Golden Blast.
数日経っても、山はまだ終わらなかった。
避難民の第一波は帝国側へ流した。子どもも、年寄りも、飛べない者も、どうにか南東へ落とした。だが、それで終わりではない。
鐘が返ってきた山はまだある。返ってこなくなった山にも、遅れて逃げた者や、岩陰に潜って息を繋いでいる者がいるかもしれない。
だからフレイヤは、まだ山に残っていた。
南へ下りながら、残った尾根の見張り線を薄く保ち、返ってきた鐘の山へ小さい組を出し、伝令を飛ばし、生き残りを拾う。山を守っているというより、山を戸締まりしている感覚のほうが近かった。
仮の詰所は、南寄りの尾根に組まれていた。
崖の突端に木を組んで作った小さな鐘楼と、風除けの板壁、岩肌に寄せた火床、そこへ縄で繋いだ三つの見張り台。元は荷の中継と鐘の受け渡しに使っていた場所だが、いまはそれがそのまま、日鴉族猟兵隊の南方仮詰所になっていた。
朝とも昼ともつかない薄い光の下で、木組みの鐘楼がきしきし鳴る。
風があるからだ。
南へ下ったぶん寒さは少し緩んだが、その代わりこの尾根はよく鳴る。板壁も、鐘の支柱も、張った縄も、風を受けるたびに小さく軋んだ。
フレイヤはその音を聞きながら、鐘楼の脇に立っていた。
山図はもう何度も広げ閉じしすぎて、折り目のところが白く擦れている。そこへ新しい印が増えていた。返ってきた鐘の場所。返らなくなった場所。拾えた者の数。死体しかなかった詰所。橋を落とした谷。もう使えない尾根道。
消していくための地図みたいだった。
「北の二組、戻りました」
言ったのは、鐘楼の下にいた若羽だった。声変わりの途中みたいな、まだ少し高い声だ。疲れているのに姿勢だけはやたらと真面目で、その感じがかえって若さを目立たせる。
カイラの弟、リュカだ。十七。まだ完全に大人の顔ではないが、若羽の中では頭が回るほうで、鐘番と伝令の受け渡しを任されている。姉に似て気が強く、けれど怒鳴り合いになると必ず最後は負ける。
「何人」
「生きてたのは三人。うち一人は羽をやってて、自力では滑れません」
「死体は」
「……九」
フレイヤは頷いた。
驚く段階は、もう過ぎていた。
「南の谷へ回しな。ルダの列に混ぜる」
「はい」
リュカは返事をして、すぐに鐘楼の中へ身を引いた。吊られた鐘の綱の具合を確かめ、風見布をひとつ直し、そのまま次の見張り台へ合図を送る。手際は悪くない。むしろ年のわりにはいい。
その背中を見て、木壁に寄りかかっていたカイラが鼻を鳴らした。
「無理してんの丸わかりなんだよ、あいつ」
「そりゃ無理もするだろ」
フレイヤは山図から目を上げずに言った。
「姉が姉だからね」
「なんだそれ」
カイラは不機嫌そうに眉を寄せた。
数日前の避難列で怒鳴り倒していたときより、顔色は悪い。寝ていないのだろう。髪も羽根も少し乱れている。だがそれでも武器の手入れだけはしていて、腰の山刀は鈍っていなかった。
「子ども扱いすんなって顔してる」
フレイヤが言うと、カイラは鐘楼の中にいる弟をちらっと見た。
「子どもだろ、まだ」
「十七だよ」
「十七なんてガキだ」
「二十四も十分若い」
「フレイヤ、喧嘩売ってんの?」
「売ってないよ。朝から面倒くさいねえ」
カイラは舌打ちした。
けれど、その視線はやっぱり弟のほうへ戻る。見ている。ちゃんと見ている。気にしていないふりをしても、何かあれば真っ先に飛び出すだろうとわかる視線だった。
フレイヤはそれ以上は言わなかった。
山に残る者たちは、みんな少しずつ余計なものを削られている。眠りも、食べ物も、会話の飾りも。だから家族の距離感くらいは、そのままにしておいてやったほうがいい。
火床のそばでは、ゴルムが若いのを相手に縄の掛け方を見せていた。
「違う。そう結ぶと濡れたときに噛むだろ」
「でも昨日は――」
「昨日は昨日だ。今日は風が強い」
太い指で縄を解いて、結び直す。木材の切り口、支柱の傾き、風の通り道。ゴルムは相変わらずそういうものばかり見ている。敵より先に地形を読む男だ。
