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農家の異世界奮闘記 外伝~日鴉戦記~  作者: 今無ヅイ


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9/13

The Brink.

 最初の補給列を噛んだあと、若いのの空気が少しだけ変わった。


 ほんの少しだ。

 胸を張るほどじゃない。笑い声が戻るほどでもない。

 けれど、尾根を渡る足取りに、前より半歩ぶんだけ軽さがあった。


 削れた。

 橋を落とした。

 荷を谷へ落とした。

 そして全員、生きて戻った。


 それは山の戦いでは、十分すぎる“手応え”だった。


 だからこそ、フレイヤは嫌な予感がしていた。


 山でうまくいった手は、次もそのまま通るとは限らない。

 むしろ、通ったからこそ次は通らない。


 日が傾きかけた稜線で、フレイヤは崖下を見ていた。


 北寄りの尾根筋。

 向こうではまた神聖国軍がうねっている。白金の縁取りが遠目にも見える。あの整った色の塊を見るたび、フレイヤはいつも虫酸が走った。山の形も風も知らないまま、ただ数で押し込んでくる色だ。


 その背後へ、ニクスが戻ってきた。


 いつも通り気配が遅い。

 枝がひとつ鳴ってから、ようやくそこにいたとわかる。


「遅かったね」


 フレイヤが言うと、ニクスは肩をすくめた。


「見てた」


「何を」


「弓だ」


 その一言で、近くにいたバルトが目を細めた。

 カイラは無言で顔を上げる。


 ニクスは崖下を顎で示した。


「増えてる。前より多い」


「どこに置いてた」


「先頭じゃない。中腹。橋と崖縁が見える位置だ」


 フレイヤは黙った。


 それだけで十分だった。

 長槍を並べるだけでは足りないと、向こうもようやく学び始めたのだ。


「ただの数合わせじゃないね」


 バルトが低く言う。


「見てるな」


 ニクスが頷いた。


「ああ。

 あいつら、崖縁を見てる」


 風がひとつ、尾根を撫でていった。


 高み。

 滑り出し。

 岩棚。

 日鴉族が生き延びるために立つ場所を、ようやく敵が理解し始めている。


 フレイヤは鼻で笑った。


「学びやがったね」


 嫌そうな笑いだった。


 レーヴェ少佐が会議で言っていた。

 山に慣れていない相手でも、何を嫌えばいいかは学ぶ、と。

 まったくその通りだった。


 カイラが山刀の柄に親指をかける。


「じゃあ先に弓持ちから殺せばいい」


「そう単純でもないよ」


 フレイヤは言った。


「向こうもそのつもりで置いてる」


「でも弓がいるなら、なおさら高いとこ取らせないと」


「取るよ。

 ただし、前みたいに堂々とは立たない」


 若羽が二人、少し離れた岩場で聞いていた。顔が強張っている。

 この数日で何度かうまく削れたからこそ、今の報告は余計に効くのだろう。


 崖縁が見られている。

 それはつまり、いままで安全だと思っていた“消える場所”がもう安全ではないということだ。


「今日の獲物は」


 フレイヤが問う。


 ニクスは短く返す。


「先遣。

 護衛、補給、弓。

 前より軽い。けど目は増えてる」


「本隊の前払いってとこかい」


「そんなところだ」


 ゴルムがその会話の横で、岩にしゃがみ込んでいた。細い尾根道の先にある崖縁を見ている。

 日鴉族が滑り出しに使ってきた場所だ。

 あそこを矢で見られるようになったら、今までのようには使えない。


「ここ、死んだな」


 ゴルムが言った。


「使えないかい」


「使える。けど一度きりだ」


 フレイヤは近づいた。


 尾根の先は、切り立った崖になっている。そこから谷へ落ち、向こうの高みへ滑る。いままで何度も使ってきた導線だった。風も悪くない。だからこそ向こうも読んだ。


「なら一度きりで使う」


「どう使う」


「囮だよ」


