Better Busy.
帝国側の避難所は、朝も昼も夜もなく騒がしかった。
火床の煙。煮出した湯気。濡れた布の匂い。薬草の匂い。汗と血と、焦げた羽根の残り香。
そこへ子どもの泣き声と、兵の怒鳴り声と、木槌の音が何層にも重なっている。
山の静けさとは、まるで違う音だった。
けれど、死の音ではない。
生きている者をどうにか繋ぐための音だ。
フレイヤは避難所の端に立ったまま、その音を聞いていた。
粗く張られた天幕。丸太と板を渡した寝床。岩場のくぼみを利用した火床。運び込まれる水桶。包帯。鍋。薪。
足りないものだらけなのに、足りないなりに回しているのがわかる。
帝国兵は不慣れだった。
日鴉族の翼幅を読めない。
寝かせる向きを間違える。羽根の下へ布を噛ませることを知らない。
子どもを抱くにも、どこを支えればいいのかわからない。
それでも、やめない。
叱られたらやり直す。
違うと言われたら直す。
怒鳴られても顔をしかめるだけで、手は止めない。
それどころか、みんな几帳面に手順を書いて、残して、条文にしようとしている。
それだけで、いまは十分だ。
「フレイヤ!」
呼ばれて振り向くと、ルダが布束を小脇に抱えたままこっちへ来るところだった。いつもより歩幅が荒い。忙しいときの歩き方だ。
「寝床、また狭い」
「何回目だい、それ」
「三回目」
「じゃあ、あと三回は言いな」
「言ってるよ!」
ルダはそこでようやく少しだけ笑った。
笑えているなら、まだ大丈夫だ。
「今度はちゃんと翼のぶん空けてると思ったんだけどねえ。広げると足りない」
「人間は、自分の背中からあれだけ伸びるもんがないからね。想像が追いつかないんだろ」
「こっちは羽を潰れるんだよ、冗談ぬきで」
「ならもっと怒鳴りな。あんた向きの仕事だ」
「言われなくてもやってる」
そのままルダは踵を返しかけて、ふと思い出したように言った。
「あと、あの帝国のくたびれた男」
「くたびれた男?」
「走り回ってるやつ。髪がぼさぼさで、寝てない顔してる」
フレイヤは少し考えて、すぐにわかった。
「ツチダか」
「そう、それ。あいつに言ったら、寝床の幅すぐ変わった」
「そりゃそうだろうね」
「誰なんだい、あれ」
フレイヤは鼻で笑った。
「変なやつだよ」
「見りゃわかる」
「困ったらあいつに言いな。羽根のことだろうが寝床のことだろうが、面倒ごとは全部抱えて走るたちだ」
「便利な男だねえ」
「便利って言うと気の毒な気もするけど、まあだいたい合ってる」
ルダはそれを聞いて頷き、今度こそ寝床の列へ戻っていった。
フレイヤはその背を見送りながら、避難所の中央を見る。
ツチダは、本当に走り回っていた。
工兵らしい男に板の寸法を伝えたかと思えば、今度は縫製役へ布を回し、その次には子どもを抱えた母親の前で何かをしゃがんで聞いている。
帝国兵とも日鴉族とも、相手が誰でも止まらない。
眠っていない顔だ。
疲れている顔だ。
でも、止まっていない顔でもある。
なるほど、ああいうのを理の国の人間って言うのかもしれないと、フレイヤは思った。
机の上で命令だけ飛ばすんじゃない。
現場の面倒ごとに、自分の足で突っ込んでいく。
面倒な種類は違うが、働き方としては山の者に近い気もした。
「頭」
横から声がした。
バルトだった。片手に木椀を持っている。湯気の立つ薄いスープだ。
匂いだけで塩気が薄いのがわかる。だが、いまは贅沢を言う段階じゃない。
「食っとけ」
「いらない」
「食っとけ」
言い方が変わらない。フレイヤは椀を受け取った。
一口すすって、顔をしかめる。
「薄い」
「生きてるだけましだ」