「東の橋板、あとどれくらい持つ」
フレイヤが声をかけると、ゴルムは顔も上げずに答えた。
「半日」
「短いね」
「昨日までなら一日って言った」
「今日は?」
「人が多い。荷も多い。踏み方が荒い。あと風が変わった」
ようやくこちらを見て、短く付け足す。
「半日だ」
「じゃあ半日で全部流す」
「そうだ」
その横を、ルダが負傷者に肩を貸しながら通っていった。
「そっちは?」
フレイヤが問うと、ルダは息も乱さず答える。
「飛べないのが十七。歩けるけど遅いのが二十くらい。熱出してるのが三人。翼膜裂いてるのが二人。
子どもは数え直しだよ。次から次へ増えるんだから」
「減るよりましさ」
「減らないように働きな」
ルダはそう言って、そのまま若い母親に水を飲ませ始めた。
詰所は小さい。
でも、山の残り火みたいにまだ機能している。
鐘が鳴れば返す。
返ってきたら拾う。
人を流す。
道を切る。
残れる場所を削って、残るべき命を南へ落とす。
その繰り返しだ。
フレイヤは鐘楼の梁を見上げた。
粗い木組みだ。急造だから仕方ない。もともとこの場所は長居するための詰所じゃない。鐘を一時的に受け、合図を分け、荷を捌いて尾根を渡すための場所だ。戦争向けじゃない。
それでも今は、この小さな鐘楼が南の山々をつなぐ喉になっていた。
風見布が鳴る。
鐘の綱がわずかに揺れる。
山のどこかで、まだ誰かが生きている合図を待っている。
リュカが鐘楼から顔を出した。
「西南の見張り台、返答遅れてます」
「何拍」
「三拍」
フレイヤは山図に目を落とした。
三拍ならまだおかしくない。風向き次第で音は遅れる。詰所の位置もある。だが、いまはその小さな遅れひとつが喉に引っかかる。
「待つ」
「はい」
リュカは引っ込んだ。
その横顔を見て、カイラがぼそっと言う。
「待つ、で待てる顔じゃないだろ」
「待てない顔で待つのも仕事だよ」
「嫌な仕事だね」
「戦って死ぬよりはましさ」
カイラが何か言い返しかけて、やめた。
代わりに鐘楼の柱を軽く蹴る。
「リュカ!」
「なに」
「綱、絡ませるなよ」
「絡ませるほど下手じゃない」
「この前絡ませただろ」
「あれは風が急に――」
「風のせいにすんな」
鐘楼の中から、リュカのむっとした顔が覗いた。
「姉貴こそ、槍避けきれなくて肩切ってたじゃん」
「は?」
「見たし」
「てめえ」
「見たって言ってんだろ」
フレイヤは思わず鼻で笑った。
カイラが振り返る。
「何笑ってんの」
「似た者きょうだいだねえと思ってさ」
「どこが」
「うるさいとこ」
「最悪」
「聞こえてるぞ」
鐘楼の中からリュカが言う。
「それも似てる」
今度こそ、カイラが本気で睨んだ。
でも怒鳴らなかった。
怒鳴れば、少しだけいつもに戻ってしまう気がしたからかもしれない。
フレイヤはそのやり取りを横目に見ながら、山図を畳んだ。
数日で、ずいぶん静かになった。
避難民が抜けたからだ。
死んだからでもある。
山は広いのに、残る音はどんどん減っていく。
その静けさが嫌だった。
遠くで、鐘が鳴った。
南東だ。
かん、と乾いた一打。
少し遅れて、もう一打。
全員の視線がほんの少しだけそちらへ向く。
かん。
三打目が返る。
ルダが小さく息を吐き、ゴルムが縄から手を離した。ほんのそれだけの変化だが、それがいまの詰所にとっては十分すぎる安堵だった。
「まだ生きてる」
誰が言ったのか、フレイヤにはわからなかった。
でもその言葉は、どこにも嘘がなかった。
フレイヤは鐘楼の脇へ歩いた。
木の柱に手を触れる。朝よりは少し温んでいる。風はまだ冷たい。南へ下ったぶん柔らかくはなったが、それでも指先の荒れは隠せない。
ここも、長くは持たない。
なんとなくそう思った。
理由は説明できない。ただ、山に長くいると、木の鳴り方と風の当たり方でわかることがある。持つ場所と、もう死にかけている場所。鐘が返るか返らないかの一拍みたいに、言葉にならない違和感がある。
「フレイヤ」
