香油
今日リネが来るかもと思うともざもざしちゃって、じっとしていられない。 おーっと叫びたくなったかと思うと頭の中に秋祭りの時の笛がひゃらひゃら鳴り出し、踊りたくなったり。
「ありゃあ、だめだな」
「ああ、完全に舞い上がっている」
「今日来るのか?」
「いや、今日辺りってだけで、確かな事は知らんらしい」
その囁きで、はっと我に返った。
……俺は既に踊っていた。
ひーっ。 は、恥ずいっ!
場所は食堂へと続く廊下。 昼飯時こそ終わっていたものの兵士には早番も遅番もあるし、飯時でなければ食堂でちょっとした打ち合わせをする隊もいる。 常にそこそこ混んでいて廊下に人通りが途絶える事はない。
俺の方を見てにやにや笑っている奴。 笑いを必死に堪えている所為で顔が赤くなっている奴。 急いで通り過ぎる奴でさえちょっと立ち止まり、がんばれよ、みたいな視線を投げて行く。 皆さんの生暖かい視線を痛いほど浴びている俺。
いつもは俺が馬鹿な事をしそうになると、その気配を察したトビがさりげなく足を踏んでくれる。 こんな時頼りになるのはトビだけなんだ。 そのトビが側にいないという事を自分の体に叩き込んでおく事を忘れていた。 ううっ。
そりゃ今では俺にも部下がいる。 でもこういう事に関しては全然頼りになんかならない。 上官が馬鹿な真似をしても全く平気な奴らばかりだから。
マッギニス上級兵のお叱りはある。 だけど彼は仕事に関する事で俺が馬鹿をするのを止める役割を担っている。 逆を言うと、仕事に関係なければ何をやっても口を出してくる事なんてまずない。
俺の部下が全員ここにいたとしても誰も止めてくれなかったと思う。 たとえ俺が裸で踊り出したって。 こんな真冬に裸になるなんて自殺行為だから、そういう意味では止めてくれるかもしれないが。 たぶん服を投げてくれるくらいで終わりだ。
それにマッギニス上級兵なら、まずなぜ踊り出したのかを聞き、なぜ裸なのかを聞き、裸で踊れば凍死するがそれでもいいのかを聞く、という手順を踏みそう。
それでも勝手に死んでろと放っておくに違いないリッテル軍曹、凍傷の薬をくれるのが関の山のリスメイヤー、死ぬ兆候が見えるまで何も教えてくれないであろうメイレ、一緒に踊り出しかねないフロロバに比べたらよっぽどましなんだ。
改めてトビの偉大さを思い知る。 お馬鹿な俺を水際で止めるという事は簡単そうに見えて誰にでも出来る事ではない。 早く帰って来てくれ、と心の中で何度呟いただろう。 聞きたい質問だっていっぱいたまっちゃってる。 このままでは一つか二つ、いや、もっと忘れちゃいそうだ。
そそくさと自室のある兵舎へ戻りながら既に何度も呟いた願いを又呟いた。 最初から大人しく部屋でリネの到着を待っていればいいんだけどさ、じっと待つのがつらくて。 つい、そっちこっち用もないのに歩き回っていた。 と言うか、用はある。 駐屯地の入り口を見つめるという用が。 でも自室の窓からじゃ駐屯地の入り口方向は見えないんだ。
朝からもう何回窓の外を見ただろう。 もっともじっとしていられない理由はそれだけじゃないんだけど。 実は、寒いんだ。 何となく今日リネが到着する予感がして普段より薄着したものだから。
一月ともなれば股引三枚を重ね着してもまだ寒い。 いつもだったら三枚の真ん中を毛糸のやつにする。 それだと雪だるまが歩いているみたいだが見栄えを気にしている場合じゃない。 だけど初対面なのにそんなもこもこの厚着じゃ格好がつかないだろ。 初対面の印象って大事だって聞くし。 それで今朝は普通の股引を二枚しかはかなかった。
家族になるのに見栄なんかはってどうする、と思わなかった訳じゃない。 寒がりっていうのはどうせすぐばれるし、そんなに恥ずかしい事でもないだろ?
でもさあ。 やっぱり最初って大事だよな?
二枚だったら、ぬ、脱ぐ時だって、さりげなく出来る。 さっと。
ごくん、と唾を飲み込む。
ちゃんと出来る、と思う。 夫婦ならみんなやってるんだし。
そうは思っても不安はある。 リネに嫌がられたらどうしよう?
その場合はだな。 うー、あー。
「ものは試しだ」とか?
……なんとなくだが、それを言ったら全てが終わるみたいな気がするな。
あ! 遠くから来て疲れただろう、寝ようか、と誘えばいいんだ。
一緒に寝れば温かいよ、とか。
うん、うん。 それだ!
とにかく寝床に入ってしまえば後は何とかなるはずだ、よな?
だけどリネの寝付きが良くて本気で寝ちまったらどうする? 起こすのか?
いや、それはまずい。 人間、寝入り端を起こされた時程機嫌が悪くなる事はない。 これはトビで既に証明済みの事実だ。 八年前一回やった事があるっきりの間違いだが、俺は一生忘れないだろう。 トラウマとまでは言わないけど。
その場合は、えーと、えーと。 と、一生懸命に考えている所に、小隊長、と声をかけられた。 振り向くとリスメイヤーが小瓶を差し出している。
「俺からの結婚祝いです」
「結婚祝い? ありがとう。 そんな気を遣わんでもいいのに」
「薬屋をやっていた時の人気商品です」
かわいい小瓶を受け取って蓋を開けてみると、とてもいい香りがする。 香油だ。
「お、リネが喜びそうだな」
「奥さんを喜ばすためですが、使うのは小隊長ですからね」
「俺、香油なんて普段使わないけど?」
「初めてって女の人にとっては痛いって御存知ですか?」
「は?」
「これにはその痛みを和らげ、気持ちをよくする効果があります。 小隊長のものに塗って使って下さい」
俺はかーっとなっちゃって、それから後の記憶がない。 はっと気がついたら自室にいた。
寝床のすぐ脇には小さいタンスが置いてある。 俺は手が一番届きやすい所にある引き出しにその香油をしまい、ほうっとため息をついた。
不安がなくなった訳じゃない。 でもこれを使えばリネに気持ちよくなってもらえる、と思うとそれだけで何か嬉しい。 なんだか俺の気持ちが前よりずっと軽くなった気がする。
それにしても、リスメイヤーがこんなさりげない気遣いをしてくれる奴だとは知らなかった。 凍傷の薬をくれるのが関の山とか思ってごめん、と心の中でちゃんと謝っておいた。




