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弓と剣  作者: 淳A
新婚
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義姉  若の義姉、ライの話

「奥様、本日届いた分でございます」

 侍女のジアが夜会、茶会、観劇等の招待状の山をお盆の上に乗せ、差出人のお名前を読み上げますか、と聞いてきた。 ちらっと見て軽いため息をつく。

「その必要はないわ、ジア。 いつものように全部にお断りの手紙を出しておいて頂戴」

 心得たジアが一礼して退室した。 


 やれやれ。 出産したばかりと言う立派な言い訳があるから断る事自体はそれ程難しい事でもないけれど。 あの山ではおそらく二十四、五通はある。 数が数なだけに速筆のジアといえども返事を全て書き終わるのに一時間や二時間では済まないでしょう。 書き終えた後は彼女の手を休ませてあげないと。


 出産は痛かったけれど出席お断りの言い訳としてこれ程使い勝手がいいものは他にない。 悪阻から出産、産後に至る最低でも一年半という長期間、気分がすぐれない、と一言言えば納得してもらえるのだから。 気分がすぐれないのに誰それの夜会には出席した、では面倒な事になるけれど、私は社交界に興味はない。 旦那様との婚約発表以来どちら様のどのようなお招きにも御遠慮申し上げている。


 それにしても毎日あの山では。 もう一人、秘書を雇うべきかしら? ジアは信頼が置けるものだから、つい何から何まで頼んでしまっているけれど。

 彼女は後宮の女官長となれるよう、様々な訓練を受けている。 本来なら十人や二十人はいる侍女の上司として命令はしても雑用を自らやらねばならない人ではない。

 難しいお役目であろうと立派にこなせる能力があるのに私が毎日やらせている事と言えば手紙の代筆。 夜会への招待に対するお断り状。 そのようなばかばかしい仕事をさせてよい人ではないのに。


 お金はあるのだから新しく侍女を雇うのは構わない。 ただ噂を撒き散らされる目にあうのが怖いだけ。 口の堅い侍女程得難いものはないのだから。

 それに断る事には変わりはなくても判で押したように同じ文句を誰にでも書き連ねれば済むというものでもない。 ほとんどの招待状は旦那様より爵位が上の方から戴いている。 或いは同位であっても職場の上司とか。

 たかが断り状。 されど断り状。 失礼があっては私はともかく旦那様のお立場をあやうくする。 その点ジアは賢く、しかも口が堅い。


「信頼出来る女性が何人もいるとは思わない事ですよ」

 私が十六の時亡くなったお母様のお言葉が脳裏に浮かぶ。 公爵家令嬢として受けた厳しい教育には歴史、政治、軍事、経済を含むけれど、勉学以上に重要なのが人間関係である事は母から教えられた。 決して殿方に隙を見せないようにと躾けられ、それにもまして慎重であらねばならないのが女性とのお付き合いである、と。


 王太子や皇太子殿下に正妃として嫁いだとしても夫となる御方が私を気に入るとは限らない。 寵妃が出来てしまえば正妃の立場は更に難しいものとなる。 寵を得るのに爵位は必要ないのだから。 男爵の娘であろうとも男子を産んでしまえばその立場は確固としたものとなり、正妃の産んだ子の競争相手にもなり得る。

 もし子がいなければ正妃として後宮の取りまとめをする際、どれ程気を遣っても遣い過ぎるという事はない。 サジアーナ国第二王子に嫁がれて十年後、サイお姉様は正にそれをなさる羽目になった。 王太子殿下が早世された為、気楽な第二王子妃では最早ない。 御成婚以来一度もお会いした事のない私には、お姉様の御苦労を慮る事さえ出来ないのだけれど。


 ただ私の場合、気楽な嫁ぎ先であって欲しいと望んでいた訳ではなかった。 自分の嫁ぎ先に関する希望や夢が何もなかったのは所詮貴族の結婚に自由はないと諦めていたからでもあるけれど。 皇王族や外国の王侯貴族にだけは嫁ぐまいと心に決めていたのでもなかった。 なのに旦那様を一目見た瞬間、直感した。 この人だ、と。

 夫の身分がここまで下がるとは正直な所自分でも予想外だったからお父様の説得には少々手間どったものの、今では私を愛してくれる夫とかわいい子供に恵まれ、幸せだ。


「ライ。 決して忘れるのではありませんよ。 女性の敵は女性。 常に微笑みを忘れず、けれど心の鍵はしっかりと掛け、誰も入れてはなりません。 特に見近な者程用心なさい」

