視線 ヨネの話
「ララったら、そんなに待ちきれなかったの?」
本日はお招きどうもありがとう、と挨拶をしながら、玄関先で私を出迎えた友人のシールキ子爵夫人を少々呆れた目で見た。 普通ならお客様をまず応接間に通してから女主人が挨拶に出て来るものなのに。
「ヨネ、いらっしゃいませ。 ねえねえ、早速見せたい物があるのよ。 どうぞ私の読書室にいらして」
わくわくした様子で私をせき立てる。
「まあ。 余程の物が手に入ったようね。 でもその前に、まずシールキ子爵に御挨拶申し上げないと」
「ヨネったら。 侯爵令嬢なのだもの。 そこまで気を遣わなくてもよいでしょうに。 本当にいつも義理堅いわね」
そうは言ってもララは気を遣われた事が嬉しそう。 私をシールキ子爵の執務室へと案内してくれた。
「おお、これはこれは、グゲン侯爵令嬢。 ようこそおいで下さった。 何卒ごゆっくりお過ごし下さい」
御挨拶申し上げるとシールキ子爵はいつものように温かく歓迎して下さった。 今日はいつにも増して御機嫌の良い御様子。 そして「貴婦人の友」新年号は去年の三倍印刷した事を教えて下さった。
「六頭殺し人気、止まる所を知らず、ですな。 はっはっはっ」
「それはようございました。 とても素敵な仕上がりでしたもの」
ララの実家、ラティネン伯爵家は「貴婦人の友」を発行している。 シールキ子爵はララと結婚してから義父の仕事をお手伝いするようになった。 新年号は予約販売だけで完売した為、子爵自ら増刷の手配に駆けずり回ったのだとか。
例年、新年号が増刷される人気の秘密は付録のカレンダー。 皇国軍選りすぐりの兵士、十二名の肖像が各月を飾っている。
一月は勿論、六頭殺しの若様。 端正なお顔でこちらを眺めてくださるのは嬉しいけれど、それだけでは三倍増刷とはならない。 去年のカレンダーだって彼が一月を飾っていたのだから。 今年の増刷の理由は特別付録として付いた若様のポスター。 なんと衝撃のもろ肌脱ぎ!
「射手」という題のそのポスターは強弓を引き絞る射手と、その背中の美しい筋肉の盛り上がりを余す事なく描き切っている。 背後からのポーズだから若様の顔は鋭い視線を投げる横顔が肩越しに覗くだけ。
けれど大峡谷を背景に立つその勇姿! これにハートを射抜かれない女性はいない。 このポスターのおかげで「射手」を描いた画家、アロ・ピエレの名は広く知られるようになった。
ララは夫との世間話を早々に切り上げ、私を彼女の読書室へと案内した。
「アロ・ピエレの手による水彩画よ。 題は『祈り』」
一瞬、自分の周りの空気が凍りついたような。 胸に迫る感動と共にその場に立ち尽くした。
灰色を基調にした透明な日差しの煌めき。 静謐でありながら矢を放つ前の緊張感。 冬の冷気が伝わってくるような的場を背景に、強弓を引き絞る若様が描かれていた。
いえ、まるでこれが若様であるとは言いたくないかのよう。 射手は厚着しており、あの美しい背中が見れる訳ではない。 お顔も半分防寒具に覆われている。 なのに彼は紛れもなく六頭殺しの若。
あの瞳。 気迫。
思わず感嘆のため息を洩らし、ララに訊ねた。
「見事だわ、ララ。 この素晴らしい作品をどのようにして手に入れたのか教えて下さらない?」
ララは私の審美眼を信頼しており、私の反応に満足げだ。
「うふふ。 秘密、と言いたい所だけど、ヨネには特別教えてあげる。 でも誰にも言わないで下さいませよ。 私がお父様に叱られてしまうから」
彼女はピエレの絵を買い付けて来る人を通じ、出版用の仕事とは別に水彩画を描いてくれるよう依頼したのだと言う。 なんとも羨ましい事この上ない。 是非私にも一枚、仲介の労を取ってくれるよう彼女にお願いした。
欲しいのは「祈り」だけれど、それは諦めるしかないわね。 彼女がどれだけ気に入っているか言われないでも分かるもの。
因みに今日私が彼女の家を訪問したのは彼女がこの絵を見せびらかしたかったからではない。 我が家には今、若様御本人が滞在している。 若様に関する詳しい事を聞きたいとララに懇願され、訪問したのだ。
許されるものなら親友のララを自宅に招待してあげたかったけれど。 これに関してはお父様から厳重な注意があった。
「万が一、証人に何かあってはグゲン侯爵家の家名にかかわる。 彼らが滞在中は絶対何人たりとも招待したり滞在させたりしないように」
残念だけれどこれ程までに言われてはいくら親友のララといえども諦めてもらうしかない。 でもそのおかげでララを散々羨ましがらせる事が出来たのだけれど。
若様のきりっとしたハンサムなお顔。 きらきら輝く瞳。 本物の方がポスターやカレンダーよりずっと素敵! こんなに間近にお会いする事が出来るだなんて信じられない、などなど。
実際は毎日夕食を御一緒しただけ。 若様の口数は少なくて、どんな質問にも短くしか答えて下さらなかった。 御結婚おめでとうございますと言えば、奥様の事を話し始めるかと思ったのだけど、ありがとうございます、と御返答下さって終わり。
奥様がどのような御方かお伺いしたら、俺好みの女性です、とお答えになって、それ以外の事は何もおっしゃらない。 さぞかしお美しい方なのでしょうね、と申し上げたら、はい、と頷いて頬を染められる。
んまーっ。 新婚をその一言で物語っていらっしゃるのではございませんこと? 許せませんわ。
とは言え、皇国の英雄とこれ程近しくお話出来るなんて生涯二度とない機会だもの。 のろけでも何でもいいからもっと詳しくお話を伺いたいのに。 お茶にお誘いしたのだけれど、にべもなく断られてしまった。 お客様に失礼になるから何度もしつこくお誘いする訳にもいかない。
弓の稽古で忙しいとおっしゃるから、それを見せて戴けないかとお願いしたら、危ないから近寄らないようにと言われたし。 仕方がないから、はしたないとは思ったけれど庭でのお稽古を二階の窓からこっそり覗いた。
四月になってもあんなに厚着だなんて。 さすがに春先の肌寒い時期にもろ肌脱ぎになるとは思わないけれど。 暑くないのかしら?
