟きは小さくともはっきりと聞こえた。
先を越された? 妻も子供もいるのに? 訝しく思って聞き返す。
「ポクソン補佐は俺が入隊した年にはもう結婚していただろう?」
「先を越されたのは私ではありません。 タケオ大隊長、あなたです」
「俺? 何を馬鹿な事を。 相手もいないのに先を越すも越さないもあるものか」
「ほう、相手がいないとおっしゃる?」
「いないな」
「鮮やかな剣さばきで、かっこいい所を見せようとした相手ならいたのに?」
そう言って俺の決め技の中でも一番華やかな奴を真似してみせた。 ポクソン補佐が誰のことを当てこすっているのかすぐ分かり、俺はかっとなった。
「言いがかりはおやめください! グゲンの八剣士は俺の相手として不足なかったから気合が入っただけで、別に侯爵令嬢にかっこいい所を見せようとした訳じゃ」
「私は相手がグゲン侯爵令嬢だなんて一言も言っておりませんが? 御紹介戴いた令嬢は両手両足の指で数え切れぬ程いたでしょう?」
しまった。 ちっ、と心の中で盛大に舌打ちする。
確かに今では俺の方が上官だし、師範として上に立つようになってからも数えれば随分経つ。 なのにどうにもこの人には頭が上がらない。 俺の口調から敬語を外すだけでも随分かかった。 その所為か、焦るとつい敬語に戻るのだ。
焦った事がばれた上にグゲンの名を口に出してしまった。 してやったり、とポクソン補佐の瞳が笑っている。
カマを掛けるのはこの人の得意技だが、最近はひっかかる事なんてなかったから油断した。 まさか気付かれていたとは。 心の準備が出来ていなかった所をいきなり突かれ、ぼろが出た。
考えてみれば、あの時は少々あからさまにやり過ぎた。 他の奴ならともかく八年間毎日一緒に稽古しているこの人には隠せない。 て事は、とっくの昔に気が付いていたくせに今の今まで黙っていた訳だ。 底意地が悪いったらない。 まあ、誰にも分かるまいと思い込むとは俺も大概甘いが。 まさか辺りに言いふらしたりしていないだろうな?
ポクソン補佐の顔を思いっきり睨んでやったが、本人はいたって涼しい顔だ。 さては俺にいつ吐かせようか機会を窺っていたな。
くそっ。 この仕返しは道場できっちりさせてもらうぞ。
澄まし顔を今すぐ剣で叩き潰してやりたいのは山々だが、マッギニスの結婚式はまだ終わっていない。 目出度い席で子供の喧嘩の真似をしたら物笑いの種だ。
仕返しが怖くて俺の補佐がやってられるかとでも言いたげに、ポクソン補佐がしらっと平気な顔で続ける。
「何を遠慮していらっしゃるのだか」
「何の事だ」
「皇国軍の大隊長は爵位で言えば準伯爵。 それだけでも侯爵令嬢に申し込む資格は充分なのに、皇国に知らぬ者とていない稀代の剣士、北の猛虎だ。 加えて六頭殺しの若の義兄。 ヘルセス公爵家、ヴィジャヤン伯爵家の姻戚という豪華付録まで付いてくる。 賢い貴族なら一も二もなく飛びつく縁談ですよ。 グゲン侯爵は中々賢そうな御方という印象でした。 大隊長が平民出身である事など全く問題にされないでしょう」
本当に嫌な所をほじくって来る人だ。 ほっといてくれ、と叫ぶのをかろうじて抑えた。
「遠慮などしておらん。 俺には結婚する気がないだけだ」
「え、師範、やっぱりグゲン侯爵令嬢と結婚するんですか?」
何をどう聞き間違えたのか、そこでサダが口をはさんできた。
「どうしてそうなる。 たった今、俺には結婚する気がない、と言ったのを聞かなかったのか?」
呆れ返って言う俺に落とされた爆弾。
「だって師範、グゲン侯爵令嬢と相思相愛ですよね?」
「な、何? 何だと? 相思相愛? 一体何を根拠に」
「すごい熱い視線でお互いの事、ちらちら見ていたじゃないですか。 ポクソン補佐じゃないけど、俺もマッギニス補佐より師範の方が先に纏まるんだろうな、て思っていました。
あんなに審議がだらだら続くもんだとは知らなくて。 あれさえさっさと終わっていたらなあ。 師範がせっかくの申し込む機会を逃す事もなかったのに」
ここは祝いの席なのだ、ともう一度自分に言い聞かせる。 怒りに任せて若の首を絞めるなど、やっていい場所じゃない。 何よりこいつが天然なのは今更だ。 これしきの事で平常心を失ったら危ない奴と思われる。
危ない奴と思われようとそれがどうした、と言ってられたのは若い頃だ。 今では仮にも大隊長と呼ばれる身分でそれなりの責任もある。 他人の目など知った事か、と言い捨てられない立場になった。 決してグゲン侯爵令嬢にどう思われるかを気している訳じゃない。
それにしても相思相愛? そんなはずがあるか。 彼女はサダの大ファンなんだろう?
