第10話【最終話】
——温もり。
最初に感じたのは、それだった。
やわらかくて、あたたかくて。
そして——。
「……っ」
心臓が、今までになく大きく、力強く脈打つ。
ひなたの唇が、俺のそれに触れていた。
ほんの一瞬。瞬きをするほどの短い時間。
でも、その一瞬で——世界が塗り替えられた。
「……は……っ」
肺いっぱいに、酸素を吸い込む。
さっきまで鉛のようだった身体が、嘘みたいに動く。
胸を刺すような痛みは消え、それどころか、かつてないほど全身が「軽い」。
「……なんだよ、これ……」
呆然と呟く。
ただ触れ合っていた時とは、次元が違った。
まるで、彼女の命そのものを、直接体内に流し込まれたかのような感覚。
「……よかった」
ひなたの声に、ハッとして目を開ける。
すぐ目の前。少しだけ肩で息をしながら、彼女は頬を林檎のように赤く染めていた。
「……お前」
「ん?」
「今の……」
「キスだけど?」
「いや、それは分かる……。そうじゃなくて」
「なんでって?」
きょとんとした顔。本当に無自覚なのか、それとも。
いや、違う。もう分かっている。
こいつは、最初からずっと——俺を救うことだけを考えていたんだ。
「……ありがとう」
気づけば、そんな言葉が口をついて出た。
「え?」
「……助かった。本当に」
「……」
ひなたは少し驚いたように目を見開き、やがて、ふっと柔らかく笑った。
「うん」
嬉しそうに頷く。その笑顔はいつもと同じで——でも、どこか神聖なものに見えた。
「……なあ。本当に、大丈夫なのか。さっきの」
「……ああ」
ひなたは少し視線を彷徨わせてから、正直に言った。
「分かんない。でもね……ちょっとだけ、疲れちゃったかも」
「……っ」
その一言が、鋭い棘となって胸を締め付ける。
やっぱり、何も失っていないわけがない。
俺が吸い取ったのは、彼女の活力なのだ。
「……やっぱダメだ。こんなの、続けられるわけねえだろ」
「……」
ひなたが、一瞬だけ寂しそうな顔をする。
「……やだ。やめない」
はっきりとした拒絶。
「だって、仁、今しっかり生きてるでしょ? それでいいじゃん」
「よくねえよ!! 俺は、お前に全部背負わせて生きるなんて、そんなの——」
「全部じゃないよ」
「……え?」
「半分」
ひなたは、当たり前のことのように言った。
「半分こ。命も、気持ちも。だからさ……一緒に背負お?」
「……お前な」
呆れたように息を吐く。
「それ、めちゃくちゃ重いんだけど」
「知ってる。でも、一人よりは軽いでしょ?」
その言葉に、何も言い返せなかった。
「……分かったよ。その代わり、俺もお前を支える。無理してたら絶対に止めるからな。勝手に全部背負うなよ」
「……うん」
ひなたは小さく、満足そうに頷いた。
その日から、俺たちの関係は少しずつ形を変えた。
無理に距離を置くことはやめた。けれど、ただ漫然と依存するのもやめた。
どこまでならお互いが健やかでいられるか。二人で「生」のバランスを探る日々。
「ねえ仁、今日も一緒に帰ろ?」
「毎日それだな」
「だって好きだし」
「……さらっと言うな! 慣れねえよ!」
差し出された手を、少しだけ迷ってから、しっかりと握り返す。
あの日と同じ帰り道。けれど、景色は違って見えた。
「……なあ。前より、身体が楽な気がする」
「ほんと?」
「ああ。病院でも、病状が安定してるって言われた」
理由は分からない。
けれど、もしかしたらこの力は、俺が恐れていたような呪いではなく、もっと優しい何かなのかもしれない。
「ねえ仁。もう一回する? キス」
「しねえよ!!」
「えー、そのうちするでしょ?」
「……」
言い返せなかった。
多分、いつかまた、する。
その時は、延命のためじゃなく、もっと純粋な意味を持って。
夕焼けの中、俺たちは同じ速さで歩いていく。
余命三ヶ月。そう宣告されたはずの人生は、今も静かに続いている。
そして俺は、確信していた。
たとえいつか、触れなくても生きられる日が来たとしても。
俺はきっと、この手を離さないだろう。
また番外編を作るかもしれないです。




