犬ぞり
イーガンにはソーアが十頭牽きの犬ぞりで連れて行ってくれる事になった。
ぶるるっ。 遂にこの極寒の中、屋外で寝るという経験をする事になるのか。 向こうに着く前に凍死するんじゃ、という不安が拭いきれない。
「よかったな、若。 これで犬と寝るのが女房と寝るよりどんだけあったけーか、比べられるぜ」
にこにこ嬉しそうに言うソーア。
よくないですっ、比べたくないですっ、と心の中では叫んだが、仕方がない。 百五十八名の命がかかっているんだ。
俺達と一緒にソスナが太鼓を持って行く事になった。 これは俺が矢を射ってもイーガンの兵士がすぐ気がつかないと困るから。 お知らせの太鼓という訳だ。
弓や太鼓が傷まないように食料や衣料の類を積み込む。 ちょっと緊張して犬ぞりに乗り込んだ。 犬ぞりに乗った事なら勿論何度もあるけど、これ程長期の犬ぞり旅行は俺にとって初めての経験だ。 しかもめったに他の人を乗せないソーアの神業が見れる。 任務で行くのでなかったらきっとみんなに羨ましがられたと思う。
ソーアは犬ぞり競走の記録保持者として有名だ。 その記録は十年以上誰にも破られていないんだって。 比類のない速さのおかげで時間を争う任務になると、ソーアを呼べ、となるからいつもひっぱりだこ。 とは言っても重要な配達でもない限りソーアが指名される事はない。 だけど一旦指名となったら一刻を争うものばかり。 それにいつ呼び出しとなるか分からないから仕事以外で遠出した事はないとソーアが言っていた。 でもその仕事がいろんな所に行く事だから、ソーア程北の隅々まで知っている奴はいない。 大峡谷にも何度か行った事があるそうだ。
因みに俺は短距離なら以前乗せてもらった事がある。 でも今回同乗して改めてソーアがいかに偉大なマッシャー(御者)であるかを体験する事になった。
ソーアの鋭い口笛。 それに続く「イーハアッ!イーハアッ!」
その掛け声を聞くと犬達はまるで師範に気合いを入れられた百剣みたいになる。 走るぜ、走りまくるぜ、というやる気に満ちた犬達。 信じられない速さで周りの景色が飛び去っていく。 短距離で経験した走りとは比べものにならない。
一体、どういう魔法なんだろう? つい、自分と比べてそんな事を考えてしまった。
北軍新兵にとって犬ぞりを走らせるのは必須科目の一つだから一応俺もやった事がある。 だけど俺が手綱を握ったって犬はこんな風には走らない。 走らせる前から犬にすっかり馬鹿にされきっているのがありありと分かるんだ。
けっ、お前なんかを乗せて真面目に走れっていうのかよー、やってられんぜ、みたいな? そんな態度を見せつけられ、そのうえどんなにがんばってもちっともまっすぐ走ってくれない。
ちんたら走る所為で中々目的地に辿り着けないから途中で犬も飽きたんだろう。 目の前を横切った兎を追いかけ始めたりしてさ。 そうなると今度は止まれって言ってるのに止まってくれない。 どんどん変な方へ外れて行っちゃって。 もー、散々。
俺の言う事を聞かない犬の群れを何とか必死の思いで連れ戻し、駐屯地の周りを一周した事はした。 あんなにしんどい目にあった事なんて後にも先にもない。 三時間後に終着点でもある出発地点にようやく辿り着いた時には涙と汗が氷の粒となって眉毛や睫毛にびっしり張り付いていた。
疲れきってへろへろの初乗り以来、俺は乗せてもらう一方で走らせる方はやってない。 実を言うと、犬ぞり試験は駐屯地一周コースを一時間以内で戻らないと「可」が貰えない事になっている。
ずるをするのは嫌だったが、俺には一生がんばっても無理。 切羽詰まった俺は試験官のエンドリーズ小隊長に涙目で縋った。 そしたら、サイン入り色紙をくれるか、と聞かれた。 何枚でもあげますと約束したら、しょーがねえな、とぶつくさ言いながら見極めの署名をくれたんだ。
俺の汚いサインなんてしょうもない物、なんで欲しいんだかちっとも分からなかったが。 とにかく試験は一回パスしたら何度も受けなくてもいいので助かった。 いくら何でもしょぼい色紙だけじゃ申し訳ないから後で犬ぞり部隊の皆さんに六頭殺しの若饅頭の大箱二つを贈っておいた。
とまあ、俺はこんな情けない有様だが、北出身の兵士ならみんな犬ぞりが操れる。 何しろ冬の間は寒さで車輪が回らない。 馬橇もあるが馬を飼うのは犬よりずっと金がかかるし、広い敷地が必要だから平民は犬ぞりを使うんだ。 荷物を運ぶだけでなく、人を運んだりもする。
ソーアは北生まれの誰と比べても速い。 犬が違う、という事もあるだろうけど。 ソーアの犬はどれも俊足で力強い。 競馬に向いた馬があるように犬ぞりに向いた犬があるんだろう。
でも同じ犬なのに俺を乗せた時にはどへどへ走り、ソーアが乗った途端シャキーンとした走りになったのを見た事がある。 と言う事は、ソーアには他の人にはない犬ぞりに関する才能があるんだとしか思えない。
ぴーーーっ!