だがこいつの目だけは侮れない。 ひょっとしたら本当に俺を見つめて。
いや、待てよ。 いくら視線の行く先に気付いたって、それに込められた女の気持ちがこの天然に分かるってか?
はっと気が付けば、ポクソン補佐が必死に笑いを堪えている。
くっ。 どうやら俺の気持ちの葛藤まで読まれてしまったか。
「ポクソン補佐。 我慢は体に良くないぞ」
腹に据えかねてそう言ってやったら、まずい事にマッギニスがやって来た。
「何を我慢していらっしゃるのでしょう?」
「何でもない」
黙ってろ、とサダに向かって怒鳴りそうになるのをかろうじて堪えた。 そんな事を言おうものなら、何をどうして黙るのか、ちゃんと説明してやらねば分からない奴だ。 だが俺に怒鳴られようと逆さ吊りにされようと言いたい事は言うのがサダ。
「ポクソン補佐が笑うのを我慢しているだけ」
俺の殺気は岩をも貫くと言われているのに。 どうしてこんな時だけ何の効果もないんだ?
「ほう。 何かおかしい事でもありましたか?」
「何でもない、と言ったのが聞こえなかったのか? 新郎のくせに。 こんな所で油を売っている場合じゃないだろ」
俺のいらついた声は大概の奴をびびらせる。 なのにどいつもこいつも気にかけた様子さえ見せない。 一体こいつらの神経は何で出来ているんだ?
「何もおかしくないけどさ、師範がグゲン侯爵令嬢に申し込む機会を逃したの、マッギニス補佐も残念、て思わない?」
「それは確かに残念至極。 そういう事でしたら丁度父が来ております。 橋渡しをしてもらえば話が早いでしょう。 父はグゲン侯爵の友人ですので」
「な、何を言う! 俺に結婚する気はない、と何度も言っただろうが!」
俺の背中に経験した事のない冷たいものが走る。 もしかしたらこれが恐怖と言うものなのか?
それともマッギニスの奴、結婚して冷気が増強した? 普通は逆だろう?
「えー、結婚っていいもんですよ。 師範も一度はしてみなきゃ。 食わず嫌いって言葉、知ってます?」
「お前こそ、一生結婚する気はない、て以前言ってなかったか?」
「その間違いを正す事が出来たのは師範のおかげです。 ありがとうございます」
サダが、ぴっと俺に向かって敬礼する。 盛大に笑い出したポクソン補佐の目から涙が流れ始めた。
そうか、あなたの我慢も所詮はその程度か。 見損なったぞ。
その点さすがはマッギニス。 表情にいささかの変化もない、と思った途端、サダが言った。
「マッギニス補佐。 こぶしを握りしめちゃって、どうしたの?」
マッギニスはそれに答える事なく両親が談笑している方へと歩いて行った。
ふん、肩を震わせるぐらいならさっさと笑えばいいだろうが。 面倒くさい奴だ。
とにかく、このまま黙って外堀を埋められてはたまらない。 マッギニスが父親を連れて来た。
「タケオ大隊長、いや、実に目出度い」
「マッギニス侯爵。 何か誤解があるようです。 御子息が何と言ったか知りませんが、私に結婚する気はありません」
「結婚する気などなくとも結婚は出来るのですよ」
そう静かに諭された。 それはそうかもしれないが。 何か、違うだろう?
