The Brink.
最初の補給列を噛んだあと、若いのの空気が少しだけ変わった。
ほんの少しだ。
胸を張るほどじゃない。笑い声が戻るほどでもない。
けれど、尾根を渡る足取りに、前より半歩ぶんだけ軽さがあった。
削れた。
橋を落とした。
荷を谷へ落とした。
そして全員、生きて戻った。
それは山の戦いでは、十分すぎる“手応え”だった。
だからこそ、フレイヤは嫌な予感がしていた。
山でうまくいった手は、次もそのまま通るとは限らない。
むしろ、通ったからこそ次は通らない。
日が傾きかけた稜線で、フレイヤは崖下を見ていた。
北寄りの尾根筋。
向こうではまた神聖国軍がうねっている。白金の縁取りが遠目にも見える。あの整った色の塊を見るたび、フレイヤはいつも虫酸が走った。山の形も風も知らないまま、ただ数で押し込んでくる色だ。
その背後へ、ニクスが戻ってきた。
いつも通り気配が遅い。
枝がひとつ鳴ってから、ようやくそこにいたとわかる。
「遅かったね」
フレイヤが言うと、ニクスは肩をすくめた。
「見てた」
「何を」
「弓だ」
その一言で、近くにいたバルトが目を細めた。
カイラは無言で顔を上げる。
ニクスは崖下を顎で示した。
「増えてる。前より多い」
「どこに置いてた」
「先頭じゃない。中腹。橋と崖縁が見える位置だ」
フレイヤは黙った。
それだけで十分だった。
長槍を並べるだけでは足りないと、向こうもようやく学び始めたのだ。
「ただの数合わせじゃないね」
バルトが低く言う。
「見てるな」
ニクスが頷いた。
「ああ。
あいつら、崖縁を見てる」
風がひとつ、尾根を撫でていった。
高み。
滑り出し。
岩棚。
日鴉族が生き延びるために立つ場所を、ようやく敵が理解し始めている。
フレイヤは鼻で笑った。
「学びやがったね」
嫌そうな笑いだった。
レーヴェ少佐が会議で言っていた。
山に慣れていない相手でも、何を嫌えばいいかは学ぶ、と。
まったくその通りだった。
カイラが山刀の柄に親指をかける。
「じゃあ先に弓持ちから殺せばいい」
「そう単純でもないよ」
フレイヤは言った。
「向こうもそのつもりで置いてる」
「でも弓がいるなら、なおさら高いとこ取らせないと」
「取るよ。
ただし、前みたいに堂々とは立たない」
若羽が二人、少し離れた岩場で聞いていた。顔が強張っている。
この数日で何度かうまく削れたからこそ、今の報告は余計に効くのだろう。
崖縁が見られている。
それはつまり、いままで安全だと思っていた“消える場所”がもう安全ではないということだ。
「今日の獲物は」
フレイヤが問う。
ニクスは短く返す。
「先遣。
護衛、補給、弓。
前より軽い。けど目は増えてる」
「本隊の前払いってとこかい」
「そんなところだ」
ゴルムがその会話の横で、岩にしゃがみ込んでいた。細い尾根道の先にある崖縁を見ている。
日鴉族が滑り出しに使ってきた場所だ。
あそこを矢で見られるようになったら、今までのようには使えない。
「ここ、死んだな」
ゴルムが言った。
「使えないかい」
「使える。けど一度きりだ」
フレイヤは近づいた。
尾根の先は、切り立った崖になっている。そこから谷へ落ち、向こうの高みへ滑る。いままで何度も使ってきた導線だった。風も悪くない。だからこそ向こうも読んだ。
「なら一度きりで使う」
「どう使う」
「囮だよ」
カイラがすぐに顔を上げた。
「アタシが出る」
「駄目だ」
フレイヤは即答した。
「今のあんたは顔に出すぎる」
