The Receiving Line.
帝国側の尾根へ出たとき、フレイヤはようやく、風の匂いが少し違うことに気づいた。
山の冷えた匂いに、煤と血と、煮えた湯の匂いが混じっている。
人が大勢いる匂いだった。
尾根を越えた先には、即席の受け入れ線が広がっていた。
柵と呼ぶには粗い杭列。天幕と呼ぶには半端な布張り。
岩場のくぼみにたき火を並べ、板と丸太を渡しただけの寝床が続く。
荷車から降ろされた布束、樽、水桶、包帯、薬箱。どれも足りているとは言えない。
だが、足りないなりに“受け入れる”形にしようとしているのがわかった。
帝国兵がいた。
重い外套を羽織った兵たちが、谷道から上がってくる日鴉族を誘導し、湯を運び、子どもを抱き上げ、負傷者を寝床へ回している。
動きはぎこちない。
日鴉族の体格も羽根の癖もわかっていないのが見て取れる。けれど、追い払う気配はどこにもなかった。
「こっちだ! 歩ける者は左、重傷は右へ!」
「水を回せ! 先に子ども!」
「おい翼を踏むな!寝かせるとき広げる場所を取れ!」
怒鳴っているのは帝国兵だ。
その怒鳴り方が、日鴉族相手にありがちな侮りではないのが、フレイヤには少し意外だった。
ただ、必死に回している。
それだけで十分ありがたかった。
崖縁から順に滑り出してきた若羽たちは、対岸の高みに降りてから、また短い斜面を歩いてこの尾根まで上がってくる。
日鴉は、自由に飛びまわれるわけじゃない。
高い場所から風を使って遠くへ行けるだけだ。
だから帝国側へ入ったからといって、そこで終わりじゃない。
降りた先の足で、さらに歩く必要がある。
子どもを背負った若羽が、膝から崩れた。
その背から、帝国兵がすぐに子どもを抱き取る。
「水! 布も!」
「羽根に触るな、肩の布ごと支えろ!」
別の兵が怒鳴る。怒鳴られた若い兵士が、慌ててやり直す。ぎこちないが、学ぼうとしている。
フレイヤはそれを見ながら、足を止めた。
帝国兵のひとりがこちらへ走ってくる。階級章は低い。だが、顔つきがもう“現場の顔”だった。
「日鴉族の、指揮役か」
「そう見えるかい」
「見える」
短く返されて、フレイヤは少しだけ目を細めた。
「負傷者は」
「軽傷が多い。重いのは後ろだ。翼をやってるのが何人かいる」
「寝床を空ける。子どもは先に火へ寄せる。大人はあと、でいいか」
「助かるよ」
「礼は後でいい。まだ来るんだろ」
フレイヤは頷いた。
「ああ。まだ来る」
兵はそれ以上聞かなかった。
聞くべきことと、あとでいいことの線引きができている顔だった。
「何人でもいい。とにかくこちらに回せ」
それだけ言って、すぐに負傷者側へ戻っていく。
ありがたいことに、帝国は先に入っていた日鴉族たちを現場判断で受け入れていた。
完璧じゃない。物資も足りないし、体格差も翼の扱いもわかっていない。
けれど、それでも追い返さず、できるだけ助けようとしている。
それだけで、いまは十分だった。
ルダがすでに負傷者の列へ入っている。
「こっちは寝かせるとき翼の下に布を噛ませな!圧迫すると悪化するよ!」
帝国側の医療兵らしき男が、慌てて頷く。
「了解!」
「了解じゃない、手を動かしな!」
その隣で、帝国兵二人が急ごしらえの寝床を作り直していた。板の幅が狭い。
日鴉族は仰向けで羽を押しつぶすと傷む。そこへルダが容赦なく指示を飛ばす。
「もっと開けろ!翼幅見りゃわかるだろ!」
「これでどうだ!」
「まだ狭い!」
帝国兵が本気で板をずらし始める。
その様子を見て、フレイヤは少しだけ胸の奥が緩むのを感じた。
神聖国なら、たぶんこうはしない。
助けるより先に、どう扱うべきかを語り始める。
帝国は違う。まずやる。形は後から合わせる。
理の国ってやつは、時々こういうところで底が見える。
「頭」
