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第8話

「——おかしい」

教室の喧騒の真ん中で、俺は必死に息を整えていた。

朝からずっと、身体が鉛を埋め込まれたように重い。

登校中、ひなたはずっと隣にいた。手も繋いでいた。

それなのに。

「……なんでだよ」

小さく毒づく。

これまでは、彼女に触れてさえいれば、霧が晴れるように体調は回復していた。

だが、今日は——完全には戻らない。

欠けた器に水を注いでも、底から漏れ出していくような、得体の知れない焦燥感が全身を支配していた。

「仁?」

不意に声をかけられ、顔を上げる。

すぐ目の前に、ひなたの顔があった。

相変わらずのゼロ距離。だが、彼女の瞳には、いつもと違う色が混じっている。

「大丈夫?」

「……ああ」

反射的に、いつもの嘘を吐く。

だが、ひなたはじっと俺の瞳の奥を覗き込んできた。

「嘘。全然大丈夫じゃない顔してる」

「……」

言い返す言葉が見つからなかった。

鏡を見るまでもなく、自分の顔が青ざめているのは自覚していたから。

「ねえ」

「……なんだよ」

「もっと、近くにいた方がいい?」

「……は?」

「なんか、昨日までと違う気がするの。触れてても、あんまり回復してない感じ」

不安そうに眉を寄せる彼女に、心臓が跳ねる。

やはり、気づかれたか。

「……気のせいだろ」

「そうかなぁ……」

納得のいかない様子だったが、それ以上は追及してこなかった。

昼休み。

俺は机に突っ伏したまま、動くことができなかった。

だるい。明らかに、病状はステージを変えて悪化している。

ひなたがすぐ隣に座っているというのに。

「……なんでだよ」

これまでの法則が、音を立てて崩れていく。

触れていれば大丈夫。そう信じていた平穏が、足元から崩落していく。

まるで——「接触」という薬の投与量が、足りなくなっているみたいに。

嫌な予感が、背筋を這い上がった。

もしこれが、単なる延命ではなく、もっと根深い「依存」への入り口だとしたら。

「……ふざけんなよ」

俺は小さく呟いた。

「仁」

「……ん」

いつの間にか、ひなたが隣に座っていた。

肩が触れ合う。だが、やはり劇的な快復は訪れない。

「ねえ。放課後、ちょっといい?」

「……ああ。分かった」

拒む理由も、一人で帰る体力も、今の俺には残されていなかった。

放課後。

人気のない教室に、燃えるような夕焼けが差し込んでいた。

「で、話って?」

「うん。あのね……」

ひなたは窓の外を見つめ、少しの迷いの後、ポツリと溢した。

「最近さ、なんか、変じゃない?」

「……」

心臓が嫌な音を立てる。

「仁の体調もそうだけど。私も、なんだか変なの」

彼女は自分の胸にそっと手を当てた。

「前より、落ち着かないっていうか。……触れてないと、不安でたまらなくなるの」

「……っ」

それは、俺が抱いている感覚と鏡合わせだった。

「ねえ仁。これってさ、普通じゃないよね」

その真っ直ぐな問いに、俺は声を失った。

「……ごめん。変なこと言っちゃったね」

沈黙に耐えかねたように、ひなたが先に謝った。

「でもさ、なんか怖くて。このままじゃ、ダメな気がするの」

「……」

その恐怖は、俺も共有しているものだった。

「ねえ、仁」

彼女が、静かに、けれど逃げ場のない声で続けた。

「もし……もっと近くなったら、変わるのかな」

息が止まる。

もっと近く。それは、今までの「接触」のその先。

「……やめろ」

反射的に拒絶が口をついた。

「なんで」

「……それ以上は、危険だ」

分かっている。これは踏み込んではいけない聖域だ。

そこを超えてしまえば、もう二度と「普通の高校生」には戻れない。

「……やっぱり、怖いんだね」

「……ああ」

「そっか」

ひなたは小さく頷いた。

そして——

「でもね。私、もう我慢できないかも」

その一言で、教室の空気が爆ぜた。

一歩、また一歩。

ひなたが距離を詰めてくる。

逃げようとするのに、身体が石のように動かない。

いや——細胞が、彼女を求めて歓喜に震えている。

「仁」

名前を呼ばれる。

甘く、必死な、祈りにも似た響き。

「お願い。少しだけでいいから」

その声に、俺の理性が白旗を上げた。

ひなたの手が、俺の頬に触れる。

その瞬間。

「……っ」

今までとは比較にならないほどの生命力が、身体の隅々まで行き渡った。

全部が繋がったような、圧倒的な充足感。

「……なあ」

「……ん」

「これ以上は——」

言いかけて、止まった。

分かってしまったから。

この「ゼロ距離」の先にしか、俺たちの答えはないのだと。

ひなたの顔が、ゆっくりと、けれど確実に近づいてくる。

俺は、観念したように目を閉じた。

距離が、ゼロになる——。

「——ダメだ!!」

土壇場で、顔を逸らした。

「……っ」

ひなたの唇が、俺の頬をかすめる。

ほんの数ミリ。

それだけで、張り詰めた糸が切れたように空気が凍りついた。

「……なんで」

ひなたの声が、震えている。

「そこまでして、私を拒むの?」

「……」

言えない。言えるわけがない。

「……お前を、壊したくないんだ」

絞り出すような俺の言葉に、ひなたが硬直した。

「……バカだね、仁は」

ひなたが小さく笑った。

けれど、その声はどこまでも悲しく、そして慈愛に満ちていた。

「もう、遅いよ」

「……え?」

「だって、私……もう、戻れないもん。仁がいない場所には」

「……っ」

その言葉が、鋭い刃となって俺の胸を貫く。

夕焼けの教室。

俺たちは、ほんの数ミリの、けれど決定的な空白を挟んで立ち尽くしていた。

その距離が、宇宙のように遠く感じる。

このままでは、二人とも、本当に壊れてしまう。

そんな予感だけが、赤黒い陽光の中に溶けていった。

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