「じゃあ誰がやる」
「若いの二人。
矢を引かせて、弓の位置を出させる。
本命はその脇を噛む」
若羽の一人が喉を鳴らした。
それでも逃げなかった。いい顔だとフレイヤは思った。怖がっている顔は悪くない。怖さがあるうちは、まだ無駄に前へ出ない。
「いいかい」
フレイヤは全員を見回した。
「今日は高みに立つな。
崖に立つんじゃない。崖を使え」
誰もすぐには返事をしない。
「向こうは崖縁を見る。
なら崖縁に立つのは餌だけでいい。
見せるやつ以外は、見えないところから噛む」
バルトが頷く。
「先に弓兵を潰す」
「そう」
フレイヤは山刀を軽く抜いて、すぐに戻した。
「槍は枝に噛まれる。
でも弓は、高みにいたら噛まれない。
だから高みに長くいるな。
出るな、見せろ。
見せたら消えろ。
今日はそれでいく」
カイラが舌打ちした。
「まどろっこしいね」
「死ぬよりましだ」
「最近そればっかだね」
「生き残る気があるからだよ」
カイラは返事をしなかった。
ただ、その目の奥の熱はまだ落ちていない。弟の件以来、あの熱はずっとある。戦いに向ければ刃になるが、向け先を誤ればただの自傷だ。だから今日は正面へ出させないほうがいい。
ニクスが先に消える。
次いで若羽二人が移動する。
ゴルムは別の崖縁に縄を仕掛けに行った。
バルトは抜け道の最後尾へ回る。
再編された猟兵隊は、もう前みたいな山の寄せ集めではない。
役目が噛み合い始めている。
ただそのぶん、死ぬ場所を間違えたときの痛みも大きい。
神聖国軍の列が見えた。
数は多くない。
先遣だ。
前より軽装の護衛がいる。長槍の列の後ろに、短弓持ちが混ざっていた。白い矢羽根が光って見える。
「いたね」
フレイヤは低く呟いた。
今までの補給列なら、ここで崖縁から射かけて混乱を起こし、そのまま滑って抜ければよかった。
今日は違う。
若羽二人が、わざと見える位置へ出る。
完全に身を晒すわけじゃない。崖縁へ半身だけ見せ、尾根の草を揺らす。気配を残す。
神聖国兵のひとりが気づいた。すぐに後ろへ叫ぶ。
弓兵が前へ出る。
早い。
もう“そこ”を撃つべきだと知っている。
フレイヤの目が細くなる。
「来るよ」
次の瞬間、矢が飛んだ。
白い矢羽根が崖縁へ突き刺さる。
一射、二射、三射。
岩に当たる音が尾根へ跳ね返る。
若羽の一人が飛び退くのが半拍遅れた。
肩布を矢が裂いた。
「っ!」
布ごと羽の先が少し持っていかれる。血は大したことがない。だが、もし半歩遅ければ翼膜まで抜かれていた。
「引け!」
フレイヤが叫ぶ。
若羽たちがすぐに消える。
その瞬間、別の高みからカイラが滑った。
今度は真っ直ぐじゃない。崖から落ちるように出て、途中で岩棚へ引っかかる。そこから横へ走り、弓兵の側面へ出る。
神聖国兵がまだ崖縁ばかり見ていた。
遅い。
カイラの矢が最初の弓兵の喉へ入る。
ふたり目が振り向く。そこへ別の若羽の矢が手首を抜いた。弓が落ちる。
「噛め!」
フレイヤの声に合わせて、左右の岩陰から短い射が飛ぶ。
殺しきらなくていい。
立て直せないだけで十分だ。
神聖国側も反応する。前へ出た護衛が槍を持ち替える。長槍ではなく、短く握り直して崖側へ向ける。
こっちも学んでいる。
だがまだ遅い。
まだ“慣れていない”の側にいる。
バルトが低い位置から一気に詰めた。
道を塞ぐ護衛の一人を肩から斬り崩し、そのまま前へ出ようとした別の弓兵を蹴り落とす。崖まではいかない。だが体勢を崩せば十分だ。そこへニクスの短矢が飛び、兵の腿に刺さる。