バルトが隣に降りた。
外套の肩が焦げている。剣も血と煤で汚れていたが、本人は無傷に見えた。
「何人残った」
「数え直し中。若羽はまだ揃ってない」
「カイラは」
バルトは少しだけ視線を逸らした。
「いる」
「……そりゃよかった」
声が、少し乾いた。
フレイヤは辺りを見回す。
カイラは受け入れ線の端、岩壁の陰にいた。座っているのでも立っているのでもない、中途半端な姿勢で、ただ膝を抱えて前を見ている。
目は開いている。だが、焦点が合っていない。
手には、まだ血がついていた。
自分のではない血だ。
フレイヤは何も言わず、そちらへ歩いた。
近づいても、カイラは顔を上げなかった。
近くには誰もいない。
たぶん皆、近づけないのだろう。
ルダは忙しい。バルトは無理に触らない。帝国兵には何があったかもわからない。
だからそこだけ、妙に空いていた。
フレイヤは岩壁に背を預けて、その隣に立った。
しばらく、何も言わない。
遠くで怒鳴り声がする。
子どもが泣く。
火床の薪が爆ぜる。
帝国兵が桶を落として、誰かに怒られる。
生きている音だ。
けれどカイラの周囲だけ、そこから切り離されていた。
「……死んだ」
先に言ったのは、カイラだった。
掠れた声だった。
「知ってる」
「見えた」
「うん」
「見えてたのに」
そこで初めて、カイラが顔を上げた。
「見えてたのに、助けらんなかった」
フレイヤは返事をしなかった。
返せる言葉なんて、なかった。
弟を失ったばかりの人間に、「仕方なかった」なんて言えるほど、フレイヤは鈍くない。
仕方なかったとしても、痛みは消えない。
正しかったとしても、空いた場所は埋まらない。
カイラは笑うみたいに息を吐いた。
「アタシさ」
「うん」
「今すぐ戻れば、まだ刺したやつ一人くらい殺せるかなって考えた」
「一人じゃ済まないだろうね」
「だよね」
頬が歪む。泣く前の顔だ。
でも涙はまだ落ちなかった。
「……リュカ、鐘番だけは真面目でさ」
ぽつりと出る。
「他はガキだったのに。鐘と伝令だけは、ちゃんとやるんだよって、いつも」
「知ってる」
「うるさく言いすぎたかな」
「言わなくても気にしてたろ、あんた」
「気にしてた」
カイラは両手を握りしめた。
「すげえ気にしてた。うるさいくらい。
山刀の研ぎも、綱の結びも、鐘の打ち方も、全部。
なのに最後、あたし何もできなかった」
そこでようやく、声が崩れた。
「何にも、できなかった……」
フレイヤは少しだけ目を閉じた。
言葉を選ぶ時間がいる。
下手な慰めは逆に人を壊すから。
「できなかったことは、あるね」
ゆっくり言う。
カイラの肩が揺れる。怒るかと思ったが、怒らなかった。
「でも、あんたが生きてる」
「……」
「生きて残ったやつが、生きて、続きをやるしかないんだよ」
フレイヤは岩壁から背を離した。
「弟を取り返すのも。刺したやつを殺すのも。山を取り返すのも。
死んだら、そこで終わりだ」
カイラは唇を噛んだ。
「綺麗事に聞こえるかい」
「ちょっと」
「そりゃよかった。アタシも綺麗事だと思ってる」
その一言で、カイラの喉が少しだけ鳴った。笑ったのか、泣くのを止めたのか、自分でもわからないような音だった。
フレイヤはそのまま続ける。
「でも綺麗事でも、今はそれで立つしかない。
あんたが死んだら、リュカのことまで本当に終わる」
カイラは何も言わない。
ただ、膝を抱えていた腕が少しだけ緩んだ。
フレイヤはそれを見て、そこで初めて視線を外した。
受け入れ線の向こうでは、帝国兵が日鴉族の子どもに水を渡していた。
翼を押さえそうになって、横からルダに叱られている。叱られながら、ちゃんとやり直している。
その近くでは、工兵らしき男たちが布を切っていた。日鴉族の翼を包めるように、外套の背を裂いて紐を通している。