「誰の台詞だい」
「お前がよく言う」
「嫌な跳ね返り方するね」
バルトは少しだけ肩をすくめた。
「カイラは」
フレイヤが問うと、バルトは顎で一方向を示した。
避難所の外れ、補給の仕分け場のほうだ。
見ると、カイラは木箱を運んでいた。
かなり重そうな箱だ。若羽ふたりに任せてもいいはずなのに、自分で片側を持っている。
顔色は相変わらずひどい。目も死んでいる。だが、動きだけは止まらない。
運んで、下ろして、次を持つ。
黙々と。
ひたすら。
「忙しい方が、気が紛れるんだろうね」
フレイヤが言うと、バルトは短く返した。
「止まると考える」
「だろうね」
「戻ると言い出すよりはましだ」
「それは、本当に」
フレイヤは椀を持ったまま、少しだけそちらを見ていた。
カイラは弟を失った。
止まれば、その事実がすぐそこに戻ってくる。
だから動く。
それしかないうちは、動かせておけばいい。
避難所の端で、若羽が何かを言い争っている声がした。
行ってみると、帝国兵が日鴉族の子どもに外套を着せようとして困っていた。翼の出る場所が合わないのだ。子どもは半分泣いていて、兵は半分焦っている。
「何してんだい」
フレイヤが言うと、帝国兵がぎょっとした顔で振り向いた。
「いや、その、防寒具を」
「そりゃ見ればわかるよ」
「……翼が、通らない」
「当たり前だろ」
フレイヤは外套をひったくるように受け取り、背の縫い目を見る。
裂けばいい。羽根の根元に合わせて紐を通せば、最低限はどうにかなる。
「あんた、裁縫箱持ってるかい」
「い、いまは」
「ないんだね。ならツチダ探しな」
「ツチダ殿を?」
「そうだよ。困ったらあいつに全部言いな。寝床が狭い、布が足りない、翼が通らない、子どもが泣く。ああいうのは、あいつの仕事だ」
帝国兵は半信半疑みたいな顔をした。
「本当に……」
「走り回ってるぼさぼさ頭見えないかい。あれだよ」
兵がそちらを見る。
ちょうどツチダが、縫製役と工兵と医療兵に同時に呼ばれて、全部に返事しながら走っていた。
「あれか……」
「そうだよ。顔はくたびれてるけど、話は通る」
兵は少しだけ気圧された顔をしてから、こくんと頷いた。
「わかった」
「よし。行きな」
兵が走っていく。
フレイヤは外套を子どもに掛け直してやった。泣いていた子どもが、少しだけ静かになる。母親らしい若い女が、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいいよ。ちゃんと食べて、羽を冷やすな」
女はまた頭を下げた。
フレイヤはそれ以上何も言わず、そこを離れた。
避難所の一角では、工兵が板を切っていた。
別の一角では、背を裂いた外套に紐を通している。
どこかでまたルダが怒鳴っている。
ツチダは相変わらず走っている。
バルトは見回りに出た。
ゴルムはすでに橋板の本数を数えていた。
そしてカイラは、まだ箱を運んでいた。
フレイヤは椀の残りを飲み干して、空になったそれを近くの樽の上へ置いた。
「頭!」
今度は若羽だった。顔に煤がついている。
「宣戦布告、だそうです!」
フレイヤは振り向く。
「どこから」
「帝国の伝令です!神聖国の要求に対して、正式に!」
一瞬だけ、避難所の空気が止まった。
止まって、すぐにまた動く。
水を運ぶ者。板を担ぐ者。負傷者を支える者。
現場は宣戦布告で止まってくれない。
けれど意味は重かった。
これまではただの、曖昧な地帯の焼き討ちだった。
もう違う。
ほんとうに戦争になる。
フレイヤは小さく息を吐いた。
「そうかい」
それだけ言って、若羽を下がらせた。
