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農家の異世界奮闘記 外伝~日鴉戦記~  作者: 今無ヅイ


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3/13

Ahead of Time.

 戻ったとき、集落はもう朝の形を失いかけていた。


 崖をくり抜いて作られた通路には避難民が溢れ、泣き声と怒鳴り声と羽音が入り混じっている。

縄で荷を縛る者、家の中へ戻ろうとする者、子どもを背負う者、ただ立ち尽くして北の煙を見ている者。


朝飯の匂いはもうなくて、代わりに汗と焦りと焦げた風だけがあった。


 ルダが広場の中央で怒鳴っている。


「歩けるやつは谷道へ!

 飛べないやつから前へ出しな!

 荷は後だ、まず子ども!」


 カイラの声も別の方角から飛んでくる。


「そっち詰まるな!

 二列で流せ!

 抱えろ、引っ張れ、置いてくるな!」


 その喧噪の中へ降り立ったフレイヤの顔を見て、何人かの表情が一瞬で変わった。


 北を見に行った頭が戻ってきた。

 その顔で。


「フレイヤ!」


 ルダが駆け寄る。


 フレイヤは頷きだけ返した。


「全部前倒しだ」


 その一言で、ルダの目が細くなる。


「……来るのかい」


「もう来てる。斥候を六、落とした。あれが戻らないとなりゃ、後続が殺到する」


 周囲の空気が一段冷えた。聞こえた者から順に、顔色が変わっていく。


 フレイヤは広場の中央へ踏み出した。


「聞け、鴉ども!」


 ざわめきが止みきる前に、叩きつけるように言う。


「全部前倒しだ!

 荷物は捨てろ!

 滑れるやつはもう崖から出ろ!

 帝国領側の尾根へ渡れ!」


 広場のあちこちで悲鳴みたいな声が上がった。


「でも、冬具が――」

「干し肉がまだ――」

「薬が――」


「後だ!」


 フレイヤの一喝が、全部を押し切った。


「今持つのは、水と子どもと生きてる羽だ!

 鍋も布団も壺も置いてけ!

 戻れるなら後で戻る、戻れなきゃ諦めろ!」


 その言葉に、若い女がひとり泣き崩れかける。

 家の前に立っていた老人が、ぎり、と歯を鳴らす。


 わかっている。

 それが何を意味するか、フレイヤだってわかっている。

 冬が厳しいことも、荷を捨てることが命を削ることも。


 でも、今ここで抱えて動けなくなるほうが、もっと確実に死ぬ。


「滑れるやつは先行しろ!

 帝国側の山道に降りたら、向こうの兵に避難民が来るって叩き込め!

 塩でも布でも薬でも、あるもん全部持ってこさせろ!」


 指を伸ばし、南東の尾根を示す。


「谷道を使うのは、子ども、年寄り、怪我人、飛べないやつ!

 走れるやつは担げ!

 泣いててもいい、叫んでてもいい、置いて行くな!」


 そこでカイラを見る。

 第二中隊長は、まだ怒りを燃やした目のままだった。

 けれどもう、突っ込む目ではない。運ぶと決めた目だ。


「カイラ!」

「いる!」

「ルダを手伝え!

 南西搬送路、詰まりを潰せ!

 崖縁の順番も見ろ!

 先に滑れる若羽は帝国側へ、残りは担げるだけ担いで落とせ!」


 カイラが舌打ち混じりに叫び返す。


「言われなくてもやるよ!」


「ならやれ! もう時間がない!」


 ルダには短く告げる。


「三班じゃ足りない。第五の若いのも回せ。飛べないやつを先に裂け目へ落とす」


「了解だよ」


 ゴルムには振り向きざまに言う。


「崖道は?」

「東の細道はまだ生きてる。西はもう駄目だ」


「じゃあ東だけ使う。落とせる橋は?」

「二つ。味方が抜けたらやる」

「合図なしで落としていい。あんたの腹で決めな」


 ゴルムはにやりともしないで頷いた。


「任された」


 バルトはすでに北側の外れへ向かいかけている。

 フレイヤはその背にだけ言う。


「若いのを置いて死ぬなよ」

「そっくり返す」


 その短いやり取りだけで十分だった。


 広場では、ようやく人が動き始める。

 泣きながら荷を捨てる女。家へ駆け戻りかけて、家族に腕を引かれる男。羽を震わせながら、それでも弟を背負う少女。怒鳴りながら泣いている子ども。


 全部まとめて、生きている音だった。


 集落は崖をくり抜くように作られている。

 広場の先は、そのまま深い谷へ落ちていた。日鴉族にとって避難とは、平地を走って門を出ることじゃない。風向きを読み、順番を決め、崖から身を投げることだ。


 最初に崖縁へ立ったのは、若い連中だった。


 背中に子どもを括りつけ、順に風を待つ。焦って飛び出せば谷底へ落ちる。子どもを背負っていれば、なおさらだ。羽を半ばひらいたまま、風の流れが合う瞬間を探っている。


「まだだ!