 そうおっしゃっていたお母様が、ただ一人、全幅の信頼を寄せていたジア。 お母様の死後、公爵家の女主人となるには余りに幼い私の後見役も務めてくれた。 彼女には感謝してもしきれない。 だからヴィジャヤン伯爵家に嫁ぐ事が決まった時、私はジアに付いて来る気があるかどうかを訊ねた。

 彼女にとって伯爵夫人の侍女になるとは三段階どころではない格下げとなる。 それにお兄様が御結婚なさるまでこのまま公爵家で侍女頭を勤め、公爵家内々の切り盛りをしてくれればお父様も御安心なさるはず。

 どなたが未来の公爵夫人になるかによって多少の調整をする必要はあるとしてもジアが次代の公爵夫人に信頼されるまで大した時間はかからないでしょう。 ジアには私の侍女を推薦してもらえばよいと思っていた。 ところがジアは私に付いて来る事を望んだ。


「お嬢様。 どうか私をお連れ下さいませ。 私は亡くなられた公爵夫人にお約束申し上げました。 何があってもお嬢様のお側から離れません、と」

「けれどお母様は私がどこかの国の王妃か、公侯爵夫人になると思われていたに違いないわ。 伯爵夫人の侍女ではお前の能力の持ち腐れとなるでしょう?」

「そうかもしれませんが、そうならないかもしれません。 人生、先の事など分からぬもの。 このままお嬢様にお側にいさせて下さい。 必ずやお役に立つ日が来ると思います」

 私はその言葉に甘える事にした。 身分が低くなっただけに数多の侍女を従える訳にはいかないけれど、ジア一人いれば十人の侍女がいるより心強い。


 婚約から結婚に関しての采配はジアがいなければこれ程すんなりと乗り切れはしなかった。 私の婚約は義弟のサダさんが有名になる前に発表されたから、社交界ではちょっとした噂の的になった。 何よりお父様がこの結婚をお許しになった事が世間を驚かせたようで。 私の純潔が旦那様に汚された所為では、とけしからぬ推測をする者さえいたらしい。

 私にいたはずの友人という友人の訪れがぴたっと止んだ。 まあ、上流階級の付き合いなんて多かれ少なかれそのようなもの。 結婚の準備もいろいろあったし、煩わしい付き合いがなくて有り難いぐらいだった。


 ところが婚約発表の二ヶ月後、サダさんが北軍に入隊した。 「六頭殺しの若の義姉」という肩書きは、私が皇王室に嫁いだとしてもこれ程ではあるまいと思われる劇的な変化を齎した。 誰も見向きもしなかった私達の結婚式への招待状が、突然誰もが欲しがるものとなり、様々な方からの御招待状が私の元に届き始めた。 どれもお受けする事はなかったけれど。

 皮肉な事にそれ以来ジアの本領が発揮されている。 結婚前は公爵令嬢でも間もなく伯爵夫人となるのだ。 同格の伯爵家からの招待状ならともかく、公侯爵夫人や令嬢からの御招待となると全て無下には断れない。

 何千とひねりだされる言い訳に次ぐ言い訳。 決して相手をないがしろにしたとは思われず、しかも丁寧にお断り申し上げるジアの技量には深く感心させられた。


 翌年七月、お義父様が皇太子殿下相談役に御就任なさった後、私宛の招待状は日に十通を越えるようになった。 結婚後半年で妊娠し、ひどい悪阻に苦しんだ事は事実だけれど、妊娠の言い訳がなければ流石のジアも苦境に追い込まれた事でしょう。

 何しろ気分が優れないと返事をしようものなら見舞いの客が贈り物を持って自宅に訪れる。 迂闊に元気な姿を見られる訳にはいかないから庭に花を摘みに行く事さえ辺りの様子を窺ってからでないと出来ない。 結局どなたにも会わず、見られずに済んだけれど。

 それでも爵位があるだけの貴族ならまだ対応のしようもある。 旦那様のお仕事は宰相庁勤務。 当然上司がいる。 その上司も。 上司の上司もいる。 その奥様方の御招待となれば、お断りする事は外交手腕に長けたジアでなければ不可能だった。


