Delay the day.
再編され、帝国領側に近い山に戻ったその日の夜に、日鴉族猟兵隊へ最初の任務が落ちてきた。
北からの南へ流れる補給列を遅らせろ。
たったそれだけの文言だった。
だが、会議室で決まった「山で削り、平野で折る」を、初めて現場へ落とした命令でもあった。
フレイヤは紙片を折って懐へ突っ込み、尾根の縁から下を見た。
朝の山は、相変わらず冷たい。
けれど、前みたいな穏やかな冷たさじゃない。見張りの風ではなく、殺すための風だ。
数日で山の匂いそのものが変わった気がする。
煙、血、焦げた木、濡れた革、薬草、そして神聖魔法の焼け跡に特有の、妙に澄んだ焦げ臭さ。
その風を、ニクスが先に読んでいた。
「来る」
灰色の羽が木陰から抜ける。
朝靄そのものみたいな男だった。近づくまでそこにいると気づけない。相変わらず気味が悪い。
「数は」
フレイヤが問う。
「先頭は軽い。補給と護衛の混成。
本隊じゃない。だが、荷は多い」
「荷駄は」
「二十前後。駄馬もいる。荷車は使えてない。道が細い」
「槍は」
「長いまま」
カイラが鼻で笑った。
「ありがたいね」
その笑いは軽くない。
弟を失ってから、カイラの声には、どこか噛み切れていない刃みたいな響きが残っていた。忙しく動いているうちは立っている。止まれば危うい。だから今みたいに、任務で前へ出しておいたほうがいい。
ゴルムはすでに地面を見ていた。
橋板の継ぎ目、支えの木、荷駄が通ればどこに重みが偏るか。敵を見る前に地形を見る男だ。
「ここだな」
ゴルムが短く言う。
尾根の中腹、細い渓流にかかる仮橋。もともと山の者が荷を渡すための小さな橋だったが、いまは神聖国の補給列も使わざるをえない。道幅は狭い。
左右は岩壁。抜け道はない。前が詰まれば後ろも止まる。
いかにも“削ってくれ”と言わんばかりの地形だった。
「落とせるかい」
フレイヤが聞く。
「一度通してからならな」
ゴルムは斧の柄で橋脚を軽く叩いた。
「先頭の護衛を渡らせて、荷を半分かけたあたりで折る。
欲張るとこっちの逃げ道も死ぬ」
「どれくらい買える」
「半日」
フレイヤは橋の上を想像する。
革靴、長槍、荷駄、焦った号令、詰まる後列、岩にぶつかる音。崩れれば混乱は長引く。
「半日で十分だよ」
フレイヤは山刀の鞘を軽く叩いた。
「勝たなくていい。
時間を奪え。
今日の半日が、平野で千人を生かす」
それが猟兵隊の最初の戦いだった。
布陣は短く決まった。
ニクスが先行し、列の長さと歩調を測る。
ゴルムが橋を折る位置につく。
カイラは二番目の荷の横腹を噛む。補給列の腹を裂いて、護衛を動揺させる役だ。
バルトは後ろ。撤退線を守り、最後に抜ける。
フレイヤは全体を見て、切る合図を出す。
帝国式に言えば、戦闘配置なのだろう。
日鴉族の感覚では、いつもの山仕事を、今日は殺し寄りに並べただけだった。
崖の上で、若羽たちが風を読む。
日鴉族は飛べない上に、体格は帝国人の子供ほどしかない。
高いところから風を使って遠くへ滑るために、滑り出す位置が命になる。
先に降りれば終わる。地面に落ちれば的だ。
逆に、高みにいられる限りは山の風そのものになる。
フレイヤは若いのを見回した。
再編直後の初陣だ。
緊張していない顔はない。だが、怯えて固まっている顔もない。
「焦るな。
橋が死ぬまでは、こっちも死ぬな。
一度噛んだら消えろ。止まるな」
若羽のひとりが頷く。
別のひとりは喉を鳴らすだけだった。
それでいい。恐怖がないより、恐怖を飲み込めるほうがましだ。