結局、お肌を見るどころか、お姿を見る事もほとんど出来ない。 窓から時々空に向かって矢が飛ぶのを見るだけで滞在が終わってしまった。
ただ若様がいらしてから食卓に鴨などの鳥料理が連日出てくるようになった。 この季節には珍しいから、どうしたのと料理長に聞くと、若様が毎日何羽も仕留めて下さったと言う。
「若様が? 家から一歩も出られないのに?」
敷地内は勿論、辺りに鴨が喜ぶ水場の類はないから鴨がこの近くを飛ぶ事自体あまりない。
「遥か遠くを飛ぶ鴨にまで矢が届かないでしょう?」
「しかしどの鳥にも若様が放った矢が刺さっておりました」
皇国に名立たる弓の名手とは言え、驚くべき遠射。 密かに舌を巻いた。
でも感嘆させられたのはそれだけでない。 冷気を漂わせるマッギニス様。 いかにも剣豪らしい風貌のポクソン様。 いずれのお連れ様も只者ではあり得ない。
そして言わずと知れた北の猛虎。
タケオ様に直に御挨拶するのは初めてだけれど、世間で有名なあの咆哮を私もこの耳で聞いている。 当時十三歳の私にはこの世の全てを蹂躙し尽くす猛獣の雄叫びと聞こえ、ただただ恐ろしいばかりだった。
その猛虎を目前にしていると言うのに、まっすぐに見て、きちんと御挨拶申し上げる事が出来た。 私も少しは大人になったからかしら?
いいえ、それは違う。 この剣士が変わられたのだ。 同じ人とは思えぬ程に。
ぎらつく刀身が美しい鞘に納まった、とでも言うのかしら? そう、あの方が帯刀していらっしゃる「珠光」のように。
思わずひれふしたくなる威容は相変わらずでいらっしゃる。 けれどあの試合場で痛い程感じた人を震え上がらせる殺気はどこからも感じられない。
おそらく試合となったらまた別なのだろうと思って我が家の剣士達との手合わせを覗きに行った。
何と鮮やかな剣捌き! 剣舞と見まごう華やかさでありながら一撃で相手を下していらっしゃる。 グゲンの八剣士と言えば世間では公爵軍にさえ劣らぬ剣の使い手として知られている。 なのに力量の差は私のような剣を握った事のない者にさえ明らかだった。
剣を抜いていらっしゃる所を見ても殺気など感じられない。 誰とも余裕で対戦していらっしゃるから? 手を抜いている、と言う訳ではないのでしょうけれど。 楽しんでいるとさえ言えるような。
そして時偶、ちらっと私を見る。
いいえ、勘違いなんかじゃないわ。
確かにあれは私への視線。 私を呼ぶかのような。
かつて感じた事のない胸騒ぎ。 あの視線に応えれば私の人生の全てが大きく変わってしまう。 そんな予感さえする。
恐れと、
……期待?
実際には何事も起こらなかったのだけれど。 予定されていた一ヶ月の滞在期間が終わり、皆様は次の受け入れ先であるダンホフ公爵家へと移動なさった。 私の胸に言い知れぬ失望だけを残して。
お父様がおっしゃる。
「これでお前も若に対する諦めが付いたであろう。 かねてより申し込みのあった五人の候補者の中から婚約者を決めるように」
ごもっともなお言葉に、どうしてはいと言えないのだろう?
若様に対する気持ちは単なる憧れだったと今なら思う。 奥様を深く愛していらっしゃる事が伝わって、微笑ましいとは思っても嫉妬を感じたりはしなかった。
お父様が選んで下さった婚約者候補はどなたもお家柄もお人柄もりっぱな方々。 夫とするに不足はない。 なのに私ったらタケオ様の視線ばかり思い出している。 いくら待とうと引く手数多のタケオ様から申し込んで戴けるはずはないのに。
私はお父様にお願い申し上げた。
「もう少しだけ、娘時代を楽しむわがままをお許し下さいませ」