「師範たら、照れちゃって」
サダの言葉に脱力し、結婚する気はないんだ、と再び言い返す気にはなれなかった。 悪気はない奴を責めるのは大人げない。 それに嘘を言っている訳でもないから尚更始末が悪い。
「全て私に任せなさい」
マッギニス侯爵の言葉に、俺はうんともすんとも言わなかった。 彼がグゲン侯爵とどれだけ近しいのか知らないが、断る機会ならこれからいくらでもあるだろう。 頼んでもいない事をしてもらったって、礼を言わなきゃならない訳でもない。
しかし何事にも素早くそつがない人なだけに皇都に帰っていくらもしない内に、式は来年四月に決まった、と知らせて寄越した。
おい、ちょっと待て。 俺は結婚するなんて一度も言ってないじゃないか。 それに貴族の結婚って、婚約から一年後とか二年後とか待つものなんだろう? 第一、なんで当事者の俺の都合を聞かずに式の日取りを決めるんだ?
いくら何でもそれは急ぎ過ぎ、と手紙を書いている最中にグゲン侯爵家執事のボーザーと名乗る男が俺を訪ねて来た。 なんと、新居を買いに来たと言う。
「そんなものを買う気はない」
「何卒、御心配なさいませぬよう。 これはグゲン侯爵がお買い上げになる家です」
そう言われては、自分の奉公人でもない奴に買うなと命令出来るはずもない。 俺は手紙を出す事を諦めた。
豪邸を見て回るボーザーの噂はその日の内に北軍中に知れ渡ったようで、翌日、俺はリネから文句を言われた。
「ちょっと、リイ兄さん! 結婚するならするって私に一言あってもいいんじゃないの? 町の不動産屋から兄の結婚教えられる妹の身にもなってよ。 まさか父さんや母さんにもまだ伝えてない、なんて言わないでしょうね?」
俺でさえ自分の結婚を昨日初めて知ったんだ。 つまりリネはこの結婚を俺と同じ日に知った訳だ。 それって充分早耳と言えるんじゃないのか? もっともそれをここで口に出すという愚は犯さなかったが。 リネを宥めるつもりだったらしく、サダが言う。
「何しろ俺達の結婚でさえ一ヶ月もリネに連絡しなかった人だからなあ。 師範は照れ屋だし。 仕方ないよ」
「なんですって?」
気が弱い訳でもないのに、お願いだからお前はもう黙っていろ、とサダに言う事は出来なかった。 リネの文句は、どうして私の結婚をそんなに長い間黙っていたの、という事に移り、俺は諦めと共に謝った。
はっきり言って面白くない。 そりゃ全てサダの所為とは言わないさ。 しかし俺の所為でもないだろう? あれ程はっきり何度も結婚する気はないと言ったんだから。 それでも俺の所為だって言うのか?
それに誰にも結婚するなんて言ってない。 一体どうしてそっちからもこっちからも婚約祝いが届くんだ? 差出人の名前を見たって聞いた事もない奴ばかりだ。 それをどこに返品したらいいのか途方に暮れた。
すると俺の宿舎に居座っているボーザーが言って来やがった。
「お礼状の発送はお任せ下さい」
「俺がしたいのは返品だ」
そしたら何も言わずに自室に籠りやがる。 この役立たずめ。
翌日の第一駐屯地の大隊長が出席する月例会議では開口一番、将軍に釘を刺された。
「お前まで私を式に呼ばんとか言わんでくれよ」
俺が口を開く前にカルア将軍補佐がおっしゃった。
「ボーザーとポクソンがいれば手配は万全だろうが、何か必要だったら遠慮せず申し出るように」
トーマ大隊長が蘊蓄をたれる。
「何とも目出度い。 未婚の大隊長なんて今までいなかったからな。 この大隊長結婚式は北軍史上初だ」
「若はもう結婚してるし、これが最初で最後かもしれぬな」
そうジンヤ副将軍がおっしゃる。 それからはもう、誰を呼ぶ、呼ばない、だ。
これは予算会議のはずだろう? なんで俺の結婚式の詳細を決めているんだ?
俺はもう、やけくそになっていた。
「そもそも私に結婚する気はないのですが」
一瞬しーんとなった会議室に、沈黙をものともしないサダの声が明るく響く。
「またあ。 師範たらそこまで照れなくとも」
「お、照れる虎か。 いや、それも中々不気味でいい」
すかさず放たれた将軍の言葉に皆がどっと笑い崩れる。
俺だって笑ったさ。 自分の事でなきゃな。
だが笑っている場合じゃないだろう? そのまま俺の言葉はきれいに無視されたんだぞ!
照れ屋の虎には小規模の式で、となったんだから無視はされていないと言うのか?
なら招待客の数が五百を越えているのはなぜだ? どこで何を間違えたらこうなる。
俺は逃れられないうず潮に引きずり込まれていくような気持ちで次々届けられる祝いの山を見つめた。