 カイラがすぐに顔を上げた。


「アタシが出る」


「駄目だ」


 フレイヤは即答した。


「今のあんたは顔に出すぎる」


「じゃあ誰がやる」


「若いの二人。

 矢を引かせて、弓の位置を出させる。

 本命はその脇を噛む」


 若羽の一人が喉を鳴らした。

 それでも逃げなかった。いい顔だとフレイヤは思った。怖がっている顔は悪くない。怖さがあるうちは、まだ無駄に前へ出ない。


「いいかい」


 フレイヤは全員を見回した。


「今日は高みに立つな。

 崖に立つんじゃない。崖を使え」


 誰もすぐには返事をしない。


「向こうは崖縁を見る。

 なら崖縁に立つのは餌だけでいい。

 見せるやつ以外は、見えないところから噛む」


 バルトが頷く。


「先に弓兵を潰す」


「そう」


 フレイヤは山刀を軽く抜いて、すぐに戻した。


「槍は枝に噛まれる。

 でも弓は、高みにいたら噛まれない。

 だから高みに長くいるな。

 出るな、見せろ。

 見せたら消えろ。

 今日はそれでいく」


 カイラが舌打ちした。


「まどろっこしいね」


「死ぬよりましだ」


「最近そればっかだね」


「生き残る気があるからだよ」


 カイラは返事をしなかった。

 ただ、その目の奥の熱はまだ落ちていない。弟の件以来、あの熱はずっとある。戦いに向ければ刃になるが、向け先を誤ればただの自傷だ。だから今日は正面へ出させないほうがいい。


 ニクスが先に消える。

 次いで若羽二人が移動する。

 ゴルムは別の崖縁に縄を仕掛けに行った。

 バルトは抜け道の最後尾へ回る。


 再編された猟兵隊は、もう前みたいな山の寄せ集めではない。

 役目が噛み合い始めている。

 ただそのぶん、死ぬ場所を間違えたときの痛みも大きい。


 神聖国軍の列が見えた。


 数は多くない。

 先遣だ。

 前より軽装の護衛がいる。長槍の列の後ろに、短弓持ちが混ざっていた。白い矢羽根が光って見える。


「いたね」


 フレイヤは低く呟いた。


 今までの補給列なら、ここで崖縁から射かけて混乱を起こし、そのまま滑って抜ければよかった。

 今日は違う。


 若羽二人が、わざと見える位置へ出る。


 完全に身を晒すわけじゃない。崖縁へ半身だけ見せ、尾根の草を揺らす。気配を残す。

 神聖国兵のひとりが気づいた。すぐに後ろへ叫ぶ。


 弓兵が前へ出る。


 早い。

 もう“そこ”を撃つべきだと知っている。


 フレイヤの目が細くなる。


「来るよ」


 次の瞬間、矢が飛んだ。


 白い矢羽根が崖縁へ突き刺さる。

 一射、二射、三射。

 岩に当たる音が尾根へ跳ね返る。


 若羽の一人が飛び退くのが半拍遅れた。

 肩布を矢が裂いた。


「っ!」


 布ごと羽の先が少し持っていかれる。血は大したことがない。だが、もし半歩遅ければ翼膜まで抜かれていた。


「引け!」


 フレイヤが叫ぶ。


 若羽たちがすぐに消える。

 その瞬間、別の高みからカイラが滑った。


 今度は真っ直ぐじゃない。崖から落ちるように出て、途中で岩棚へ引っかかる。そこから横へ走り、弓兵の側面へ出る。


 神聖国兵がまだ崖縁ばかり見ていた。


 遅い。


 カイラの矢が最初の弓兵の喉へ入る。

 ふたり目が振り向く。そこへ別の若羽の矢が手首を抜いた。弓が落ちる。


「噛め!」


 フレイヤの声に合わせて、左右の岩陰から短い射が飛ぶ。


 殺しきらなくていい。

 立て直せないだけで十分だ。


 神聖国側も反応する。前へ出た護衛が槍を持ち替える。長槍ではなく、短く握り直して崖側へ向ける。

 こっちも学んでいる。

 だがまだ遅い。

 まだ“慣れていない”の側にいる。


 バルトが低い位置から一気に詰めた。


 道を塞ぐ護衛の一人を肩から斬り崩し、そのまま前へ出ようとした別の弓兵を蹴り落とす。崖まではいかない。だが体勢を崩せば十分だ。そこへニクスの短矢が飛び、兵の腿に刺さる。


