第4話
「——やばい」
朝、目が覚めた瞬間、悟った。
身体が鉛のように重い。
浅い呼吸を繰り返すたび、胸の奥がじわじわと、焼けるように痛む。
「……最悪だ」
ベッドから起き上がろうとしたが、力が入らずに沈み込んだ。
昨日、ひなたと別れてからずっとこの調子だ。
夜もほとんど眠れなかった。
もはや疑いようがない。
「……離れると、ダメか」
小さく呟き、スマホに手を伸ばす。
学校に行く体力なんて微塵もない。
欠席の連絡を入れようとして、不意に手が止まった。
脳裏に浮かぶのは、あの距離の近すぎる、騒がしい女子の顔。
「……はは、重症だな」
こんな時に思い出すなんて。
身体の異常も、思考の偏りも、どちらも手遅れな気がした。
ピンポーン、と。
静まり返った部屋にインターホンが鳴り響く。
親は仕事で不在のはずだ。
「……はーい」
ふらつく足取りで玄関へ向かい、ドアを開ける。
「やっぱり」
そこにいたのは、予想もしない、けれど一番会いたかった相手だった。
「来たよ」
白宮ひなたが、当然のような顔で立っていた。
「……なんでいるんだよ」
「休んでたから」
「理由になってないだろ」
「なるよ?」
相変わらずの調子に、毒気を抜かれる。
「連絡もなしに来るなよ」
「だって、なんか嫌な予感したし」
その言葉に、胸の奥が小さく跳ねる。
ただの偶然か、それとも。
「入っていい?」
「……勝手にしろ」
「やった」
嬉しそうに靴を脱ぐ彼女を、止める気力はどこにもなかった。
「うわ、顔やば」
「失礼だな……」
「いや、ほんとにやばいよ?」
ひなたが顔を覗き込んでくる。
近い。
いつも通り近すぎる。
けれど今は、その距離が何よりも救いだった。
じわじわと蝕んでいた苦しさが、彼女の気配だけで和らいでいく。
「熱あるでしょ。寝てて」
「……はいはい」
素直に従い、俺は再びベッドに倒れ込んだ。
横になった途端、ひなたが隣に腰を下ろす。
ひんやりとした感触が額に触れた。
「……」
手のひらの冷たさ以上に、身体の奥がじんわりと軽くなるのを感じる。
「やっぱ熱あるね」
「……そうだな」
熱はある。
だが、それ以上に「生」が身体に戻ってくる感覚があった。
「ねえ」
ひなたは少し考え込み、事も無げに言った。
「こういうのってさ、くっついてた方がいいよね」
「は?」
直後、ベッドが沈んだ。
ひなたが、俺の布団の中に潜り込んできたのだ。
「ちょっ、お前……!?」
「いいからいいから」
「良くないだろ!」
「あったかい」
混乱する俺を余所に、ひなたは俺の肩に頭を預けてくる。
距離ゼロどころか、もはや重なっている。
「おい、離れろって」
「やだ」
「なんでだよ」
「こうしてると落ち着くから」
昨日も聞いたセリフ。
けれど今は、その重みが違って聞こえた。
身体が、劇的に楽になっていく。
重さは消え、呼吸は深くなり、心臓は力強く脈打ち始めた。
明らかに効果が強い。
「ほら、楽でしょ?」
「……なんで分かるんだよ」
「顔。さっきより全然マシ」
にこっと笑う彼女に、戦慄する。
完全に無自覚。
自分が俺の命を繋ぎ止めているなんて、露ほども思っていない。
「……なあ」
「んー?」
言いかけて、飲み込んだ。
もしこれが本当なら、こいつは——。
「……なんでもない」
「変なの」
ひなたはくすくすと笑い、さらに身体を寄せてきた。
腕に伝わる柔らかい感触に、心臓の音が跳ね上がる。
「だから、近いって……」
「看病だから」
「理由になってねえ!」
「なるよ?」
また、それか。
「ねえ仁」
「なんだよ」
「昨日の続き。キスの話」
「やめろ!!」
この状況でその話題を振れる神経が分からない。
「だってさ、こういうときって、するものじゃないの?」
「どんな常識だよ!」
「え、違うの?」
「違うわ!!」
断言する俺を、ひなたは不満げに見つめ、それから顔をさらに近づけてきた。
視線がぶつかり、吐息が重なる距離。
「もし、したら」
ひなたが囁く。
「もっと楽になるのかな」
「——っ」
心臓が喉から飛び出しそうだった。
こいつ、分かっているのか。
それとも、単なる直感なのか。
「……やめろ」
「なんで?」
「……今は、ダメだ」
理由は言えない。
けれど、これは今の俺が安易に手を出していい領域ではないのだ。
「……そっか」
少し残念そうにしてから、彼女はすぐに笑った。
「じゃあ、今はこれでいいや」
ぎゅっと、抱きついてくる。
完全な密着状態。
身体は楽になるが、精神的には限界だった。
「なあ、お前……本気でこれが普通だと思ってんのか」
「思ってるよ?」
「……はぁ」
頭が痛い。身体は元気なのに、心が削られる。
「でもさ」
ひなたが、ぽつりと呟いた。
「なんかいいじゃん。こうしてると、仁がちゃんと生きてる感じがして」
「……」
その言葉に、息が止まる。
「生きてる感じ」
それは、俺が何よりも切望していた感覚で。
けれど彼女は、その重さをきっと、まだ知らない。
その日、俺の身体から苦しさは消えていた。
ずっと、ひなたがそばにいたから。
その熱に、触れていたから。




