第3話
女性の方とキスしたいなぁ。
——おかしい。絶対に、おかしい
昼休みの喧騒の中、俺、河西仁は内心でそう毒づいていた。
「ねえ仁、今日も一緒に帰ろ?」
「……毎日それ言うのやめろって」
「なんで?」
「なんでじゃねえよ」
隣に立つ白宮ひなたは、相変わらず距離感という概念が欠落している。
近いどころか、当然のような顔をして俺の肩に腕を乗せていた。
その仕草があまりに自然すぎて、ツッコミを入れる気力すら削がれていく。
「ねえ、嫌なの?」
覗き込んでくる瞳に、毒気を抜かれる。
「……嫌じゃないけど」
「じゃあいいじゃん」
にこっと、花が咲くように笑う。
反則だ。
可愛いとかそういう次元ではなく、単純に心臓に悪い。
「……はぁ」
溜息をつきながらも、俺は彼女を突き放すことができなかった。いや、正確には「突き放せない理由」があった。
俺はそっと、自分の手のひらを見つめる。
不思議なことに、ひなたに触れていない時間が長くなると、鉛を飲んだような倦怠感が全身を襲う。
逆にこうして彼女が触れている間は、霧が晴れたように身体が軽くなるのだ。
もはや偶然ではない。確信に近い仮説。
——こいつと接触している間、俺の命は「延命」されている。
だが、そんなオカルトじみた話を本人に打ち明けられるはずもない。
もし本当にそうだとしたら、俺は彼女を利用していることにならないか。
「仁?」
「っ、なんでもない」
心配そうに顔を寄せてくるひなた。
近い。
だから、近すぎるんだって。
放課後、文化祭準備で活気づく教室。
「河西、脚立持ってきて」
クラスメイトの声に促され、俺は資材の山を縫うように歩く。視線で自然とひなたの姿を追っていた。
彼女は窓際で、不安定な脚立に乗って飾り付けに没頭している。
「おい、それ危なくないか」
「え? 大丈夫だよー」
ひなたは呑気に手を振るが、その直後だった。
ぐらり、と脚立が大きく揺れる。
「きゃっ——」
「っ!」
考えるより先に身体が弾けた。
床を蹴り、無我夢中で手を伸ばす。
落ちてくるひなたの細い身体を、受け止めるように抱き寄せた。
どさっ、という鈍い衝撃。
「……っ、いて」
床に打ち付けた背中に痛みが走るが、それだけだった。
腕の中では、ひなたが目を丸くして固まっている。
「……大丈夫か?」
「……うん」
至近距離。
数センチの先には、彼女の柔らかな唇がある。
重なる吐息。
絡み合う視線。
世界から音が消え、時間そのものが停止したかのような錯覚に陥る。
「……」
「……」
何も言えない。
ただ、心臓の音だけがうるさいほどに響く。
それ以上に俺を惑わせたのは、驚くほどの身体の「軽さ」だった。
さっきまでの倦怠感が、嘘のように消滅している。
強く触れ合っている分、その恩恵も強まるということか。
生き延びるために彼女を抱きしめているような自分に、薄い嫌悪感がこみ上げる。
「ねえ」
静寂を破ったのは、ひなたのぽつりとした呟きだった。
「……このまま、キスする?」
「——は?」
思考が真っ白に染まる。
今、この女は何を言った?
「え、だって」
ひなたは至って真剣な表情で続ける。
「こういう雰囲気って、普通しちゃう流れじゃないの?」
「どこの世界の話だよ!?」
思わず怒鳴るようにツッコんでしまった。
どんな基準で生きてるんだ。
「しないの?」
「しねえよ!」
「えー」
不満げに頬を膨らませるひなた。
なぜお前が被害者面なんだ。
……だが、ほんの一瞬でも迷ってしまった自分が、一番恐ろしかった。
「……離れろ」
「はーい」
素直に彼女が身体を離した瞬間、胸が締め付けられるような感覚が戻ってきた。
軽やかだった身体に、再び重苦しい「現実」がのしかかる。
やっぱり、間違いない。
俺の命の鍵は、彼女が握っている。
クラスメイトたちが駆け寄り、騒ぎが収まった後の帰り道。
夕闇に染まる通学路を、いつものように手を繋いで歩く。触れている手から、穏やかな熱が流れ込み、身体の調子が整っていく。
だが、頭の中はぐちゃぐちゃのままだった。
「ねえ仁。さっきの続きだけど」
「続き!?」
「キスの話」
「やめろ!」
裏返った声が夕暮れの空に響く。
周囲の視線が痛い。
「だって気になるじゃん。仁はしたくないの?」
「……っ」
言葉が詰まる。
したくない、なんて嘘はつけない。
だが、自分を生かすための「栄養剤」を求めるような気持ちで、彼女を求めていいはずがないのだ。
「……分かんねえよ」
絞り出すように答えると、ひなたは意外そうに目を丸くし、それから慈しむような笑みを浮かべた。
「そっか。じゃあ、そのうち分かるよ」
その言葉が、妙に胸に刺さった。