 列がまた乱れた。


 前へ出ようとした弓兵が、今度は逆に護衛の体で射線を切られる。

 神聖国側の指揮が追いついていない。

 崖縁だけ見ていたせいで、横腹を噛まれた。


「十分だ!」


 フレイヤが叫ぶ。


 ここで欲張れば、今度は逆に弓で抜かれる。


 カイラがまだ一歩前へ出ようとする。


「カイラ!」


 名前だけで止まった。

 完全には止まっていない。だが足が鈍る。その一瞬で十分だった。


「戻れ! 今日は殺し切る日じゃない!」


 カイラは歯を噛んだまま、それでも退いた。


 神聖国側の弓兵が再度矢をつがえる。

 今度は崖縁じゃない。カイラが消えた岩棚のあたりへ射を置く。

 当てる精度はまだ荒い。だが嫌らしい。確実に学び始めている。


 一本の矢が、フレイヤのいた岩のすぐ脇へ刺さった。


 白い羽根が揺れる。


 フレイヤはそれを一瞥して、すぐに踵を返した。


「高みに長居するな! 抜けるよ!」


 尾根を移る。

 崖から崖へではない。今日は矢がいる。だから一度低い岩陰を使い、見えない角度から次の高みへ渡る。

 面倒だ。遅い。だが、生き残るには必要だった。


 最後尾でバルトが一度だけ振り返る。

 神聖国軍は前へは出ない。いや、出られない。弓兵を前へ押し出したせいで列が細くなり、護衛と補給の間に隙ができている。そこへまたニクスが何かを投げた。油壺か、荷の留め具か。小さく悲鳴が上がる。


 削れた。


 大きくはない。

 橋を落とした時ほど派手でもない。

 だが意味はある。


 神聖国は学び始めた。

 そして、こちらもさらに学ばなきゃいけない。


 尾根を越えた先で、若羽の肩布を見たルダが顔をしかめた。


「危なかったねえ」


「布だけですんだ」


 若羽は強がって言った。声が少し震えている。


 フレイヤはその肩布の裂け目を指でめくった。血は浅い。

 だが矢羽根がもう少し内側なら、羽をやられていた。


「覚えたかい」


 若羽は唇を噛んで頷いた。


「……はい」


「崖は安全じゃない」


「はい」


「崖縁を使うな。崖を使いな」


「はい」


 それでいい、とフレイヤは思った。

 怖さを知った若羽は、次に生きる。

 怖さを失った若羽から死ぬ。


 カイラが遅れて戻ってくる。


 まだ足りない顔だ。

 けれど、今日はちゃんと止まれた。


「面倒になったね」


 フレイヤが言うと、カイラは不機嫌そうに吐き捨てた。


「弓なんて卑怯だろ」


「猟師がそれ言うかい」


「言う」


「じゃあ神聖国の連中も、同じこと思ってるだろうね。

 “空から降ってくるやつらは卑怯だ”って」


 カイラは鼻を鳴らした。


「滑ってるだけだ」


「そうだね」


 フレイヤは白い矢羽根を一本、手で折った。


 ぱきり、と乾いた音がした。


「次はあいつらの弓を先に殺す」


 バルトが短く言う。


「崖縁はもう餌だな」


「そうなるね」


 ゴルムが地面へ棒で線を引く。

 新しい導線だ。

 前より遠回りで、前より遅い。

 だが生きている。


 フレイヤはその線を見下ろした。


 神聖国軍は山に慣れていない。

 だが、山で何を嫌えばいいかは学び始めた。


 ならこちらも、もう一段深く山を使うしかない。


「行くよ」


 フレイヤは言った。


「今日はここまで。

 次からは、崖に立つな。

 弓兵の目を引っこ抜いてから噛む」


 若羽たちが頷く。

 今度の頷きは、前回より少し重かった。

 それでいい。軽いまま進むよりずっといい。


 尾根の向こうでは、まだ神聖国軍のうねりが続いている。


 削れる。

 だが、楽には削れない。


 山はまだこちらのものだった。

 ただし、昨日までと同じ形ではもう使えなかった。

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