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第7話

「少しだけ」

白宮ひなたの手が、目の前にある。

あと、ほんの数センチ。指先が触れそうな距離。

「……っ」

肺が空気を拒絶するように、息が苦しい。

視界はちかちかと点滅し、世界がぐにゃりと歪む。

頭では分かっていた。

——触れたら、この地獄から救われる。楽になれる。

でも。

「……ダメだ」

歯を食いしばり、微かな声で拒絶する。

「なんで」

「……ダメなんだよ」

それ以上の言葉が続かない。

理由なんて、砂粒ほども思いつくのに。

肝心なことだけが、喉の奥に張り付いて出てこない。

「……そっか」

ひなたは、小さく頷いた。

そして——あろうことか、差し伸べた手を引いた。

「……っ」

一瞬、時間が止まった気がした。

本当に、引いた。

強引に距離を詰めてくるのが当たり前だった彼女が、初めて、俺の拒絶を受け入れた。

「……ごめんね」

ひなたが、ぽつりと溢す。

「無理やりは、よくないもんね」

「……」

その言葉が、毒のように胸に刺さる。

違うんだ。無理やりじゃない。

むしろ、俺の細胞の一つ一つが、お前の熱を求めて叫んでいる。

それなのに。

「……っ」

ついに身体が限界を迎えた。

膝から力が抜け、視界が急速に暗転する。

「仁!?」

地面に倒れ込む寸前、酸素が足りない脳が警鐘を鳴らす。

呼吸が、できない。

本気で、まずい。

「……っ、は……」

意識の糸がぷつりと切れそうになった、その時。

「……もういい」

その凛とした声が聞こえた瞬間。

ふわりと、身体が宙に浮くような感覚に包まれた。

「……っ」

温もり。柔らかい感触。

ひなたの両腕が、倒れゆく俺の身体を強く抱きしめていた。

「ごめん」

耳元で、熱い吐息とともに囁かれる。

「やっぱり、無理」

「……」

「こんなの見て、何もしないなんて、私には無理だから」

その声は、微かに震えていた。

「……っ」

直後、魔法のように身体が軽くなる。

肺に酸素が流れ込み、心臓が力強く拍動を再開する。

やっぱり、そうだ。

——ひなたに触れている限り、俺は「生」を繋ぎ止めることができる。

「……なんでだよ」

かすれた声で、問いかける。

「なんで、そこまで……っ」

「分かんないよ」

即答だった。

「でも」

ひなたは、さらに力を込めて俺を抱きしめる。

「仁が苦しそうなの、見てる方が嫌だから」

「……」

あまりにシンプルで、あまりに重い理由。

抗う術を、俺は持っていなかった。

「ねえ」

「……なんだよ」

「さっきの続き」

「……は?」

「キスの話」

「この状況でかよ!?」

思わず叫んでいた。

瀕死の状態から救われた直後に、何を言い出すんだ、この女は。

「だってさ」

ひなたは、至って真剣な眼差しで俺を見つめる。

「今、すごい分かるの。こうしてると、仁がちゃんとこっちに戻ってくる感じ」

「……」

「だから。もっと近くなったら、どうなるのかなって」

「……っ」

距離、わずか数センチ。

視線が絡み合い、互いの鼓動が共鳴する。

身体がさらに軽くなり、命の輝きが増していくような感覚。

——本能が理解してしまう。

これ以上近づけば、もっと強く、深く、俺たちは結びついてしまうだろう。

「……やめろ」

「なんで?」

「……それ以上は、ダメだ」

言葉が詰まる。

けれど、これは絶対に、好奇心や延命のために踏み越えていい境界線ではない。

「……怖いの?」

ひなたが、静かに訊ねる。

「……ああ」

正直に、頷いた。

怖い。この先に何があるのか、知ってしまうことが。

「そっか」

ひなたは少しだけ考え込み、それからあっさりと身を引いた。

「……え?」

「だって、怖いんでしょ? なら、無理にはしないよ」

にこっと、いつものように笑う。

けれど、その瞳の奥には、拭いきれない寂しさが滲んでいた。

「でもさ。いつか、知りたいな」

ひなたが、遠くを見つめるように言う。

「その先のこと。……仁が、何をそんなに怖がってるのかも」

「……っ」

言葉を失う。

こいつは、一体どこまで見抜いているというのか。

「帰ろっか」

「……ああ」

ひなたが、自然な動作で俺の手を取る。

当たり前のようなその温もりを、俺はもう振り払えなかった。

帰り道、燃えるような夕焼けが街を赤く染めていた。

「ねえ仁。距離、どうする?」

「……」

しばらく沈黙し、俺は答えを出した。

「……もう少しだけ、このままでいい」

「ほんと?」

「ああ」

正直に言えば、もう無理だった。

一度知ってしまったこの安らぎから、再び離れるなんて。

「よかった」

嬉しそうに微笑むひなたを見て、自問自答する。

——本当に、これでいいのか?

答えは出ない。

ただ一つ確信しているのは、俺はもう、決して引き返せない場所まで来てしまったということだ。

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