天の気 ディーバの話
いつまで待っても王女様を誘拐して来るはずの一団が約束の場所に到着しない。 フェラレーゼの一行は予定通り昼前にはヒーロンに到着したはず。 相手を言いくるめるのに小一時間はかかったとしても、いざという時は検問所を強行突破してしまえ、と命じていた。
検問所を通り過ぎてしまえば後はこちらのもの。 王女様の警備は追いかけて来れない。 そもそも検問所にいる兵士は全部で十人もいないのだ。 行方をくらますのは造作もない事。
ところが昼を過ぎて夕方になろうとしているのに一人も帰って来ない。 一体何があった? よもや王女様相手に不埒な事を考えて、ここに来る前に他の場所にしけこんだのではあるまいな?
だが今回雇ったのは全員役者で女に不自由している者はいない。 また、そんな事をすれば一ルークも貰えない事を知っている。 もっともここに戻った時があやつらの最期という筋書きだが。
偶々ヒーロンに遊びにいらしていたデュガン侯爵が、怪しげな一団に高貴な女性が拉致されているのを見かけた。 救い出してみればその御方はフェラレーゼ第一王女様。 抵抗する誘拐犯は皆殺し、という訳だ。 これが人生最後の舞台である事を雇われた奴らが知る術はない。
しびれを切らし、検問所に人をやって何か事件がなかったかを探らせた。 すると普段と変わった事は何もなかったという報告を持ち帰った。
「そんなはずはない。 もう一度行け!」
「あの、事件ではありませんが。 結婚の届け出がございました」
「検問所で結婚? そんな酔狂な事をしたのは誰だ?」
「花婿の名はサダ・ヴィジャヤン。 花嫁はリネ・タケオとなっておりました。 花嫁が不在のため兄のリイ・タケオが代理で署名しております」
自分の葬送の鐘の音を聞いたような気がした。 そんな、そんな馬鹿な。 サダ・ヴィジャヤン? リイ・タケオ? なぜこの二人がヒーロンにいる?
私の報告を待ちかねたのだろう。 そこにデュガン侯爵が現れた。
「ディーバ、誰も来ぬようだが」
「……誠に遺憾ながら、計画に手違いがあったかと思われます」
「手違い?」
「本物が現れ、雇った一団は、おそらく逃げたか、と」
さすがにデュガン侯爵のお顔が曇る。 しかしここで、なぜ北の猛虎が現れた、と騒ぐような御方ではない。 騒いだ所で何になる。 計画は水泡に帰した。 即座に状況を理解されたデュガン侯爵は手短におっしゃった。
「急ぎ、領地へ帰る。 お前は後始末をつけるように」
「御意」
静かに起こった事を受け入れ、次へと行動される。
そう、起こった事は今更やり直しが出来ない。 王女様誘拐未遂事件は起こってしまった。 これから厳しい詮議が始まる。
手紙。 そこから足がつく事はない。
雇った一団。 それもこれから始末を付ける。 元々口封じをするつもりだったから依頼人の身元は明らかにしていない。 全ては口約束。 充分な前金は渡したが、首謀者が知られるような証拠は何一つ渡していないし、行方不明となっても探し歩く者がいないような者ばかりを雇った。
とは言え、デュガン侯爵は前回の事件の黒幕と疑われている。 早急に次の手を考えねば。
それにしても何故この計画が失敗したのか? 王女様がヒーロンに向かった時点でこれは成功したも同然だったはず。 一体、誰が本物の王女様の行く先をタケオに知らせた?
仮に知らせがエダイナにいるタケオに届いたのだとしても、それからヒーロンに走ったのでは到底間に合わなかったはず。 しかし雇った一団を捕まえて何があったのかを聞き出している暇はない。
ぎりぎり歯噛みをした。 私にここまでの屈辱を与え得る者がいようとは。
いや、ここで幕が下りた訳ではない。 誘拐する一団には検問所前、フェラレーゼの国境内で待ち受けるように、と指示していた。 それが妨害されたという事はあちらも国境を越えたという事になる。 許可証なしで。
無許可の越境は死刑。 タケオには誘拐事件の責任をとって死んでもらう予定だったが、この際理由など何でも良い。 私に二度も味わわせた屈辱、死をもって償ってもらおうか。
死罪となるのは確実だし、儀仗訓練を一つも受けていない北軍兵士が護衛すれば私が改めて事を起こすまでもなく、必ずや何らかの無礼や不手際があるとは思うが。 念には念を、という事もある。 王女様と共に皇都へと向かわれる道中、争乱の種を仕込んでおくべきだろう。 百剣を相手に傭兵を雇って襲うなどは自殺行為だが、害獣を放ち隊列を混乱させる事なら簡単だ。
私は夜陰に乗じ、グイシーン(注)に襲わせるよう指示を出しておいた。 すると手駒の者達が、狼が出て追い払われたと言ってきた。
狼だと? 馬鹿な。 東に狼がいるものか!
残念だが失敗したからと言ってやり直している時間はない。 一行が野営した晩は少なくなかったが、道筋及び付近一帯に東軍兵が総動員されていた。 また、身辺警備が二百しかいないためか精鋭が選ばれたようで、ただの一人にも隙がないと言う。
しかも周辺警備をしているのは東軍だけではない。 道筋の貴族という貴族の私兵が歓迎という名目で警備に駆り出されているのだとか。 誰がこれを手配した? これ程大掛かりな動員を計画する時間などなかったはず。 あったとしても貴族軍が道筋の警備をしてあげた所で殿下から労いのお言葉一つ戴ける訳でもない。 東軍副将軍はヴィジャヤンの叔父だから無報酬でも助力したのは分からないでもないが。 お出迎えの名誉は既に北軍が戴いている。 何の得にもならない事をなぜしているのだ?
そして御成婚式当日。 不思議な事にヘルセス公爵家継嗣が北軍の軍服を着て北軍兵士と共に行進している。 するとあやつが何らかの伝手を使って王女の旅程変更を知り、タケオに知らせた?
ヘルセスならフェラレーゼの事情に詳しくても驚かない。 皇太子殿下との御婚約が調う前は王女様と恋仲という噂さえあった。
ではなぜ王女様がヒーロンに向かったという貴重な情報を北軍へくれてやったのか? それによって恩を売り、タケオを自軍に引き抜こうという算段をした? ならば余計、他の貴族軍がヘルセスを助ける理由はない。 又、ヘルセスに行くタケオを助ける理由もないはず。
それに何だ、あの三人が付けている胸の飾りは。 あれは確か、フェラレーゼの青藍徽章?
まさか。 しかしそうだとすると、いつでも自由にフェラレーゼへ入国出来る。 事前の入国許可は必要ない。
静かにデュガン侯爵がおっしゃる。
「天の気が、あちらにあるのやもしれぬ」
「天の気、とは?」
「逆らえぬ何か、としか言えぬが」
私には信じられない。 そんなものが存在するなど。 完璧な計画の度重なる失敗も信じられない不運だが。
天の気があるならそれをこちらに取り込めばよいだけの事。
この次こそは。
(注) グイシーンは鋭い爪と牙を持つ夜行性の害獣。 大きさは中型犬ぐらいだが集団で獲物を襲うので被害が大きくなりやすい。 狼が天敵なので北にはあまりいない。