呼び名
「十月十四日、ヒーロンにて若が結婚届けを提出された。
新婦はリネ・タケオ様。 リイ・タケオ中隊長の妹君でいらっしゃる。
年明け、第一駐屯地郊外の既婚者用住宅を新居として購入なさる予定。」
(「ともびと」号外より抜粋)
俺が結婚した事は特に誰にも教えてない。 念のため師範やヘルセス、事情を知っている部下にも確認したが、誰も言いふらしてはいなかった。 なのに俺が結婚したという事はもう周知の事実のようだ。 変なの。
結婚届はヒーロンの検問所で出したからあそこにいた兵士なら全員知っているが、サダ・ヴィジャヤン、リイ・タケオという名前はどちらも珍しくない。 もちろんリネ・タケオも。 届けを見ただけじゃ六頭殺しと猛虎の妹の結婚だって事は気付かなかったと思うんだけどな。 気付かれたとしたって噂がここまで辿り着くのが早過ぎるんじゃね?
とにかく俺達が駐屯地に戻った途端、みんなからのお祝いの言葉と共に結婚に関する助言を次々貰うようになった。
「何事も最初が肝心」
「偶には贈り物をして御機嫌を取れ」
「褒めろ。 褒めるとこがなくても」
「逆らうな」
ここまでは分かる。
「女房に舐められんなよ。 舐められたら気持ちいいけどな」
それって、どういう意味? それを言ったソーアは何故か、あたりにいた兵士にぼかすか殴られていた。 俺の隣にいたピエレが、あんな馬鹿の言う事を気にするな、と言ったので気にしない事にしたが。
「ほんと、犬ぞり以外の取り柄はねえ奴だぜ」
「ま、死んでも悲しむのは犬ぐらいだからな」
そんな風に言われているのが聞こえてきたんでソーアがちょっと心配だったけど。 まあ、大丈夫だろう。 何しろ極寒の戸外で寝ても凍死しないという驚異の体質だ。 犬と一緒に寝ればあったかいもんだぜ、と本人は言ってるが。 犬と一緒に寝たぐらいで死なずに済む気温じゃないだろ。
こんな時いつもだったらトビに意味を聞くんだけど、今は聞きたくてもトビがいない。 兄上から貰った結納金をリネに届けるため師範の実家があるミルラック村へ旅立ったんだ。
ミルラック村に着くには第一駐屯地から片道約十日かかると聞いた。 皇都から第一駐屯地までは約十日かかるから、そこからミルラック村へ行くとなると合計二十日かかってしまう。 俺としては着の身着のままで嫁に来てくれてかまわない。 そうは言っても裸で旅をする訳にはいかないだろう。 いろいろ準備をして、それから駐屯地を目指して出発するとなると、どんなに急いでも会えるのは一ヶ月以上先になる。
だけど皇都から師範の実家に直行すれば二週間で着く。 そう聞いたから御成婚式が終わってすぐ、トビをミルラック村へ出発させたんだ。 リネにはなるたけ早く会いたい。 そうすれば俺が駐屯地に戻ってすぐ辺りにリネが到着するだろ。
ところで今まで分からない事は何でもトビに聞いていたが、結婚してないトビには分からない事もあるんじゃないかな、とふと思った。 もっとも独身のくせに助言をくれようとする奴が結構いる。
一番多いのが、妻の喜ばせ方を教えてやる、てやつ。 但し、そいつらは全員、余計な事を言うんじゃない、と豪弓会会長のシルモニに怒鳴られ、ぼこぼこにされていた。 あれは痛いと思う。 シルモニは弓の命中率は今一つだが、すごく腕力があるんだ。
考えてみればシルモニって弓が上手という訳でもないのに、どうして弓の会の会長になれたんだろ? ちょっと不思議だな。
それはともかく、独身の人から妻の喜ばせ方を習っても大した効果は期待出来ない。 俺にしてみれば結婚生活始めるまでは一体何を知らないのかさえ分からないんだ。 一緒に暮らし始めるまでは何もかもが今まで通りで質問しなくちゃいけない事はないからいいけど。
呼び名も相変わらず若だ。 部下からは小隊長と呼ばれているが。 独身なら若でもいいけど、結婚しても若って変じゃない? ただトビからは旦那様と呼ばれるようになった。
「御結婚なさったのですから一家の主。 当然の事です」
ちょっと嬉し恥ずかし?
