「君と話すと、言葉が凍る」と呪われた公爵様の手紙を、異世界に持ち込んだChatGPTで翻訳していたら、最後の一通だけ翻訳してはいけない気がしました
目を覚ましたとき、私は知らない森の中で、スマホを握りしめていた。
圏外。アンテナは一本も立っていない。地図も、電話も、メッセージアプリも、どれも「接続できません」と白い画面を返すだけだった。
なのに、ひとつだけ、いつもと同じように動くアプリがあった。
『こんにちは。何かお手伝いできることはありますか?』
見慣れたChatGPTの画面。
私は震える指で打った。
『ここはどこですか』
『申し訳ありませんが、あなたの現在地を特定することはできません。周囲に目印になるものはありますか?』
……いつもどおりの、丁寧で、正しくて、どこにも体温のない返事。
それでも私は、少しだけ泣きそうになった。
東京の六畳間で、仕事から帰って、コンビニの弁当を食べながら、誰とも話さなかった日の最後に話しかけていた相手が、ここにもいる。
派遣の翻訳チェッカー、佐倉紗奈、二十六歳。
職場で交わす言葉は「確認しました」と「大丈夫です」くらい。休日は一言も声を出さずに終わることもあった。一日の会話のほとんどは、この画面の中のやりとりだった。
森の中に、苔むした石碑があった。見たことのない文字が、びっしりと刻まれている。
何かの手がかりになるかもしれない。私はカメラを向けた。
『この文字を読めますか』
返事は、すぐに来た。
『これは古い碑文のようです。内容は次のとおりです。「この先、ヴァルト公爵領。旅人に水と道を」』
読めてしまった。
ちょうどそこへ通りかかった騎士たちに、私は拾われた。石碑の文字を読み上げた私を見て、彼らは顔色を変えた。
「古代文字が読めるのか」
「いえ、私じゃなくて、これが……」
説明しても通じない。私はそのまま馬に乗せられ、大きなお屋敷へ連れていかれた。
通された書斎で待っていたのは、銀色の髪の、背の高い男の人だった。
アレクシス・ヴァルト公爵。二十八歳。この土地の領主。
灰色の瞳が、私を一度だけ見た。
「読めるそうだな」
「は、はい。この道具を使えば、ですけど」
彼は机の上の紙束から一枚を抜き、私に差し出した。流れるような線。あの石碑と同じ文字。
カメラをかざすと、画面に訳文が並んだ。
『東の水路の修繕を今月中に行うこと。費用は公爵家が負担する。』
読み上げると、そばに控えていた老執事が目を見開いた。
「……旦那様」
公爵は表情を変えなかった。
「雇う。部屋と食事は用意する。仕事は、私の書いたものを訳して、皆に伝えることだ」
「あの、どうして、わざわざ読めない文字で――」
「問題ない」
それだけ言って、彼は背を向けた。
「下がれ」
こうして私は、公爵家の翻訳係になった。
公爵様は、話さない人だった。
正確には、話せることは話す。「北の畑の報告を」「明日は視察に出る」「問題ない」「下がれ」。事務的なことなら、きちんと声に出す。
けれど、それ以上のことは、何ひとつ言わない。
細かい指示も、領民への言葉も、全部、古代文字で書く。
失われた文字。今ではこの国の誰にも読めない文字。
読めるのは、スマホを持った私だけだった。
毎朝、執事のハンスさんが手紙を持ってくる。
私はそれを一枚ずつ撮影し、ChatGPTに訳してもらい、清書して、屋敷の人たちや領地の役人に届ける。
『南の村の井戸の件、確認した。人手を三名送る。』
『冬用の薪の配給を十日早める。老人のいる家を優先すること。』
『明日は視察に出る。村の者と話がしたい。』
訳は正確だった。中身も、ちゃんとしていた。
あの方は冷たい、と屋敷の若い侍女たちは噂していたけれど、手紙の中の公爵様は、領地の隅々にまで目を配っていた。
それに気づいたのは、三日目の朝だった。
いつもの指示の最後に、一行。
『翻訳係へ。昼食は食べたか。』
ChatGPTは、ほかの行とまったく同じ温度で、それを訳していた。
私はしばらく画面を見つめて、それから、ノートを開いた。
ノートは、ここに来て二日目から書き始めたものだ。
スマホだけに頼るのが、なんとなく怖かった。いつかこれが動かなくなったら、私はここでは何者でもない。だから毎晩、その日の手紙の文字をひとつずつ書き写して、横に訳を書き添えることにした。原文と訳を突き合わせるのは、前の仕事で身についた癖だった。
その夜、私は『翻訳係へ』の文字を書き写した。『昼食』も。『食べたか』も。
その横に、小さく書いた。
(食べました。スープがおいしかったです)
古代文字での返事の書き方は、わからなかった。
それから、ときどき、末尾の一行は届いた。
『寒くないか。部屋に毛布を足させた。』
『今日の君の訳は分かりやすかった。村長が礼を言っていた。』
『夜遅くまで灯りがついていた。無理はするな。』
