第6話
「……距離、置くって」
白宮ひなたは、ぽつりとその言葉を繰り返した。
放課後の教室、浮き足立ったざわめきが、急速に遠のいていく。
「どういうこと?」
「……文字通りの意味だよ」
できるだけ感情を殺し、平静を装って答える。
「しばらく、一緒に帰るのもやめよう」
「……なんで?」
射抜くような、真っ直ぐな視線。
逃げ場を塞がれたような錯覚に陥る。
「……なんとなく、だ」
「なんとなくで、そんなこと言わないでよ」
「……」
本当のことなんて、口が裂けても言えない。
言えばすべてが壊れ、彼女を拭いきれない罪悪感で縛り付けてしまう気がした。
「俺さ」
わずかに視線を泳がせる。
「お前に、頼りすぎてる気がするんだよ」
「……」
「だから、少し距離を置いた方がいいかなって」
半分は本音で、半分は嘘だ。
だが、今の俺に絞り出せる精一杯の言葉だった。
「……そっか」
ひなたは小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。
ただ、「分かった」とだけ残して自分の席に戻る。
その背中が、いつもよりずっと小さく見えた。
その日から、ひなたは宣言通りに距離を置いた。
話しかけてこない。触れてこない。
廊下ですれ違っても、目が合うことすらほとんどなくなった。
「……」
静かすぎる。
今までがあまりに騒がしかったせいかもしれないが、この静寂は、鋭い刃のように俺の精神を削った。
「おい、河西」
昼休み、友人が遠慮がちに声をかけてくる。
「白宮となんかあったのか? お前ら、いつもセットだっただろ」
「……別に。何もない」
「いや、絶対なんかあったろ。空気死んでるぞ」
「気のせいだ」
適当に受け流し、俺は机に突っ伏した。
身体は、残酷なほど正直だった。
昨日から、また確実に調子が悪くなっている。
胸の違和感。鉛のような倦怠感。浅い呼吸。
死の気配が、じわじわと足元から這い上がってくるのが分かった。
「……はは」
自嘲気味に笑う。
分かっていたことだ。こうなることは。
それでも彼女を遠ざけると決めたのは、自分なのだから。
放課後、俺は一人で校門へと向かっていた。
いつもなら、ここに彼女が立っていて、強引に腕を絡めてきたはずだ。
「……考えるな」
前を向け。そう自分に言い聞かせ、一歩を踏み出す。
だが。
「ねえ」
聞き慣れた声に、心臓が跳ねた。
反射的に振り返ると、そこには——。
「少しだけ、いい?」
ひなたが、切なげな表情で立っていた。
「……なんだよ」
震えそうになる声を抑え、ぶっきらぼうに返す。
「少しだけ、話したいの」
拒絶する理由は、どこにもなかった。
「……手短にしろよ」
「ありがとう」
ひなたは微かに笑ったが、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
「昨日さ、仁、変だった」
「……何がだよ」
「無理してる感じ。すごくした」
「……そんなことねえよ」
「あるよ」
即答だった。
「ずっと一緒にいたから、分かるんだよ」
「……」
ぐうの音も出ない。
「ねえ。私、何か悪いことした?」
「……してない」
「じゃあ、なんで距離を置くの」
だから、それが言えないんだ。
お前を消費して生きるなんて、そんなおぞましい真似はしたくないんだ。
「……俺自身の問題だ。お前には関係ない」
突き放すように言うと、ひなたは小さく俯いた。
「……そっか」
その消え入りそうな声に胸が痛む。
だが、彼女が次に紡いだ言葉は、予想もしない内容だった。
「じゃあさ。私の問題でもあるよね」
「……は?」
顔を上げると、ひなたは少しだけ笑っていた。
けれど、その瞳はどこか遠い過去を見つめている。
「私ね、昔、事故に遭ったことがあるんだ」
「……事故?」
「うん。結構大きいの。本当は、助からないって言われてたらしいんだよね」
初めて聞く話だった。
「でも、気づいたら普通に生きてて。お医者さんもびっくりしてた」
彼女は他人事のようにくすりと笑う。
「それからかな。人に触れると、すごく安心するようになったのは」
「……」
「逆に、離れてると……少しだけ、不安になるっていうか」
さらりと告げられたその事実は、俺にとって決定的な意味を持っていた。
変じゃない。全然、変じゃない。
それは、俺たちが引き寄せられた理由そのものではないか。
「だからさ」
ひなたが一歩、踏み出す。
抗うように、俺は後ろに下がった。
「……っ」
「……やっぱり避けるんだね」
寂しげな色が彼女の瞳をよぎる。
「……悪い」
「ううん、いいよ」
ひなたは首を振り、さらにもう一歩、距離を詰めてきた。
「でもね。私、諦めないよ」
「……な、何を」
「だって、仁、明らかに苦しそうだもん」
図星だった。視界がかすかに揺れ、肺が空気を拒み始めている。
「離れてる方が、ずっとつらいんでしょ?」
何も言い返せない。
ひなたは、ゆっくりと手を伸ばした。
あと数センチで、指先が触れる。
「理由なんて、後回しでいいじゃん」
「——」
慈愛に満ちた声。それは、抗いがたい極上の誘惑だった。
ダメだ。ここで甘えれば、二度と戻れなくなる。
けれど、限界を迎えた身体は、彼女の熱を渇望して震えていた。
ひなたの手が、すぐそこにある。
「少しだけ。ね?」
優しい声が、鼓膜を震わせる。
俺は。
一体、どうするべきなんだ。




