No Time to Rest.
西部方面軍司令部は、避難所より静かで、避難所よりずっと忙しかった。
怒鳴り声がないわけじゃない。伝令が走り、机が鳴り、扉が開き、地図が広がり、誰かが短く命じ、誰かが短く返す。
ただ、その音は全部、きっちり整えられていた。
無秩序な喧噪ではなく、理屈で束ねられた騒がしさだ。
避難所が「生きている者をどうにか繋ぐ場所」なら、ここは「まだ死んでいない戦をどうやって勝ち筋に変えるか」を考える場所だった。
フレイヤは、そういう場所を好かない。
嫌いとまでは言わないが、落ち着かない。
木の匂いより紙と蝋の匂いが強く、風の代わりに人の判断が空気を動かしている感じがする。
けれど逃げる気もなかった。
司令部の一室。大机の上には西部山岳地帯の大図が広げられ、焼失地点、見張り線、避難民流入路、神聖国軍の侵入推定路が色違いで書き込まれている。
紙の上に乗っているのは、フレイヤたちが実際に見てきた死んだ山だった。
その机の端に、フレイヤとバルトは立っていた。
座れと言われたが、フレイヤは断った。
バルトも断った。
向かいには西部方面軍参謀本部の参謀たちが並んでいる。
右手には、老参謀、ハインリヒ・ブラウナー大佐。
顔の皺がそのまま戦歴みたいな男で、机に向かっているのに、戦場の音をまだ耳の奥に残している顔だった。
左手には、いかにも帝国軍らしい実務的な顔をした参謀、ヨアヒム・レーヴェ少佐。
以前から日鴉族の国境警備隊との窓口に立ってきた男で、塩と鉄と伝令の話を通じて、日鴉族の体格や癖をそれなりに知っている。
少し手前には、頭は良さそうな若い参謀、アルノルト・ケストナー少佐。目の動きが早い。頭の回転も速い。
だが、その視線にはまだ、山が紙の上にしかない若さが残っている気がする。
部屋の奥で、グライフェンタールが地図を見下ろしていた。
相変わらず無駄のない立ち姿だ。戦場帰りの兵とも、司令部育ちの参謀とも違う。現場で汚れて、なお机の上でも鈍らない人間の立ち方だった。
「始めよう」
低い声が落ちる。
部屋の空気が、すっと締まった。
「日鴉族残存戦力の再編と、今後の山岳方針についてだ。
フレイヤ殿、まず現状を」
フレイヤは地図へ歩み寄った。
指で北西を叩く。
山口。神聖国側から数を通せる、あの嫌な入口だ。
「ここから入ってきてる。北西の山口だよ。幅があってそこそこ整った道がある。だから数を押し込める。
こっちも見張りを厚く置いてた」
指を滑らせる。
見張り所。鐘尾根。仮小屋。鐘楼。焼けた詰所。
「でも食われた。見張り場所を焼かれて、詰所を潰されて、逃げ道と目を先に切られてる」
兵站表を持っていたブラウナー大佐が、地図へ少し身を寄せた。
「北西は集落が少ないと聞いていたが」
「少ないよ」
フレイヤは即答した。
「住むには向かない。あっちにも近いうえに、そもそも風が強いし、畑も痩せてる。
だから見張りを多く置いてた。見張りが多いってことは、あそこが喉だって皆知ってるってことさ」
レーヴェ少佐が補足するように言う。
「北西山域は、日鴉族にとって生活圏というより警戒線です。仮小屋と見張り所の密度が高く、集落は少ない」
ケストナー少佐が顔を上げた。
「敵はその喉を最初に潰した、と」
「そういうことだね」
「案内がいた可能性は」
「ある。が、なくても数任せに充分踏めるだろうね」
部屋が少しだけ静かになる。
“数があるから”で押し切られるのは、地図の上では簡単でも、現場ではひどく重い。
グライフェンタールが問う。
「神聖国軍の練度や進軍速度は」
フレイヤは少しだけ唇を歪めた。
「正直、山に慣れてない、慣れる気も無さそうだ」
その一言で、参謀たちの目が揃って上がる。
「岩場に向かない革靴に、歩き方も濡れた斜面で踏み込みが浅い。
槍は長すぎる。枝や木に引っかかるし、細道じゃ後列と絡む。