正式な戦争。
なら、自分たちも、正式に数えられる側へ入る。
難民でもなく、避難民でもなく、それだけでは終わらない。
終わらせたくない。
そのとき、さっきの帝国兵が本当にツチダを引っ張ってきた。
「この方がツチダですね!」
「何が何ですか!?」
ツチダは走ってきたまま、息も整えずに言う。近くで見ると本当にくたびれていた。目の下が少し落ち、髪も乱れている。それでも目だけは死んでいない。
フレイヤは外套を指で示した。
「日鴉の子ども用。翼の根元が通らない。背を裂いて紐を通しな。寝るときは羽根の下に布を噛ませないと潰れる」
ツチダは一瞬で外套をひっくり返し、縫い目を見た。
「あー、はい、なるほど。これだと当たるか。
背中のここ、V字に開いて紐留めにしたら逃がせますね。
あと寝床、幅足りてないですよね?」
「三回言った!!今四回目だ!!」
ルダが遠くから怒鳴る。
ツチダが振り返って、半分泣きそうな顔で叫び返した。
「いまやってます!」
フレイヤは思わず鼻で笑った。
ツチダはその顔のまま、こっちを見る。
「なんですか」
「いや。ちゃんと拾うね、あんた」
「拾ってるんじゃなくて、降ってきてるんですよ面倒が!」
「そりゃ気の毒だ」
「気の毒だと思うなら、あとで日鴉族の寝方と羽根の癖、まとめて教えてください」
「あとで、じゃない。今困ってるやつから全部アタシに振んな。
――いや、違うね」
フレイヤは少しだけ考えて、言い直した。
「日鴉族の連中には伝えとく。困ったらツチダに言えって」
ツチダが一瞬だけ固まる。
「待ってください、それ、全部来ません?」
「来るだろうね」
「いやそれ困る」
「困ってるのはこっちも同じさ」
ツチダは頭を抱えかけて、でもすぐに手を下ろした。
「……わかりました。来た分だけ処理します。
ただ、今夜のうちに寝床の寸法と、翼の扱いと、子ども優先の防寒の話、まとめてください」
「いいよ」
「本当ですか」
「困ったらあんたに全部言えって流すんだから、それくらいはするさ」
ツチダは何とも言えない顔をしたあと、深く息を吐いた。
「なるほど。そういう理屈……」
「嫌かい」
「嫌じゃないです。まあ、忙しいだけです」
「じゃあ同じだ」
その会話の向こうで、カイラが木箱を運び終えたところで足を止めた。こちらを見ている。顔色はまだ悪い。けれど、さっきまでみたいな空虚な目ではなかった。
忙しいほうが、気が紛れる。
たぶん本当にその通りなのだろう。
それでいい。今はそれで。
そのとき、さっきの帝国将校がまた現れた。
「勅命により、辺境伯閣下が正式に西部方面軍の司令官となられる」
声は短く、重かった。
「日鴉族の残存戦力についても、現場の頭目と会議を行う。
フレイヤ・シルヴァレイト、後で上がれ」
フレイヤは頷いた。
ついに、来た。
受け入れられて終わりじゃない。
助けられて終わりでもない。
ここから先、生き残った羽をどうまとめるか。
どう戦える形へ戻すか。
それを決める段に入る。
フレイヤは山のほうを見た。
見えない。
だが、煙はまだそこにある。
「……まだ終わってない。終わらせるもんか」
小さく言う。
誰に向けたわけでもない。
自分にか、死んだ者たちにか、山にか。
そしてフレイヤは、ツチダへ顎をしゃくった。
「あとで寝床と羽根の話、まとめるよ」
「お願いします」
「もうお前に頼れと流した。日鴉の情報網は早いよ、覚悟しな」
「ぜんっぜん嬉しくないですねえ!」
フレイヤは笑った。
避難所の喧噪の中で、その笑いはひどく小さかった。
でも、確かに生きている側の音だった。