ニクスがすでに消えている。
見えなくなったあとで、枝がひとつだけ揺れた。
やがて、下の道に音が生まれた。
まず駄獣。
次に革靴。
そのあとに、長槍の石突きが岩を打つ硬い音。
神聖国の補給列だった。
先頭の護衛が橋にかかる。
白を抑えた外套。だが歩き方でわかる。重心が遅い。湿った岩を信用していない足取りだ。槍は相変わらず長い。後列の肩と時々当たり、苛立ったように持ち直している。
革靴はまだ岩を嫌っている。
槍はまだ枝に噛まれる。
神聖国は学んでいないわけじゃない。だが、学ぶ速度が足りない。
先頭が渡る。
護衛が数名、橋を越える。
駄獣が一頭、二頭。
荷が橋板を軋ませる。
そのとき、ニクスから合図が来た。
高みの枝が、一度だけ揺れる。
フレイヤの右手が下りた。
「切れ」
次の瞬間、山が噛んだ。
最初に動いたのはカイラだった。
崖から身を投げる。落ちるように見えて、その直前で羽が風を掴む。体が斜めに滑り、二番目の荷の真上へ出る。神聖国兵が顔を上げたときにはもう遅い。
短弓の一射。
駄獣の目に刺さる。
悲鳴。
暴れる荷。
列が乱れる。
同時に、別の高みから若羽が二射。荷を担ぐ兵ではなく、綱と荷袋の縛り目を狙う。袋が裂け、干粮と布束が坂へ散る。拾おうとした護衛が、後列の槍にぶつかった。
「敵襲!」
叫びが上がる。
そこで、ゴルムが橋脚へ斧を打ち込んだ。
最初の一撃。
二撃目。
三撃目で、木が悲鳴を上げる。
橋板が片側へ沈んだ。
ちょうど中央にいた駄獣が足を滑らせる。
荷ごと斜めに落ち、橋に半分ぶら下がる格好になった。後ろの荷駄が止まる。止まったところへ後列が詰まる。詰まったところへ、前の護衛が振り向こうとして槍を絡ませる。
きれいな隊列が、橋の上で一気に汚く潰れた。
「よし」
フレイヤは低く言った。
ここからは欲張らない。
削るだけ削って、消える。
「右腹をもう一回噛め!」
カイラが返事もせずに滑る。今度は兵ではなく、橋を越えた先の荷を狙う。
山刀で縄を断ち、樽を坂へ落とす。
白い粉が散った。小麦粉だ。
護衛のひとりが槍を突き上げる。
長い。遅い。
カイラはその穂先より先に横へ逃げ、崖の風へ体を投げる。滑空というより横滑りだ。地面につく前に、別の岩棚へ爪先だけで引っかかる。
そこへ神聖国兵が二名、斜面をよじ登ってこようとした。
「バルト!」
フレイヤが呼ぶ。
低い位置にいた大男が前へ出る。
地上での剣が速い。
バルトは日鴉族としては珍しいほど、地に足のついた戦い方をする男だ。登りきる前の兵へ斜めに斬り込み、一人を道の外へ落とし、もう一人の肩口を割る。
そのまま退かず、道の狭さを使って一瞬だけ“蓋”になった。
「抜けろ!」
短い声。
若羽が二人、岩棚から岩棚へ逃げる。
その間にも、橋は死にかけていた。
ゴルムが最後の支えを蹴る。
重みに耐えきれなくなった橋板が、今度こそ真ん中から折れた。
駄獣と荷がまとめて渓流へ落ちる。
叫び。木の割れる音。水飛沫。
そして、列全体の前進が完全に止まった。
フレイヤはそこではじめて、敵全体を見た。
先頭の護衛は前へ出られない。
中腹は荷の崩落で乱れている。
後列は何が起きたかわからないまま詰まっている。
長槍は振れず、革靴は濡れた斜面を信用できず、隊列は橋の死骸に噛まれている。
削れた。
十分に。
だが、もう次の瞬間には神聖国側も立て直しに入る。
ここで欲張れば、こっちが死ぬ。
「終わりだ!」
フレイヤが叫ぶ。
「荷だけ見ろ!人を追うな!