 待ちな!」


 ルダが怒鳴る。


「次、いいよ!行きな!」


 若羽がひとり、崖から前へ出た。


 落ちる――そう見える一瞬のあと、ひらいた羽が谷風を掴む。黒い影がふわりと姿勢を変え、そのまま対岸の尾根へ向かって滑っていく。


 次。

 また次。


 若羽たちは子どもを背負ったまま、順に崖から飛び出していった。上昇はしない。できない。ただ落差と風を使って、帝国領側の高みへ渡るだけだ。


 そのたびに広場の空気が張りつめる。滑り出す瞬間がいちばん危うい。荷が重ければ沈む。風を誤れば岩に当たる。羽を痛めれば、その先は地面を歩くしかない。


 フレイヤはそれを見ながら、急げと、慌てるなを同時に飲み込まなきゃならなかった。


 飛べない者たちは谷道へ流される。


 担がれる者。

 手を引かれる者。

 泣きながらも足を動かす子ども。


 広場のあちこちに、捨てられた荷が転がっていた。干し肉の袋。鍋。木箱。羽の手入れ道具。まだ使えるものばかりだ。冬を越すために大事に貯めたものばかりだ。だが、誰も拾わない。拾えば遅れる。遅れれば死ぬ。だから、置いていく。


 フレイヤは広場の端に立ったまま、それを見ていた。


 少し前まで、子どもが走り回っていた場所だ。木の根元には、昨日の焚き火の灰がまだ残っている。

 もう誰もいない。


 さっきまで人の声で満ちていた広場が、荷物と朝露だけ残して空になっていく。崖の向こうでは滑空した若羽たちの黒い影が尾根へ吸い込まれ、谷道では足音が山の奥へ流れていく。


