大柳 カナの話
「カナ、先代様からお前に打診のお言付けを戴いたのだがね」
ある日私はヴィジャヤン伯爵本邸執事執務室に呼ばれ、サダ坊ちゃんが御結婚なさった事、そのため奥様付き侍女を探している事をタマラ執事から伝えられた。
御出世なさった事でもあるし、二十歳というお年を考えれば早すぎる御結婚と言う訳ではない。 けれどサダ坊ちゃんには、もしかしたら一生御結婚なさらないのでは、と思わせる飄々とした一面があった。 それに御婚約の話を聞いた訳でもない。 なのに御結婚とは。
先代様は自由な気風を家内に送り込んだけれど、当代様はどちらかと言えば父方祖父である厳格な先々代様に似ていらっしゃる。 手順を踏まない御結婚に反対なさらなかったのだろうか、と内心驚いていた。
まあ、何が起こるか分からないのが人生だとは思う。 これは、と思う御方に巡り会い、即決なさったのであれば幸いだ。
とは言え貴族にあるまじき電撃の御結婚。 しかも奥様は平民出身でいらっしゃるのだとか。 これはどうやら訳ありの御様子。 信頼の置ける者でなくては務まらない、という事で私にお声をかけて戴いたのなら名誉な事だけれど。 先行きそれなりの困難が予想される。
先代様はおそらく御自分が直接頼んでは私が嫌とは言えなくなるとお気遣い下さったのだろう。 タマラ執事がその辺りをさり気なく代弁して下さった。
「若には西に戻る気はないと考えた方がよい。 北に骨を埋める事になっても構わないのか、よくよく考えてからお返事申し上げるように」
タマラ執事にそう言われ、私は自室に戻ってから考えた。
北、か。
今まで一度も行った事はない。 聞いただけで寒くなりそう。 オークは出るし。
まあ、そのオークを矢で射殺す方が一緒にいるのだから、それはいいとしても。 なにしろ遠い。 しかも今の所侍女の候補は私だけなのだとか。 どうも人手不足の様子。 仕え始めたら簡単に休みを取る事も叶うまい。 すると西に住む息子夫婦や孫とは、これっきりもう二度と会えない事になる。 それを考えると、どうしても二の足を踏む。 孫が大きくなれば会いに来てくれるかもしれないけれど。
ただ私にはヴィジャヤン伯爵家に返しきれない恩義がある。 正確に言えば、先々代様の奥様に。
ありていに言ってしまえば、私は若い頃ある貴族の次男に騙されて妊娠してしまったのだ。 子供が出来てから相手は既に結婚しており、私がなれるのはせいぜいで妾と知った。
貴族の子弟とは言え爵位を継ぐ訳でもない男。 かろうじて独立してはいたものの手狭な家には妻と三人の子供がいた。 奉公人の部屋さえなく全てが通い。 それでは私の部屋はどうするの、と聞けば物置になってる部屋を片付けるという。 天井まで重なって置いてある物はどこにいくのか聞く気にもなれなかった。
一番激怒したのは私の父だった。 もっとも私を騙した男を怒っていたと言うより騙された私にかんかんだった。 なぜならこれで私は誰からも正妻としては望まれない傷物となり、父の手に入るはずだった結納金がふいになってしまったから。
妾に出す支度金など知れている。 父とは元々仲がいい訳ではなかったけれど、これで本当に縁が切れた。 母は私が子供の頃病死しているし、頼れる親戚の類は一人もいない。
この不始末は私がヴィジャヤン伯爵家に奉公して一年足らずの時に起こった。 単なる行儀見習いで、一年間だけの臨時として雇われていたから、ふしだらな娘と即座に蹴り出されても文句は言えない立場だった。
相手の男は私が一人で育てるなら養育費を出すと言ったけれど、約束してくれた金額はすずめの涙。 家賃さえ払えない金額だ。 身寄りのない十六の娘が住む家もなく、どうやって子供を育てると言うのだろう。
育てる以前に無事出産出来るのか。 出来たとしても家賃さえ碌に払えない養育費ではいくらも経たずに飢え死にする。 いっそ今すぐ死ねばお葬式を出してもらえるだけましかも、と馬鹿な事さえ考えた。
そこで私の苦境を察した大奥様が、先々代様に働きかけて下さった。 先々代様は私を騙した男の親に圧力をかけて下さり、慰謝料として五十万ルークと養育費年間十二万ルークを十年間、男に払わせてくれた。 そして子供をヴィジャヤン伯爵邸で産み、奉公しながら育てられるよう様々な便宜を取りはからって下さったのだ。
慰謝料があったおかげで伯爵家にこれ以上の御迷惑をかけずに出産費用を払えたし、幸い安産で息子はすくすくと育った。 戴いた給金で息子に読み書きを教える事も出来た。
十四になった息子は伯爵様に御紹介戴いた大工の下に修業に行き、更に十年後、そこで出会った娘と結婚して間もなく大工として独立した。 今では子供も二人授かり、幸せな家庭を築いている。 孫に囲まれ、笑いの絶えない毎日は全てヴィジャヤン伯爵家によって齎されたと言っても過言ではない。
ヴィジャヤン伯爵家の奉公人は少数精鋭を誇る。 専任の警備剣士こそいないけれど、侍女から庭師の果てまで全員武芸の心得がある。 料理人のタキでさえ日常やっている事は料理でも、いざと言う時は大剣を振り回す賊を包丁一本で返り討ちするくらいの腕だ。
私は侍女のケイが出産のため里帰りした間の臨時雇いだったから武芸の嗜みがなくても問題にされなかったけれど、ケイは男相手に一歩も引かない剣捌きを見せていた。
能力だけを見れば本採用になるはずがなかった私に大奥様は三年間の猶予を下さった。 その温情を無駄にすまい、と子育てしながら私は必死に武芸を磨いた。 読み書きは元々出来たから後は貴族の館で従わねばならぬ様々なしきたりや行儀作法について学んだ。 その努力が認められ、三年後、私は本採用となった。
めまぐるしく過ごした二十五年。 大恩ある大奥様と大旦那様の最後をお世話申し上げる事が出来たから心残りはない。 本邸とは言え御家族の皆様はもう誰もここに住んでいらっしゃらないし。
その代わり、六頭殺しの若の御生家として観光業務が忙しくなった。 沢山の人と会って話す毎日で、とても充実している。 家族、友人、同僚に恵まれて過ごす快適な西。 ここを離れ、北へ行っても幸せになれるのかしら?
物思いに耽っていると、ふと裏庭の柳の巨木に目が止まった。
私は武芸の方は腕を上げたけれど家事ではよく失敗した。 洗濯物を飛ばすなんて、しょっちゅう。 しかもなぜか取りづらいあの大柳の上の方にばかり引っかかる。 そんな時サダ坊ちゃんはいつも私を助けてくれたっけ。 誰にも何も言わずに。
今度は私が助ける番なのかしら。 うふふ。
北、か。
未知の冒険と思えば何だかわくわくするような。 この年になってこんな訳の分からない予感に胸を躍らせる日が来るとは思ってもみなかったけれど。
翌日私はタマラ執事に、この話をお受けしたいと申し上げた。