隊列は綺麗だよ。いかにも神聖国らしくね。でも山じゃ、その綺麗さがそのまま鈍さになる」
そこで一拍置く。
「山を知らぬ者の槍は、ここじゃただ枝に引っかかるだけの棒だ」
ブラウナー大佐が小さく頷いた。
「形式だけを持ち込んだ兵、か」
「そういうこと」
ケストナー少佐が地図の尾根筋を指でなぞる。
「ならば、高所優位を前提に包囲・分断を――」
「山図の上ならね」
フレイヤの声は乾いていた。
若い参謀の指が止まる。
「アタシらは飛べない。高いところから、風を使って滑るだけだ。
滑る先に次の高みがなけりゃ、ただ落ちる。
荷があれば沈むし、羽をやれば地面を歩くしかない」
レーヴェ少佐が横から静かに補う。
「日鴉族は飛行種ではありません。高所機動種です。
高さを失うと、機動力も失う」
フレイヤは地図の尾根と谷の線を指で叩いた。
「山があるなら、日鴉族は強い。
でも山を失くしたら、ただの的だよ」
ケストナー少佐はほんのわずかに息を呑んだ。
「……失礼した」
「いいよ。今覚えな」
フレイヤは地図を見たまま言う。
「山は紙みたいに平らじゃない」
今度こそ、部屋が静かになった。
バルトがそこで、初めて口を開いた。
「若いのは滑れる。だが運びながらは限界がある。
子どもや武器を背負えば距離が落ちる。負傷者を抱えればさらに落ちる。
山でやり合い続ければ、先に擦り切れるのはこっちだ」
低い声だった。
飾り気はない。
だから重い。
ブラウナー大佐が腕を組む。
「つまり、神聖国軍は山に慣れていない。
だが、山中で決戦してよいわけではない」
「そう」
フレイヤが返す。
「削れる。けど勝てるわけじゃない。
先にこっちが痩せ細る」
その言葉を聞いて、グライフェンタールが地図の北西から南東へ、さらに山の外の平野部へ指を動かした。
「なら、戦いの場所はこちらが決める」
参謀たちが顔を上げる。
「山で削り、平野で折る」
短い言葉だった。
だが、それだけで会議の骨が通った。
「神聖国軍は山に慣れていない。なら山中では行軍も兵站も痩せる。
山で決着はつけん。山では遅滞し、削る。
決戦は平野で我が軍が受ける」
ブラウナー大佐がすぐに頷く。
「損耗の場所を分けるわけですな。
山で兵站と歩みを削り、平野で主力を叩く。
理にかなっている」
工兵担当が紙を繰りながら言う。
「橋梁破壊、落石、導線選別、見張り線の再構築が要る」
伝令担当が続く。
「鐘と狼煙だけでは持ちません。
帝国側伝令線と接続し即効性、持続性を確保すべきでしょう」
レーヴェ少佐が言う。
「現状、でんといな日鴉族側の組・班・隊の運用は崩さないほうが反応速度を保てます」
フレイヤはそのやり取りを聞きながら、紙の上の山を見ていた。
そうだ。
山で全部を終わらせる必要はない。
全部終わらせようとするから、全部抱える。
抱えすぎたら、日鴉たちは飛べない。
削る。
遅らせる。
生き残る。
平野へ押し出す。
そのために戦う。
グライフェンタールが今度はフレイヤを見る。
「問題は、貴官らをどう立たせるかだ」
その言い方に、フレイヤは少しだけ眉を動かした。
「“立たせる”ね」
「“使う”よりはましだろう」
「まあね」
フレイヤは腕を組んだ。
「帝国式に綺麗に並べられたら、山じゃ死ぬよ」
「承知している」
即答だった。
「ゆえに山での運用は、貴官らの形を優先する」
レーヴェ少佐が別紙を開く。
「現状の聞き取りでは、日鴉族側は二人一組、五組で班、十班で隊。元フレイヤ隊古参を中心にまとまりがある」
「崩さないほうがいいね」
フレイヤが言う。
「組と班の顔見知りが切れると、山じゃ反応が遅れる」
バルトが短く補う。
「若いのは特に」
グライフェンタールが頷く。
「では枠だけ帝国式に借りる。
内側は日鴉族式のままでよい」
紙へ指を落とす。