 山が、人を吐き出しているみたいだった。


 そのとき、南の列が不意に詰まった。


「何やってんだい、止まるな!」


 カイラの怒声が飛ぶ。


 フレイヤがそちらを見ると、谷道へ落ちる手前で、一家がひとつ大きな木箱にしがみついていた。年嵩の女と若い母親、それにまだ羽の短い子どもが二人。

箱は古く、角が何度も補修されている。蓋に家の印が焼き付けられていた。


 若羽が怒鳴っている。


「置いてけ! そんなもん抱えてたら崖から出られない!」

「置いてけるかい!」


 年嵩の女が怒鳴り返した。


「羽守箱だよ!」


 フレイヤはすぐに歩み寄った。


 木箱の蓋が半分開いている。中に見えたのは、子ども用の羽根保護布、補修糸、脂の壺、防寒用の薬草粉、小さな櫛、包み布。冬の間、子どもの羽を守るための備え一式だ。


 日鴉族の各家庭で代々受け継ぐ箱。

 冬を越えて羽を傷めず育てるための、子どものための必需品。


 しかも小さな家の備えじゃない。どう見ても兄弟ぶん、あるいは従兄弟ぶんまで入っている。

家の子どもたちをまとめて守る箱だ。


 若羽が焦った顔でフレイヤを見た。


「頭目、こいつ重くて――」

「わかってる」


 フレイヤは箱の脇に膝をついた。

 木の縁には古い傷がいくつもあり、蓋の裏には小さく刻みが入っていた。子どもの名か、翼幅か。何代分もの印に見えた。


 年嵩の女が、箱に手をかけたまま言う。


「それを置いたら、この子ら冬を越せても羽を駄目にする」


 若い母親も唇を噛んでいる。


「代々使ってきたんです。うちの子だけじゃない、次の子も、その次も――」


 フレイヤは一瞬だけ目を閉じた。


 わかる。

 それが何か、よくわかる。

 自分の羽で滑る民にとって、それはただの荷じゃない。


 だが、箱ごと持てば崖から出られない。

 今ここで詰まれば、後ろの列ごと死ぬ。


「箱は捨てな」


 年嵩の女の目が見開かれた。


「……!」

「中身を出せ」


 フレイヤの声は低いままだった。


「子ども用だけ選べ。油、布、薬草。櫛は一本でいい。補修糸も半分で足りる」

「でも――」

「全部は持てない」


 ぴしゃりと言う。


「持つなら今日を越すぶんだけだ。冬ぜんぶを背負って崖から落ちる気かい」


 若い母親の手が震えた。

 それでも蓋を開ける。


 ルダがすぐに来て、布を一枚引ったくるように広げた。


「選びな!三息でやるよ!」


 年嵩の女が涙をこらえながら、中から保護布を引き抜く。小さな脂壺。薬草粉。櫛。補修糸。全部ではない。どうしても、全部ではない。


 そのとき、フレイヤの背後で警鐘が鳴った。


 かん、と乾いた音。


 遠い山だ。南東寄り。さっき返ってきた鐘の山のひとつ。

 広場にいた者たちが、一瞬だけ顔を上げる。


 かん。

 もう一打。


 そして――三打目は、来なかった。


 フレイヤの首筋を、冷たいものが走った。

 またひとつ、切れた。


「急げ!」


 今度の怒声は、ほとんど吠えるみたいだった。


「もっと急げ!

 そこももう噛まれてる!」


 若羽が飛び出す。

 カイラが搬送路の詰まりを蹴散らす。

 ルダが布を包み、若い滑空役の背へ括りつけた。


「これ持って行きな! 箱は置く!」

「でも祖母ちゃん――」

「いいから行け!」


 年嵩の女は箱に手を置いたまま、一瞬だけ固まっていた。

 それから、ゆっくり指を離す。


 木箱はその場に残った。


 代々の傷も、刻みも、名前も、全部そこに置いていく。


 若い母親が小さく嗚咽を漏らす。

 だが年嵩の女は泣かなかった。


「行こう」


 それだけ言って、子どもを抱き上げる。


 布包みを背負った若羽が崖縁へ走った。

 重い。それでも箱よりはずっとましだ。子ども一人を連れて渡るには、まだどうにかなる重さだった。


 崖際で一度だけ風を読む。

 次の瞬間、身を投げるように前へ出て、ひらいた羽で谷の風を掴む。


 布包みを背負った黒い影が、朝の空へではなく、谷向こうの尾根へ向かって滑っていった。


 フレイヤは木箱を見下ろした。


 捨てたんじゃない。

 置いていったのだ。

 戻れたら、拾うために。


 そうでなければ、今ここで切り離せない。


「動け!」


 フレイヤは広場全体へ向かって叫ぶ。


「崖が生きてるうちに出ろ!

 滑れるやつから滑れ!

 飛べないやつを置くな!

 荷は後だ!

 帝国領まで行け!話はそのあとだ!」


 もう誰も、朝の顔をしていなかった。


 猟師は獲物をそのまま捨てて担架を持ち、若羽は弟妹みたいな子どもを背負い、母親たちは鍋ではなく水袋を選ぶ。ゴルムの指示で崖道の縄が張られ、ルダの怒鳴り声で谷道の流れが整い、カイラの一喝で詰まりが次々に剥がれていく。


 遠くでまた、焦げた風が強くなった。

 フレイヤは一度だけ、北西ではなく南東を見た。


 まだ抜ける。

 まだ流せる。

 その細い道が死ぬ前に、どれだけ落とせるか。


「ルダ!」

「なんだい!」

「飛べないやつ、あと何列だ!」

「三十はいる!」


「カイラ!」

「聞いてる!」

「先行の若羽、二組戻せ! 子どもをもう一段渡す!」

「やってるよ!」


 広場の中央には、さっき子どもが持っていた木板が落ちていた。

 炭で書かれた、ぎこちない名前。


 フレイヤは一瞬だけそれを見た。

 それから拾い上げ、近くの荷袋へ突っ込んだ。


 置いていけるものと、置いていけないものがある。

 だが、その線引きに時間をかける時間は、もうない。


 遠くでまた鐘が鳴った。


 一打。

 二打。


 今度は三打目まで続いた。


 広場の誰かが、小さく息を吐く。


 フレイヤはその音を聞きながら、低く言った。


「まだ繋がってるよ」


 誰に向けた言葉でもなかった。

 自分に言ったのかもしれない。


「だから急ぐ。切れる前に、全部落とす」


 そしてフレイヤは、崖から順に滑り出していく最後尾の列へ向かって手を振った。


「行け! 振り返るな!」


 黒い羽が、谷風を掴んで次々と向こうの尾根へ渡っていく。


 その下で、捨てられた荷と、置いていかれた羽守箱と、踏み荒らされた朝露だけが、静かに光っていた。

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