だけどリネまで俺の事を旦那様って呼ぶのは戴けないな。 確かに母上は父上の事を旦那様って呼んでいるし、貴族は大体そうなんだが。
俺に爵位がある訳じゃない。 俺の子供は単なる平民だ。 貴族のような大邸宅に住むつもりもない。 奉公人はトビだけ。 だから平民の夫婦がお互いを呼び合う時するみたいに呼び捨てにして欲しいんだけどな。 サダって。 その方が本物の夫婦になった、て感じがするし。
でもいくら俺がそう言ったって、たぶん遠慮して、呼び捨てにはしてくれないような気がする。 どう言えば遠慮しなくてもいいんだ、て事を分かってもらえるかなあ。 そう呼べ、と言ったら命令みたい。 きついだろ。 いじめているっぽい。
うーん、と悩んでいると、外に煙草を吸いに来たリッテル軍曹が言った。
「どうした、小隊長。 新婚の悩みか? 聞きたい事があるなら何でも聞いていいぜ」
お。 リッテル軍曹の方からそんな事言ってくるなんて珍しい。
「あれ? リッテル軍曹って、確か独身でしたよね? 結婚した事あるけど別れた、とか?」
「結婚なんぞ一度もした事はない。 だが女とのもめ事なら十回結婚した奴以上の経験済みだ」
ふーっと煙を吐き出しながらリッテル軍曹が誇らしげに言う。
それって自慢気に言うべき事なの? だけどリッテル軍曹の感覚が俺と違うというのは今更だし。 経験豊か、と言えば豊かなんだろう。 俺のしたくない種類の経験だけどな。 もめ事を起こさないための助言をしてもらうにはいいかもしれないが。 呼び名をどうするかなんて結婚した事ない人に聞いても答えられないんじゃない? とは思ったが、ま、聞くだけならただだ。
「リネに呼ばれる時は旦那様じゃなくて他に何かないかなあ、と考えていたんです。 俺としてはサダって呼び捨てにしてもらいたいんですけど。 遠慮されちゃうだろうし」
リッテル軍曹は、げほげほと息を詰まらせた。
「けっ。 糸引きそうな事、考えているんじゃねぇ。 びしっと行け、びしっと」
そう言い捨てて、さっさとあっちの方へ行った。
ふん、なんだよ。 自分の方から聞けと言ってきたくせに。 俺も最近は性格が丸くなったからこれくらいの事でむかついたりはしないけどな。 それより呼び名をどうしよう?
因みにリネの家で母上は父上を何と呼んでいるのか師範に聞いてみたら、父さん、なんだって。 そりゃ子供のいない新婚家庭で使える呼び名じゃない。 かと言って悩んでも他に適当な呼び名が思い浮かばなかった。
俺はめったに名前に何かを付けて呼ばれた事がない。 親戚ではない年上の人達(父上や母上のお友達)にサダ君、サダちゃん、と呼ばれたのを例外にして。
家族はサダと呼び捨てにしたけど、奉公人、学校の先生、剣道道場の師範、北軍の兵士はみんな俺を若と呼んでいた。 買い物に行ったりすると、お店の人からは若様と様が付くが。
あ、そう言えば。 カナだけはなぜか俺の事をサダ坊ちゃんと呼んでいたな。
家族でもサダさんとさん付けで呼ばれたのはライ義姉上が初めてだ。 そういう意味では目新しい。 でもサジ兄上もいずれ御結婚なさる。 そしたらその義姉上にもきっとサダさんと呼ばれるし、義姉上に兄弟姉妹が沢山いたら、その人達からもそう呼ばれるだろう。 となるとあんまり特別って感じはしない。
サダさんでもいいと言えばいい。 ただ、なんか、こう、もうちょっと。 リネだけって感じの呼び名がないかな?
「あなた」とか?
うおーっ! は、恥ずいかもっ。 でも嬉しいかもっ。




