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農家の異世界奮闘記 外伝~日鴉戦記~  作者: 今無ヅイ


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2/13

The Northwest.

 北へ向かう斜面は、朝露がまだ深く残っていた。


 枝から枝へ移るたび、羽の先が濡れる。冷たい。だが、その冷たさが今はありがたかった。焦げた匂いだけが、風に混じって途切れずついてくる。


 フレイヤは先頭を切っていた。


 後ろにバルト。

 そのさらに後ろに、若羽を二人。

 ニクスはすでに前へ出ている。見えない。見えないが、消えたまま帰ってこない時点で、まだ生きてはいるのだろう。


 斜面は急だった。

 日鴉族なら慣れたものだが、それでも今日は足が速い。速くしなければならない。北の鐘は三打目が来なかった。ひとつ切れた鐘は、すぐ隣の山も切れている可能性が高い。


 しかも、匂いが濃い。


 ただの焚き火なら、もっと乾いている。

 これは違う。濡れた木を無理やり焼いた匂いと、脂の匂いと、土を焦がした匂いが一緒になっている。


「……近いね」


 フレイヤが呟くと、後ろのバルトが短く返した。


「ああ」


 それだけだった。


 言葉は少なくていい。

 今ここで喋ることなんて、だいたい最悪の確認にしかならない。


 枝を蹴る。

 岩棚を渡る。

 低い崖から身を投げて、短く滑る。


 日鴉族は飛べない。

 高いところから風を使って遠くへ行けるだけだ。だから山は道であり、壁であり、武器だった。


 だが、その武器の形を知っているからこそ、見えてしまうものもある。


 たとえば――煙の上がり方。


 尾根をひとつ越えたところで、フレイヤは足を止めた。


 北西の山々が見える。

 見知った山並みだった。見張り所の位置も、小屋の場所も、尾根の抜け方も、全部頭に入っている。


 そして、そのほとんどに火の手が上がっていた。


「……っ」


 若羽の一人が息を呑む音がした。


 無理もない。


 ひとつやふたつじゃない。

 見張り所。山小屋。崖の中腹の小集落。煙はもう高くない。むしろ、低い。燃え上がる段階ではなく、焼き終わりかけている煙だ。


 つまり、もう遅い。


 フレイヤは黙ったまま、それを見ていた。


 あの見張り所は、梯子の掛け替えを去年した。

 あの岩棚の小屋には、塩気の強い干し肉をくれる爺さんがいた。

 あの集落の子どもには、春先に文字を教えた。木板に炭で、自分の名前を書けるようになったと喜んでいた。


 全部、燃えている。


 山を知っているということは、燃えているものの名前まで知っているということだった。


 フレイヤはゆっくり拳を握った。


 指が白くなる。

 爪が掌に食い込む。

 それでも、顔は動かさない。


 泣くには早い。怒るには遅い。

 今ここでいるのは、悼むためじゃない。生き残りを拾うためだ。


「頭」


 バルトが低く呼んだ。


 フレイヤはそれでようやく息を吐いた。


「……見えてるよ」

「どうする」


 問いは短い。

 選べと言っている。


 全部を守ることはできない。

 全部を見に行くこともできない。

 なら、どこを切るのか。どこを残すのか。


 フレイヤは目の前の山を、もう一度見た。


 火の位置。

 煙の濃さ。

 鐘が返ってこなかった尾根。

 返ってくる可能性がまだ残っている方角。


 そして、帝国領側への抜け道。


 頭の中で地図が重なる。

 それはもう、祈りではなく計算だった。


「北西は、捨てる」


 若羽の片方が顔を上げる。


「頭……」

「もう、焼け終わってる」


 フレイヤは言った。


 声は低い。

 でも揺れてはいなかった。


「今から北西の奥まで突っ込んだら、戻る時間がなくなる。

 戻れなきゃ、下にいるやつらが死ぬ」


 若羽は唇を噛んだ。

 悔しいのだろう。わかる。フレイヤだって同じだ。

 でも、悔しさで尾根は渡れない。


「切る」


 フレイヤはもう一度言った。


「その代わり、帝国側に近い山の避難を優先する。

 まだ生きてる羽を拾う」


 バルトが頷く。


「いい判断だ」

「褒められても嬉しくないね」

「褒めてない」

「そりゃどうも」


 そのとき、前方の木陰からニクスが現れた。

 気配のないまま現れる男だが、今はその顔色だけで十分だった。朝よりもさらに白い。


「見たか」


 フレイヤが問う。


「見た」

「生き残りは」

「いる」


 その一言に、若羽たちが少しだけ息を戻す。


「どこだい」

「鐘の切れた先の尾根。

 ただし、先行がいる」


「数は」

「六。浄化師団というより、前衛。索敵」


 フレイヤの目が細くなる。