ソーアの鋭い口笛が北の冬空に響き渡る。 それを合図に馬も顔負けのスピードで犬達が一斉に走り始めた。 数百キロもの荷物を牽いているのに。
すごい。 北ならではの豪快な旅だ。 でも道中常に安全を心がけたからイーガンに到着するのは夏よりもっと時間がかかると覚悟していた。 何しろ冬の日は短い。 日の出は朝の八時だし、夕方五時には日が沈む。 月明かりがあって道筋がはっきりしている時は夜でもちょっと走ったりしたが、犬も休息しないとばてる。 それに万が一、道から外れたのに気がつかなかったりしたら最悪の場合二重遭難になってしまう。 運がよくてすぐ気付いたとしても後戻りするんじゃかえって時間がかかるし。
だけど冬にはいくつもある湖の上を一直線に突っ切る事が出来るという事を忘れていた。 雪かき隊もそこを心得て道沿いに雪かきするのではなく、なるべく直線最短距離でイーガンに到着するように道を作ってくれていた。 そして有り難い事に雪かき部隊が後から来る俺達の休息用に雪のドームをそちこちに作ってくれていたから宿泊する為に町に立ち寄ったりせずに済んだ。
因みにドームの中で犬と一緒に寝るのは思ったよりは温かかったがソーアが言う程じゃない。 死なない程度に温かい、てだけ。 これがリネより温かい訳ないだろ。 ほんとにもー。 何が女房と寝るよりあったかい、だよ。 ソーアの女房ってどれだけ冷たいんだか。 マッギニス上級兵並なんじゃない? あんな人が地上に二人もいるはずないけどさ。
ともかく俺達は凍死体とならずにイーガンに到着した。 なんと第一駐屯地を出発してからたったの三日で。 これって既に奇跡かも。 「イーガンの奇跡」なんちゃって。
着いて見たら橋は落ちていたけど橋桁が結構両方に残っている。 橋の全長は二百十二メートルでも、開いてる隙間はたったの百六十八メートルしかない。 これならいける。
二百十二メートルだったとしても届いたと思うが、余裕はいくらでもあったほうがいい。 風が強いけど、たぶん大丈夫だ。 ただこの寒さと強風で弓がすぐに凍る。 少しでも温めてから使わないと飛距離が伸びない。
弓は三張持って来た。 幾つもの温石を布に包んで弓を温めるよう、ソーアが雪のドームの中で早速火を起こしてくれた。 頻繁に弓を交換すればなんとかなるだろう。 風があるから精度は望めないが、この場合、矢が向こう岸に届きさえすればいい。 的がでかいからな。
俺はソスナに太鼓であちらに知らせてくれるように頼んだ。
ど、どーーん。
どどどど、どどーーん。
ど、ど、ど、ど、どどーん。
ソスナの気合いに満ちた太鼓が大峡谷に木霊する。 それはまるで何十もの太鼓を合奏しているかのような不思議な効果があった。 何だか北軍の皆で、がんばれ、がんばれ、と応援しているみたいな。
俺の体に力がみなぎる。
お、駐屯地から誰かが出て来た。 俺は矢に手紙と赤い布切れと紐を付け、向こうの橋桁に向けて射った。
ばしゅーん
ばしゅーん
ばしゅーん
一本の矢が十本の矢であるかのような木霊を返した。 こちらに返信したい時は矢に青い布を付けて知らせろ、と手紙に書いてある。 土台を作るのにいろいろ質問もあるよな。 ちょっと多めに矢を送っておくか。
ばしゅーん
ばしゅーん
ばしゅーん
諦めるな! もうすぐ助けが来る!
ばしゅーん
ばしゅーん
ばしゅーん
ソスナの太鼓に合わせ、俺は次々と矢を射続けた。 すると百五十八名の兵士全員が駐屯地から出てきて踊り始めた。 大歓声が太鼓と弓の合奏に加わり、大峡谷に響き渡る。
二日後、資材が届き、土台作りが始まった。 そしてなんと、両方の土台が二週間という驚異的な日数で完成したのだ。 真冬の土木工事がどうしてこんな短期間で終わったか?
その秘密は材料に石や木材や金属ではなく、ブロックにした氷を使ったからだ。
そりゃ春になれば融ける。 でも百五十八人が三月に出発し、二ヶ月かけて駐屯地に帰り着くための食料を備蓄するのに一ヶ月もかからない。 これを思いついたステューディニ中隊長って、ほんと天才じゃね?
一週間後、作業の指揮をしに来たステューディニ中隊長が俺に言った。
「人力の限界など、若の前には無意味だったな」
なんか分かりづらいけど、これって褒められたんだよな? 百六十八メートル飛ばしたぐらいで天才に褒められちゃったぜ。 てへへ。
からから
からから
滑らかに動いていく滑車の軽やかな音を感動と共に聞いた。 張り渡された綱には五十メートル毎に食べ物の入った袋が引っかけてある。 食料の搬入が始まった。
もう大丈夫だ。 後を任せ、俺はイーガンに別れを告げた。
ああ、早くリネに会いたい。