列がまた乱れた。
前へ出ようとした弓兵が、今度は逆に護衛の体で射線を切られる。
神聖国側の指揮が追いついていない。
崖縁だけ見ていたせいで、横腹を噛まれた。
「十分だ!」
フレイヤが叫ぶ。
ここで欲張れば、今度は逆に弓で抜かれる。
カイラがまだ一歩前へ出ようとする。
「カイラ!」
名前だけで止まった。
完全には止まっていない。だが足が鈍る。その一瞬で十分だった。
「戻れ! 今日は殺し切る日じゃない!」
カイラは歯を噛んだまま、それでも退いた。
神聖国側の弓兵が再度矢をつがえる。
今度は崖縁じゃない。カイラが消えた岩棚のあたりへ射を置く。
当てる精度はまだ荒い。だが嫌らしい。確実に学び始めている。
一本の矢が、フレイヤのいた岩のすぐ脇へ刺さった。
白い羽根が揺れる。
フレイヤはそれを一瞥して、すぐに踵を返した。
「高みに長居するな! 抜けるよ!」
尾根を移る。
崖から崖へではない。今日は矢がいる。だから一度低い岩陰を使い、見えない角度から次の高みへ渡る。
面倒だ。遅い。だが、生き残るには必要だった。
最後尾でバルトが一度だけ振り返る。
神聖国軍は前へは出ない。いや、出られない。弓兵を前へ押し出したせいで列が細くなり、護衛と補給の間に隙ができている。そこへまたニクスが何かを投げた。油壺か、荷の留め具か。小さく悲鳴が上がる。
削れた。
大きくはない。
橋を落とした時ほど派手でもない。
だが意味はある。
神聖国は学び始めた。
そして、こちらもさらに学ばなきゃいけない。
尾根を越えた先で、若羽の肩布を見たルダが顔をしかめた。
「危なかったねえ」
「布だけですんだ」
若羽は強がって言った。声が少し震えている。
フレイヤはその肩布の裂け目を指でめくった。血は浅い。
だが矢羽根がもう少し内側なら、羽をやられていた。
「覚えたかい」
若羽は唇を噛んで頷いた。
「……はい」
「崖は安全じゃない」
「はい」
「崖縁を使うな。崖を使いな」
「はい」
それでいい、とフレイヤは思った。
怖さを知った若羽は、次に生きる。
怖さを失った若羽から死ぬ。
カイラが遅れて戻ってくる。
まだ足りない顔だ。
けれど、今日はちゃんと止まれた。
「面倒になったね」
フレイヤが言うと、カイラは不機嫌そうに吐き捨てた。
「弓なんて卑怯だろ」
「猟師がそれ言うかい」
「言う」
「じゃあ神聖国の連中も、同じこと思ってるだろうね。
“空から降ってくるやつらは卑怯だ”って」
カイラは鼻を鳴らした。
「滑ってるだけだ」
「そうだね」
フレイヤは白い矢羽根を一本、手で折った。
ぱきり、と乾いた音がした。
「次はあいつらの弓を先に殺す」
バルトが短く言う。
「崖縁はもう餌だな」
「そうなるね」
ゴルムが地面へ棒で線を引く。
新しい導線だ。
前より遠回りで、前より遅い。
だが生きている。
フレイヤはその線を見下ろした。
神聖国軍は山に慣れていない。
だが、山で何を嫌えばいいかは学び始めた。
ならこちらも、もう一段深く山を使うしかない。
「行くよ」
フレイヤは言った。
「今日はここまで。
次からは、崖に立つな。
弓兵の目を引っこ抜いてから噛む」
若羽たちが頷く。
今度の頷きは、前回より少し重かった。
それでいい。軽いまま進むよりずっといい。
尾根の向こうでは、まだ神聖国軍のうねりが続いている。
削れる。
だが、楽には削れない。
山はまだこちらのものだった。
ただし、昨日までと同じ形ではもう使えなかった。