「フレイヤ殿を大隊長格。
古参五名を中隊長格。
組・班・隊の単位はそのまま維持。
帝国側は補給、伝令、工兵、設営の連携のために兵を付す」
そこで、フレイヤはほんのわずかに目を細めた。
「大隊長、ね」
「不満か」
「偉そうだろ、その響き」
グライフェンタールは静かに言った。
「私も、かつては別の肩書きを背負っていた男だ」
その一言に、部屋がわずかに静まる。
「名前などただの道具に過ぎん。
要は、その名で何を動かすかだ」
フレイヤは眉を寄せたまま、何も言わない。
「実態として、もう貴官が頭だ」
「そういうのは、もっと向いてるやつが――」
「いない」
横からバルトが切った。
短い声だった。
フレイヤが振り向く。
「書類の上でも上に立て」
「バルト」
「少なくとも、地面じゃもうお前が一番上だ」
部屋が静かになった。
その一言には、慰めも励ましもなかった。
ただ、今まで山で起きていた事実だけが乗っていた。
フレイヤはすぐには口を開けなかった。
反論より先に、避難列、鐘楼、崖際、怒鳴り声、泣き声、全部が頭に浮かんだからだ。
皆、自分の声で動いていた。
嫌でも、それはもう事実だった。
「……そういうの、本人に言うかね普通」
ようやくそれだけ返す。
バルトは肩をすくめた。
「言わんと受けないだろ」
「当たり前だよ」
「だから言った」
お固い会議室での会話ではない。
でも、だからこそ腹に入る。
グライフェンタールが最後に問う。
「呼称はどうする」
兵站参謀が紙束をめくる。
「帝国軍の帳簿上は、西部方面軍麾下山岳猟兵補助隊――」
「長いね」
フレイヤが即座に切った。
部屋の空気がわずかに緩む。
グライフェンタールの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「現場では何と?」
フレイヤは一拍置いてから答えた。
「……日鴉族猟兵隊」
「よろしい」
即決だった。
「以後、西部方面軍麾下、日鴉族猟兵隊とする」
その瞬間、戦火の中で半ば自然発生していた名前が、初めて机の上で固定された。
難民の寄せ集めでもない。
ただの警備隊でも見張り衆でもない。
猟兵隊。
バルトが小さく息を吐いた。
フレイヤはそれを聞きながら、机の上の地図を見た。
避難のための地図ではない。
削るための地図だ。
グライフェンタールが結ぶ。
「方針は決まった。
日鴉族猟兵隊は山岳監視、導線破壊、遅滞、避難補助を主任務とする。
正面決戦は行わない。
山で敵を痩せさせ、平野へ押し出す。
帝国軍本隊はその時を受ける」
ブラウナー大佐が低く繰り返す。
「山で削り、平野で折る、ですな」
グライフェンタールは頷いた。
「ああ。戦場の形は、こちらが決める」
会議はそこで終わったわけではない。
その後も補給の話、縄橋の話、日鴉族の翼保護具、子どもと負傷者の区分、帝国伝令線との接続、砲兵との識別方法、細かい実務が山ほど続いた。
だが骨はもう決まっていた。
フレイヤは会議机の端に手をついたまま、紙の上の山を見下ろした。
もう、ただ逃がすだけじゃない。
今度は削る。
削って、生き残って、押し返す。
会議が終わって部屋を出ると、廊下の外では伝令がまた走っていた。
避難所ではたぶん、まだツチダが走っている。
カイラは忙しい顔のまま立っているだろう。
ルダは帝国兵怒鳴り、ゴルムは橋板を数え、若羽はまだ落ち着かない顔で弓弦を張っているはずだ。
受け入れられて終わりじゃない。
助けられて終わりでもない。
生き残った羽を、戦える形へ戻す。
それが次にやることだ。
フレイヤは最後にもう一度、西部山岳地帯の地図を振り返った。
死んだ尾根。
まだ返る鐘。
切った道。
残す道。
その全部を頭に入れて、踵を返す。
さあ、山に戻ろう。
勝手に入ってきた失礼な奴らを、日鴉族のやり方でもてなすために。