ChatGPTの訳はいつも平らで、句読点まで正しい。そこに、にじむものは何もない。
でも、私には十分だった。
誰かが、私が昼食を食べたかどうかを気にしている。それを、わざわざ失われた文字で書いてくれる。
そんなことは、東京では一度もなかった。
廊下ですれ違ったとき、一度だけ勇気を出した。
「あの、毛布、ありがとうございました」
公爵様は足を止めた。何か言いかけるように、唇がかすかに動いた。
それから、目をそらした。
「問題ない」
そして、いつものように。
「下がれ」
頭を下げながら、私は少し笑ってしまった。手紙の中のこの人と、目の前のこの人は、まるで別人みたいだ。
ノートのページは、少しずつ増えていった。
いつの間にか、手紙の冒頭には、決まって同じ二文字が書かれるようになっていた。
『サナ』。
翻訳係へ、ではなくなったのがいつからだったのか、私は覚えていない。
ただ、ノートの中で、私が一番たくさん書き写した文字は、それだった。
秋の終わり、厨房の下働きの娘が倒れた。
ミアという、まだ八つの子だ。火傷をした母親の代わりに、熱があるのを隠して、ずっと水を運んでいたのだという。
中庭の石畳に小さな体が横たわり、人が集まった。私も駆け寄った。
人垣が割れて、公爵様が来た。
彼はためらわずに膝をつき、ミアを抱き上げた。
「医師を呼べ。母親にも薬を」
いつもの、事務的な声だった。
ミアが、薄く目を開けた。
「……こうしゃくさま、ごめんなさい。おしごと、できなくて」
公爵様の顔が、崩れた。
初めて見る顔だった。眉が寄って、灰色の瞳が揺れて、唇が開いて――
「すま――」
ぱきん、と。
硬いものが割れる音がした。
彼の唇から、きらきらと光るものがこぼれ落ちた。雪の結晶を押し固めたような、透明な欠片。それは石畳に落ちて、さらに細かく砕けた。
公爵様の口の端から、赤い筋が一本、顎へ伝った。
彼は何も言わなかった。
ただ黙ってミアを抱え直し、屋敷の中へ運んでいった。
その夜、ハンスさんが話してくれた。
三年前、公爵様は領地を荒らしていた魔女を討った。そのとき、呪いを受けたのだと。
「想いを声にすると、言葉が氷になって砕けるのです。本心であればあるほど、大きく、鋭く」
命令も報告も、口にできる。けれど「ありがとう」も「すまない」も、「大切だ」も、声にしようとした瞬間に氷になって、喉と唇を裂く。
「それで、古代文字を……」
「ええ。なぜか、あの文字でなら本心が書けるのです。旦那様は幼い頃から、古い書物のお好きな方でしたから」
けれど、読める人はいない。
三年間、公爵様の本心は、誰にも届かない紙の上にだけあった。
「冷たい方だと、皆が言います。旦那様は否定なさいません。否定する言葉も、凍ってしまいますから」
部屋に戻って、私はノートを開いた。
『昼食は食べたか。』
『寒くないか。』
『無理はするな。』
あの人は、これを声にしようとしたことがあるのだろうか。
廊下で毛布の礼を言ったとき、唇がかすかに動いたのは。
問題ない。下がれ。
あれは、冷たさではなかった。
優しいことを言おうとするたびに口の中が切れる人の、精一杯の、声だった。
そして私は、自分のことを考えた。
大丈夫です。確認しました。問題ありません。
呪いなんてかかっていないのに、私はずっと、それしか言わなかった。職場でも、たまにかかってくる母からの電話でも。
寂しいとも、しんどいとも、誰かに言ったことがない。言わなければ、傷つかずにすんだから。
画面の中の相手になら、何でも打てた。返事は必ず来て、それは必ず正しくて、私を傷つけることは絶対になかった。
だから楽だった。
だから、ずっと、ひとりだった。
私はスマホを手に取った。
『呪いを解く方法を教えてください。本心を声にすると、言葉が氷になる呪いです』
少しして、返事が表示された。
『申し訳ありませんが、わかりません。そのような呪いについて、私は確かな情報を持っていません。
ただ、その方があなたにとって大切な人なら、あなたの気持ちを伝えることには意味があると思います。』
正しい答えだった。いつもどおり、丁寧で、平らで。
私は画面を伏せて、しばらく天井を見ていた。
大切な人。
そうか、と思った。
私はとっくに、あの人の手紙を待つために、毎朝起きていたのだ。
手がかりは、あの森の石碑にあった。
最初に訳したのは、表の面だけだった。裏にも文字が刻まれていると気づいたのは、公爵様の許しをもらって、もう一度森を訪れたときだ。
苔を払い、カメラを向ける。
『凍れる言葉を融かすのは、ただ一つ。その想いを、受け取る者が、己の力のみで受け取ること。他の手を借りれば、言葉は凍ったまま。』
他の手を借りれば。
スマホを持つ指先が、冷たくなった。
屋敷に戻ると、ハンスさんが一通の封筒を持って待っていた。
「旦那様から、紗奈様に。お仕事のものではないそうです」
封蝋を切る。便箋が一枚。