バルトが低く呼んだ。
「なんだい」
「南からの列、次で最後だ」
「拾えた数は」
「まだ数えてる」
「そう」
それで終わりだった。
数字はあとでいい。
先に流す。
流せるうちに。
詰所の上を風が抜ける。
鐘楼の木組みが、きし、と鳴った。
リュカが綱の位置を変えようと、鐘の脇へ半歩寄る。
カイラが「気をつけろ」と言いかける。
フレイヤが次に返ってくるはずの鐘の方向へ目をやる。
その瞬間だった。
最初に来たのは、音ではなかった。
光だ。
鐘楼の木組みの向こう、空気そのものがひび割れるみたいに、金色の煌めきが走った。朝でも昼でもない、妙に澄みすぎた色だった。夕焼けにも似ているのに温かさがない。きれいなはずなのに、見た瞬間に背筋が冷える。
フレイヤの喉が、反射で叫んだ。
「散れ!」
叫ぶより早く、金の光が鐘楼全体を呑み込んだ。
燃える、というより――
そこにあった形を“正しく消す”みたいな火だった。
木組みの輪郭が、金に縁取られて一瞬だけ浮かぶ。次の瞬間には、支柱も、鐘の綱も、見張り台へ伸びる縄も、全部まとめて内側から爆ぜた。
轟音が遅れて来た。
空気そのものが殴りつけてくる。板壁が吹き飛び、火床が散り、梁が裂ける。フレイヤはとっさに羽を半ばひらいて身を捻り、飛び退いた。熱い。炎というより、光そのものが肌を削るみたいな痛みだった。
地面を転がって、すぐに起きる。
「ルダ!」
「生きてる!」
「ゴルム!」
「まだ死んでねえ!」
「バルト!」
「こっちだ!」
声は返る。
だが足りない。
鐘楼の前にいたはずの小さな影が、見えない。
「リュカ!」
カイラの声が裂けた。
フレイヤは振り返る。
金の炎に包まれた鐘楼の上部が、ゆっくり傾いでいた。鐘そのものが片側へ落ち、焼けた綱が空中で蛇みたいにうねる。そのすぐ脇、崩れた足場の端に、リュカがいた。
飛び出そうとしていた。
片足をかけ、体を前へ投げる。
本来ならそこから崖へ出て、谷風を掴めたはずだった。
だが、遅かった。
爆ぜた梁の破片が、右の羽をまともに打った。乾いた、嫌な音がした。骨まで届く音だった。
リュカの体勢が崩れる。
ひらいたはずの羽は、風を掴まない。掴める角度じゃない。傷んだ片翼が空気を逃がし、若い体はただ前へ落ちた。
「姉貴――!」
その声だけが、やけにはっきり聞こえた。
次の瞬間、リュカの体は鐘楼の下の斜面へ叩きつけられた。
落ちた場所が悪かった。
崖の途中じゃない。
詰所の下へすでに回り込んでいた浄化師団の前衛、そのすぐ手前だった。
白金の縁取りがついた槍が、迷いなく突き出される。
羽を折られ、立ち上がりきれない日鴉族は、そこではもうただの的だった。
一本。
一本。
また一本。
リュカの体が跳ねる。
「リュカッ!」
カイラが飛び出した。
ほとんど反射だった。考える前に足が出ていた。山刀を抜き、崩れた鐘楼の残骸を蹴り越え、弟のほうへ一直線に出る。
フレイヤも動いていた。
走るんじゃない。掴みに行く。
あれは間に合わない距離だ。
あそこでカイラまで落ちれば、次は姉弟揃って終わる。
「カイラ、戻れ!」
「離せぇッ!」
フレイヤの手がカイラの肩布を掴む。振り払われる。もう一度、今度は腕ごと引く。カイラの顔はぐしゃぐしゃだった。怒りと恐怖と、理解したくない現実が全部一度に剥き出しになっている。
「リュカが――!」
「見えてる!」
「まだ――まだ息が――」
「ない!」
フレイヤは怒鳴った。
怒鳴って、そして自分でもその言葉に喉が裂けそうになった。
だが言うしかない。
あの場で見えているものを、言葉にして止めるしかない。
「今行ったらお前も死ぬ!」
「放せッ!」
カイラが本気で肘を振った。フレイヤの頬をかすめる。痛みより、熱い。近くでまた金の火が木組みに走り、梁が崩れ落ちる。
その横から、バルトが割って入った。
無言でカイラの腰を抱えるように引き剥がす。カイラは半ば獣みたいに暴れた。蹴る。肘を打つ。叫ぶ。だがバルトは放さない。
「離せ!
離せよ!