 先行が戻らなければ、後続が来る。

 つまり、いま残されている猶予はほとんどない。


「獲れるかい」


 ニクスは短く頷く。


「静かにやれば」


 フレイヤは一瞬だけ考えた。


 やるしかない。

 ここで先行を潰せなければ、下の避難はもっと苦しくなる。

 だが時間はない。長引かせる余裕もない。


「行くよ」


 フレイヤは言った。


「バルト、アタシと来な。

 若いの二人はニクスの指示に従いな。

 音を立てるな。

 殺すのは六、時間は一息だ」


 若羽たちの顔が引き締まる。

 ここから先は、もう見物じゃない。

 ニクスに導かれて、四人はさらに北西の斜面を切った。


 獣道より細い尾根。

 湿った岩。

 枝の下を潜り、崩れた木の根を越える。


 やがてニクスが手を上げた。

 全員が止まる。

 下の斜面に、白いものが見えた。


 神聖国兵だ。六人。

 長槍ではなく短めの得物と剣。山を登るために軽くしたのだろうが、足の運びはまだ平地のままだ。革靴が岩の角度を嫌っている。濡れた斜面で体重が後ろへ残る。


 山を知らぬ者の槍は、ここではただ枝に引っかかるだけの棒だ。

 フレイヤは昨日そう言った。今日はその通りの光景が目の前にある。


 だが、笑う気にはなれなかった。

 あいつらがそこにいるというだけで、もう下のどこかが焼けている証拠だからだ。


 フレイヤは指を二本立てて、左右へ振った。


 ニクスが消える。

 若羽二人が息を止める。

 バルトが剣の角度を変える。


 次の瞬間、全部が一度に動いた。


 最初の一人は、ニクスの矢で喉を抜かれた。

 声も上がらない。


 二人目は振り向いたところを、フレイヤが岩上から飛び降りて首を刎ねる。

 三人目は若羽の矢で腿を抜かれ、よろめいたところをバルトが口を塞いで崖へ押しつけた。


 残りがようやく異変に気づく。

 だが、山では遅い。

 足場を選ぶ一拍が、そのまま死になる。


 フレイヤの山刀が横へ走る。

 白い外套が赤く裂ける。


 バルトは前へ出すぎない。

 逃げ道を塞ぐ位置で一人を受け、短く殺す。地面の狭さごと味方につける戦い方だ。


 六人目が声を上げかけたとき、若羽の矢が頬を裂いた。完全には止まらない。

 フレイヤは舌打ちして踏み込む。


 山刀の柄で喉を潰し、そのまま木へ叩きつけた。

 静かになった。

 あまりにも早く静かになったせいで、逆に鳥の声のなさが耳につく。


 フレイヤは白外套の死体を一瞥した。


 軽装だ。山には足りない。

 こいつらは斥候だ。だから、こいつらが戻らないとわかれば、次はもっと来る。


「時間が死んだ」


 ニクスが言う。


「わかってる」


 フレイヤは答えた。


 下を見る。

 まだ煙は低く上がっている。

 まだ拾える命はある。

 でももう、荷を持ってゆっくり逃がす時間じゃない。


「戻るよ」


 フレイヤは即座に言った。


「全部前倒しだ。

 荷物は捨てる。

 飛べるやつはもう飛ばす。

 帝国領側へ落とせるやつから落とす」


 若羽のひとりが死体を見て言う。


「埋めなくていいんですか」

「いいわけないだろ」


 フレイヤは短く返す。


「でも、そんな時間はない」


 それが戦の言葉だった。


 祈る暇も、埋める暇もない。

 せめて生きてるほうを拾う。


 斜面を蹴る。

 また枝から枝へ。

 湿った風が頬を打つ。


 戻る途中で、北の鐘が一度だけ鳴った。


 短い。

 遠い。

 そして、次が来ない。


 またひとつ切れた。


 フレイヤは走りながら、奥歯を噛んだ。


 全部見知った山だ。

 全部、自分の庭だった。


 その庭を、いま自分の判断で切っている。


 でも切らなければ、もっと多くが死ぬ。

 集落へ戻る頃には、朝の空気は完全に消えていた。


 泣き声、怒鳴り声、走る音、木箱を引きずる音。

 崖をくり抜いた通路が、避難の喧噪で震えている。


 ルダが三班をまとめていた。

 カイラはもう起きていて、搬送路の詰まりを蹴散らしている。

 ゴルムは橋の支えを見ていた。

 全員、顔だけで事情を読んだ。


「どうだった!」


 ルダが怒鳴る。


 フレイヤは通路の中央へ踏み出した。


「北西は、切る!」


 その声が、崖の内側で反響する。


「全部前倒しだ!荷物は捨てろ!飛べるやつはもう崖から出ろ!帝国側へ飛べ!

 カイラ、ルダを手伝え!

 バルト、アタシと来な!

 ゴルム、ここを任す!

 アタシらが戻らなかったら、アンタの判断で飛んで逃げろ!」


 そこで一度、息を吸う。

 もう迷っている時間はない。


「以上だ!動け、鴉ども!」


 集落が、一気に逃げるための形へ変わっていった。

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