消えろ!」
若羽たちが一斉に動く。
地面に落ちた荷へもう一射。
火矢はない。だが油壺を割るだけでも十分だ。滑る。運べない。拾えない。
別の若羽が伝令兵の外套を射抜く。殺しきらない。
だが転ばせる。伝令が遅れれば、それもまた半日だ。
カイラがもう一度だけ戻りかけた。
目が血走っている。
まだ足りない顔だ。
フレイヤはその背中に怒鳴る。
「カイラ!」
一瞬、肩が止まる。
「今は殺すな!
削れ!」
カイラの歯噛みがここまで聞こえそうだった。
それでも彼女は戻った。戻って、岩の陰へ消えた。
それでいい。今はそれでいい。
神聖国側の指揮官が、ようやく声を張り上げる。
「隊列を立て直せ!
前を空けろ!
橋を――」
だが橋はもうない。
工兵らしき兵が前へ出る。
遅い。
ここから板を渡し直し、荷を拾い、列を立て直すには時間が要る。
フレイヤはそれを確認して、踵を返した。
「南へ抜けるよ!」
撤退は最初から折り込み済みだ。
尾根へ戻る。岩棚を移る。高いところを繋ぐ。地面へ降りすぎない。
滑れるやつから滑り、滑れない位置は歩いて次の高みへ渡る。
日鴉族猟兵隊は、勝って残るのではない。
削って消える。
最後尾はやはりバルトだった。
追ってくる二人を見て、一瞬だけ立ち止まる。
ひとりを斬り、もうひとりの膝を払って、そのまま後ろも見ずに抜ける。
若いのを先に行かせて、自分は最後に消える。あの男のいつもの仕事だ。
ニクスは、戻ってきたのに気づかなかった。
いつの間にかフレイヤの左後ろにいて、短く言った。
「二手に分かれた。追撃は軽い」
「補給列は」
「死んだ」
その言い方がいちばん近い。
死んだ。
壊滅ではない。
だが予定通りにはもう動けない。
尾根を越えた先で、全員がようやく息をついた。
若羽の一人が笑った。
緊張が切れた笑いだ。すぐに別の若羽に頭を叩かれて、笑いながら黙る。
ゴルムが斧の柄で地面を突く。
「半日だな」
バルトが肩で息をしながら言う。
「それ以上かもしれん」
ニクスが補う。
「後列に工兵が少ない」
「なら上出来だよ」
フレイヤは言った。
誰も「勝った」とは言わなかった。
それでいい。
これは勝ち戦じゃない。
半日を買っただけだ。
けれど、その半日は大きい。
平野で受ける帝国本隊にとって。
避難民をさらに南へ流す時間として。
次の橋を落とす準備のために。
何より、日鴉族猟兵隊が本当に戦力として機能することを、帝国にも自分たちにも証明するために。
カイラが遅れて戻ってきた。
息は乱れている。顔はまだ獣みたいだ。だが、ちゃんと戻った。戻ってきたという事実が大きかった。
「物足りない顔してるね」
フレイヤが言うと、カイラは舌打ちした。
「削れって言うから削っただけだ」
「十分だよ」
「十分じゃない」
「そうだろうね」
フレイヤはそれを否定しなかった。
「でも今日は、それでいい」
カイラは何も返さない。
ただ、橋のあった谷のほうをちらりと見た。
そこにはもう、崩れた荷と詰まった列と、怒号だけがある。
神聖国軍は山に慣れていない。
なら、山で削る。
会議で決まった方針が、初めて血と木屑と崩れた荷になって現れた。
フレイヤは尾根の先を見た。
まだ鐘が返る山がある。
まだ落とせる橋がある。
まだ削れる道がある。
「行くよ」
短く言う。
「次の半日を買いに」
若羽たちが頷く。
日鴉族猟兵隊の初戦は、それで終わった。
大勝ちではない。
英雄譚でもない。
ただ、敵の歩みを鈍らせ、荷を落とし、こちらは生きて消えた。
それで十分だった。
山で削り、平野で折る。
その最初の一歩としては、上出来だった。