粗い。雑だ。見た目はひどい。けれど、必要なことを先に形にしようとしていた。
フレイヤはそれを見て、小さく息を吐いた。
「ありがたいね」
カイラが顔を上げる。
「何が」
「帝国だよ」
フレイヤは顎で受け入れ線を示した。
「完璧じゃない。雑だし、遅いし、こっちのこともわかってない。
でも、本気で助けようとしてる」
「……」
「神聖国なら、こうはならない」
カイラはしばらく黙っていた。
それから掠れた声で言う。
「助けてもらうだけの雛鳥になるのは、やだ」
その一言に、フレイヤは頷いた。
「アタシもだよ」
だからこそ、生きて残らなきゃいけない。
ここで保護されて終わるんじゃない。
ここからもう一度、山の日鴉として立たなきゃならない。
そのための時間を、帝国は現場判断で買ってくれている。
なら使うべきだ。遠慮じゃなく、意地として。
「頭!」
呼ばれて振り返る。
さっきの現場顔の帝国兵が戻ってきていた。今度は後ろに、もっと上の階級章をつけた男がいる。
年嵩で、外套の上からでもわかるほど無駄のない立ち姿。
伝令将校か、方面軍の補佐役だろう。
「辺境伯閣下のところまで上げる報告をまとめる。
いま動ける日鴉族の数と、山にまだ残ってる可能性のある人数を出せるか」
フレイヤは即座に立ち上がった。
「正確じゃないよ」
「正確でなくていい。いま欲しいのは現場の数だ」
その物言いがありがたかった。
帳面のための数じゃない。
動くための数を欲しがっている。
フレイヤは一度だけカイラを見た。
「立てるかい」
カイラは数秒だけ黙ってから、膝に手をついて立ち上がった。まだ足元は怪しい。けれど、立った。
「……立つよ」
「よし」
フレイヤは帝国将校の前へ歩く。
「現時点で帝国側へ入った日鴉族は、避難民を含めてかなりの数いる。
ただ、まだ山に残ってると思う。
鐘が返ってた山、潜伏してる可能性のある谷、詰所の崩れた場所。
拾い切れてない」
将校が頷く。
「敵の規模は」
「北西の山口から入った浄化師団本隊に、前衛が広く散ってる。
鐘楼ひとつ、神聖魔法で焼かれた。山の喉を直接潰しにきてる」
「……なるほど」
横にいた現場兵がわずかに顔をしかめた。
将校はすぐに問いを重ねる。
「このまま山中で各個に踏ん張れば」
「削られて終わる」
フレイヤは即答した。
「山を知ってても、数と神聖魔法で押されれば、詰所ごと消される。
今のままじゃ全滅の可能性がある」
言いながら、自分の喉が乾くのがわかった。
これはつまり、認めることだ。
今までのやり方ではもう持たないと。
個々の山ごと、残った見張りごと、ばらばらに踏ん張っても終わると。
将校は短く息を吐いた。
「再編が要るな」
「要る」
フレイヤは頷いた。
「生き残りを集めて、山で戦える形にし直す。
警備隊だの見張り衆だのって、バラけたまんまじゃ、もう無理だ」
「わかった。辺境伯閣下へそのまま上げる」
その言葉で、フレイヤはようやく、次の段へ足がかかった気がした。
ただ逃げてきたんじゃない。
ここから先、どう戦うかを作る側へ移る。
背後で、帝国兵が子どもの羽を包む布を持って走っていた。別の兵が湯を運び、工兵が外套の背を裂いて紐を通している。ルダが怒鳴り、ゴルムが橋板の耐久を計算し、バルトはもう次の移動線を見に行っていた。
カイラはまだ青い顔のままだったが、それでも受け入れ線の端で若羽を呼び止め、何か指示を出している。崩れきってはいない。まだ立てる。
フレイヤは山のほうを見た。
見えない。尾根の向こうで、もう煙だけが上がっている。
「まだ終わってないよ」
小さく言う。
誰に向けたわけでもない。
山にか、自分にか、死んだ者たちにか。
「次の、一歩だ」
フレイヤは、帝国側が用意した粗い机の上へ山図を広げた。