「ジア。 いつも気苦労をかけるわね」

「とんでもございません。 申し上げたではございませんか。 奥様が私の能力の持ち腐れを御心配なさった時、そうならないかもしれない、と」

 ジアが微笑む。 もっともこれが単なる前哨戦になるとは、さすがのジアも予想していなかった事でしょう。


 ある日、サダさんが結婚したという知らせが早馬で届いた。 旦那様はこの結婚が窮地を脱する為の便宜上の策であったとおっしゃる。

「ならば適当な時間を置いた後で離婚となるのでしょうか?」

「いや、それはないだろう。 サダは変な所に頑固な奴でな。 理由が何であれ一旦結婚したあいつが離婚を考えるとは思えん」

「相手が貴族との結婚なんて窮屈で嫌、と言うかもしれませんよ?」

「ふむ。 まあ、仮にそう言ったとしてもサダのうるうるした瞳で縋られたら間違いなくほだされる。 サダが其方に縋る、事はないとは思うが。 私が知る限りこの世でサダの涙目に縋られて嫌と言えた人は母上だけだ。 気を付けるように」


 それなら世間にこの結婚の経緯を漏らしてはならない。 それでなくとも六頭殺しの若の妻の座を狙っていた貴族の女性は数えきれないのだし。 どうやら誰もが、あれ程の英雄ならば皇王族のどなたかが御降嫁なさるかも、と思い込んだ故の遠慮があったようだ。 なのに蓋を開けてみればお相手はただの平民。 しかも便宜上の結婚と知られれば、リネを蹴り飛ばして自分が後釜に、と考える者が出るに違いない。

 リネがどんな娘か知らないけれど、サダさんが妻と心に定めた人なら義姉として出来る限り守ってあげたい。 そう、お姉様が私にして下さったように。

 結婚後、お父様が、今だから言うが、と教えて下さった。 旦那様との結婚をお許し戴けたのは、お姉様よりのお願いがあった故である事を。


 十一月、皇太子妃殿下が皇都に無事御到着なさったと同時にサダさんの結婚が知れ渡った。 この場合それは事実であるだけに否定のしようもない。 来月出産を控えている私に毎日二十通を越える招待状が届くようになった。 どうやら皆様、それ程この電撃結婚の真相を知りたくてたまらないらしい。 義理の姉とは言ってもまだ本人に会った事がある訳でもない私に聞いてどうするの、と自分なら思うけれど。

「貴婦人の友」カレンダーにサダさんの肖像画が載ったから顔は知っている。 サダさんに関する知識と言えば、あの雑誌を買った人と私の間に何の変わりもないと言うのに。


 皇太子妃殿下のお出迎え任務を無事に終え、サダさんが結婚の挨拶に訪ねていらした。 初対面では素直な心根の照れ屋さんと言う印象だった。 女性に騒がれるのも無理はない爽やかな顔立ち。 けれど何と言っても一番の魅力は、この飾らない性格。

 これが知られれば、たとえ既婚であろうと更に人気が出るに違いない。 リネもさぞかし苦労する事でしょうね。


 十二月二十日にサムが生まれ、誕生祝いの贈り物が次々と届き始めた。 それにはお礼状を出せばよいと高を括っていたのだけれど、年末にサダさんのポスターが売り出され、若人気を更に煽ったよう。 「貴婦人の友」新年号は発行と同時に完売したのだとか。

 本来なら出産後間もない女性に夜会の招待状を送るのは遠慮すべきなのに、待ちきれなかったよう。 一月にはもう招待状が届き始めた。 二月は未だ寒さが厳しい。 なのに三十通を越える日さえある始末。 その中に無視の出来ない一通があった。 遂にブリアネク宰相夫人よりお茶会への御招待を戴いてしまったのだ。

 宰相閣下は言うまでもなく、旦那様の上司の上司の上司の上司の上司。


「ジア。 何か良い案があるかしら?」

「先代ジョシ子爵夫人に、サム様の顔をお見せになりがてらお見舞いにお出かけになる、という手がございます」

「ぐずぐずしていては面倒な事になりそうね」

 ジアが頷く。

「明日御出発なされば前々から予定していたという体裁を取れますが。 日が経てば経つ程、御招待を断る為に出発したと思われるでしょう」


 おばあ様の御容態が中々快方へと向かわず、お義母様は頻繁に東を御訪問なさっている。 私は旦那様に御了承戴き、東に向けて出発する事にした。

 ジアは、長患いの祖母に曾孫を見せたい旨を長々と記した丁寧なお断りの手紙を宰相夫人宛にしたためた。


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