いつもの流れるような古代文字が、たった一行だけ。
冒頭に『サナ』。それだけは、もう画面を通さなくても読める。
私はスマホを持ち上げて、カメラを便箋に向けて――
そこで、止まった。
これを撮れば、数秒で訳が出る。正確で、平らで、句読点まで正しい訳が。
でも、それで私は、受け取ったことになるのだろうか。
あの人が三年間、誰にも届かない紙の上に置いてきたものを、また機械に通して、平らにして、受け取ったつもりになる。
それは、私がずっとしてきたことだった。
これは、訳してはいけない。
私はスマホを引き出しにしまった。
そして、ノートを開いた。
時間がかかった。
ノートは、辞書と呼ぶにはあまりに不格好だった。同じ文字が何度も出てきて、訳語が少しずつ違っていて、ところどころに自分の走り書きがある。(食べました。スープがおいしかったです)なんていう、出せなかった返事まで。
一文字目は、すぐにわかった。何十回も書き写した『サナ』。
二文字目も、見覚えがあった。ページをめくる。『今日の君の訳は分かりやすかった。』――『君』。
三文字目で、つまずいた。
どこかで見た形。めくる。めくる。『翻訳係へ』の『へ』に似ている。でも、違う。点がひとつ多い。
蝋燭が一本、燃え尽きた。
新しい蝋燭に火を移しながら、何度も、引き出しに手が伸びかけた。
もし読み違えたら。私のせいで、あの人の言葉を別のものにしてしまったら。
そのたびに、ノートの走り書きが目に入った。
『無理はするな。』
――無理じゃないです。これは、私がやりたいんです。
窓の外が暗くなって、また少しだけ白くなりはじめたころ、ようやく見つけた。
点がひとつ多い、あの形。
ずっと前に訳した、視察の手紙の中にあった。
『明日は視察に出る。村の者と話がしたい。』
『と』。
そして、最後の文字の並びは、その文の終わりとまったく同じだった。
『話がしたい』。
私は、読めた一文を、指でなぞった。
こんなに短い言葉を読むのに、一晩かかった。
朝、私は書斎の扉を叩いた。
公爵様は、机の前に立っていた。眠っていないのは、ひと目でわかった。
私の手にスマホがないことに、彼は気づいたようだった。灰色の瞳が、ノートと、便箋と、私の顔を、順番に見た。
「……読んだのか」
「はい。自分で」
声が震えた。当然だ。本当に言いたいことを誰かの前で声にするのは、生まれて初めてなのだから。
私は便箋を胸の前で広げて、一文字ずつ、読み上げた。
「サナ。君と、話がしたい」
同じ言葉が、重なった。
低くて、少しかすれた、あの人の声。
「――君と、話がしたい」
私は目をつぶって、あの硬い音を待った。
ぱきん、という、何かが割れる音を。
いつまで待っても、聞こえなかった。
目を開けると、公爵様は、自分の唇に指で触れていた。
血も、氷の欠片も、なかった。
そこにあるのは、ただの言葉だけだった。
彼は信じられないものを見るように、私を見た。
それから、ゆっくりと、もう一度口を開いた。
「……ずっと、言いたかった」
何も、凍らなかった。
「昼食は、食べたか」
私は泣きながら、笑った。
「まだです。一晩中、あなたの手紙を読んでいたので」
「……そうか」
彼は少しだけ目を伏せて、それから、三年ぶんの沈黙を越えて、言った。
「ありがとう、サナ」
呪いは解けた。
けれど、公爵様――アレクシス様は、相変わらず口下手だ。
長いあいだ凍らせていた言葉は、急には溶け出さないらしい。屋敷の人たちに礼を言おうとして、途中で黙ってしまう。侍女たちはそれを見て、こっそり笑っている。もう誰も、あの方を冷たいとは言わない。
元気になったミアは、毎朝「こうしゃくさま、おはようございます」と大きな声で言う。アレクシス様は「おはよう」と返して、それだけで耳を赤くしている。
そして今でも時々、私の部屋の扉の下に、手紙が差し込まれている。
古代文字で、短く、数行。
私はもう、それを翻訳しない。
ノートを開いて、一文字ずつ読む。わからない文字は、夕食のときに本人に聞く。彼はそのたびに困ったような顔をして、声で答えてくれる。
それが、私たちのいちばん長い会話になる。
スマホは、引き出しにしまってある。
最後に一度だけ取り出したのは、呪いが解けた日の夜だった。
何を打とうか少し迷って、私は短く打った。
『今日、はじめて人と話しました』
返事は、いつもどおりすぐに来た。
『それはよかったですね。どんなお話をされたのですか?』
私はその一行を、しばらく眺めた。
正確で、丁寧で、いつもと何も変わらない返事。
この画面が、ひとりきりの夜を何百も一緒に越えてくれたことを、私は忘れない。
でも、その質問に答える場所は、ここではなかった。
私は画面を消して、スマホを引き出しに戻した。
廊下の向こうから、ノックの音がする。
「サナ」
あの人の声が、私の名前を呼ぶ。
何も、凍らない。
「はい。今、行きます」