あいつ――!」
「見ろ!」
今度はバルトが怒鳴った。
短く、重い声だった。
カイラの動きが一瞬だけ止まる。
斜面の下で、浄化師団の兵が槍を引き抜いていた。リュカの体はもう動かない。
羽の裏側に、金と赤がいやに鮮やかに散っている。
あれは、もう助からない。
助けるとか助けないとかの段階を、すでに越えている。
カイラの喉から、変な音が漏れた。叫びでも嗚咽でもない、ただ切れた音だった。
「……っ」
フレイヤはその顔を見たくなかった。
けれど目は逸らせなかった。
鐘楼の上では、まだ金の炎が木を食っている。神聖魔法の火は赤くない。なのに、燃えた木の匂いだけは同じように臭い。鐘が傾ぎ、支柱が軋み、次の瞬間には音を立てて片側へ落ちた。
鐘楼が、死んだ。
「頭!」
ゴルムの声が飛ぶ。
フレイヤが振り向くと、南側の見張り台から白い影がいくつも登ってくるのが見えた。浄化師団本隊じゃない。だが前衛としては十分な数だ。槍。盾。祈りの印を下げた外套。山には不向きなはずの連中が、数で斜面を埋めてくる。
「もう来る!」
「わかってる!」
フレイヤは答えた。
答えた瞬間に、選択肢が消えたのがわかった。
ここはもう終わった。
鐘楼が焼け、連絡線が切れ、前衛が回り込んだ時点で、この詰所は死んでいる。
残る意味はない。
残れば、ここで全部終わる。
「下がるよ!」
フレイヤが叫ぶ。
ルダが負傷者を引きずるように立たせ、ゴルムが崖道側へ走る。若羽たちの顔は真っ白だった。だが、まだ動ける。動けるうちに動かさなきゃいけない。
カイラだけが動かない。
バルトに押さえられたまま、弟の死体のほうを見ている。目を見開いたまま、何も捉えていないような目だった。
「カイラ」
フレイヤが呼ぶ。
返事はない。
「カイラ!」
今度は頬を打つような勢いで名を叩きつける。
ようやく、視線が揺れた。
「……下がれ」
「……やだ」
掠れた声だった。
「やだ、じゃない」
「置いてけるかよ……」
フレイヤは息を飲んだ。
その一言はわかりすぎるほどわかった。
さっきまで、自分たちは荷も箱も場所も置いてきた。
今度は弟だ。
理屈で切れるものじゃない。
でも切るしかない。
「置いてくんじゃない」
フレイヤは低く言った。
「今は取れないだけだ」
嘘ではない。
戻れるかどうかはわからない。
それでも今ここで死ぬよりは、まだその言い方のほうがましだった。
「……」
「生きて残れ。残って、あとで取り返せ」
カイラの顔が歪んだ。
納得なんてしていない。するはずもない。
それでも、その言葉でようやく足元が戻る。
バルトがその隙に、半ば抱えるようにしてカイラを引いた。
「ゴルム!」
フレイヤが叫ぶ。
「南の縄橋、まだ使えるか!」
「一回だ!」
「十分!」
ゴルムはすでに斧を抜いていた。崖道へ渡す仮橋の支えを見ている。最後の一度だけ通して、そのあと落とす気だ。
「ルダ! 歩けないのから先!」
「やってる!」
火床のそばで倒れていた若羽を二人がかりで担ぎ上げる。見張り台の一本が崩れる。風が金の火を煽る。鐘楼の梁が落ちて、今度は地面の木杭が弾け飛んだ。
フレイヤは最後に一度だけ、下を見た。
斜面の中ほどに、リュカがいる。
もう動かない。
白い羽の片側が、ありえない角度に折れている。
日鴉族は飛べない。
高いところから、風を使って遠くへ滑るだけだ。
羽を折られ、地に落ちた時点で、若い鴉はもう山の民の強みを失っていた。
その事実が、胃の底を冷たく抉る。
「頭!」
バルトの声で、フレイヤは振り向いた。
だめだ。
ここで止まれば本当に終わる。
フレイヤは歯を食いしばり、踵を返した。
「全員、南へ!」
崖道へ走る。
足場が揺れる。縄橋が鳴る。ひとり渡り、ふたり渡り、負傷者を支えた若羽がよろめきながら続く。カイラはバルトに押されるように進み、それでも一度だけ後ろを振り向いた。
その視線の先で、鐘楼が完全に崩れ落ちた。
金の炎が木組みを包み、鐘の縁を舐め、最後には重い金属音とともに谷へ叩き落とす。
山を繋いでいた音が、そこで切れた。
ゴルムが最後に渡る。
振り返りもせず、斧を一閃した。
縄橋の支えが断たれる。
木と縄が悲鳴みたいな音を立てて崩れ、詰所と南側の尾根の間に深い断絶が生まれた。追ってきた浄化師団の先頭が、そこで一瞬だけ足を止める。
「五分だな」
ゴルムが吐くように言う。
「十分だよ」
フレイヤは答えた。
十分じゃない。
でも、今はそう言うしかない。
南へ。
さらに南へ。
もう鐘はない。
もうあの詰所はない。
山に残る側でいられる時間も、たぶんここで終わった。
フレイヤは走りながら、喉の奥でひとつ息を殺した。
泣くな。
怒るな。
まだ終わってない。
でも、何かひとつが、確かにここで終わった。
背後で燃える鐘楼の光が、木々の隙間からいつまでもちらついていた。




