The Northwest.
北へ向かう斜面は、朝露がまだ深く残っていた。
枝から枝へ移るたび、羽の先が濡れる。冷たい。だが、その冷たさが今はありがたかった。焦げた匂いだけが、風に混じって途切れずついてくる。
フレイヤは先頭を切っていた。
後ろにバルト。
そのさらに後ろに、若羽を二人。
ニクスはすでに前へ出ている。見えない。見えないが、消えたまま帰ってこない時点で、まだ生きてはいるのだろう。
斜面は急だった。
日鴉族なら慣れたものだが、それでも今日は足が速い。速くしなければならない。北の鐘は三打目が来なかった。ひとつ切れた鐘は、すぐ隣の山も切れている可能性が高い。
しかも、匂いが濃い。
ただの焚き火なら、もっと乾いている。
これは違う。濡れた木を無理やり焼いた匂いと、脂の匂いと、土を焦がした匂いが一緒になっている。
「……近いね」
フレイヤが呟くと、後ろのバルトが短く返した。
「ああ」
それだけだった。
言葉は少なくていい。
今ここで喋ることなんて、だいたい最悪の確認にしかならない。
枝を蹴る。
岩棚を渡る。
低い崖から身を投げて、短く滑る。
日鴉族は飛べない。
高いところから風を使って遠くへ行けるだけだ。だから山は道であり、壁であり、武器だった。
だが、その武器の形を知っているからこそ、見えてしまうものもある。
たとえば――煙の上がり方。
尾根をひとつ越えたところで、フレイヤは足を止めた。
北西の山々が見える。
見知った山並みだった。見張り所の位置も、小屋の場所も、尾根の抜け方も、全部頭に入っている。
そして、そのほとんどに火の手が上がっていた。
「……っ」
若羽の一人が息を呑む音がした。
無理もない。
ひとつやふたつじゃない。
見張り所。山小屋。崖の中腹の小集落。煙はもう高くない。むしろ、低い。燃え上がる段階ではなく、焼き終わりかけている煙だ。
つまり、もう遅い。
フレイヤは黙ったまま、それを見ていた。
あの見張り所は、梯子の掛け替えを去年した。
あの岩棚の小屋には、塩気の強い干し肉をくれる爺さんがいた。
あの集落の子どもには、春先に文字を教えた。木板に炭で、自分の名前を書けるようになったと喜んでいた。
全部、燃えている。
山を知っているということは、燃えているものの名前まで知っているということだった。
フレイヤはゆっくり拳を握った。
指が白くなる。
爪が掌に食い込む。
それでも、顔は動かさない。
泣くには早い。怒るには遅い。
今ここでいるのは、悼むためじゃない。生き残りを拾うためだ。
「頭」
バルトが低く呼んだ。
フレイヤはそれでようやく息を吐いた。
「……見えてるよ」
「どうする」
問いは短い。
選べと言っている。
全部を守ることはできない。
全部を見に行くこともできない。
なら、どこを切るのか。どこを残すのか。
フレイヤは目の前の山を、もう一度見た。
火の位置。
煙の濃さ。
鐘が返ってこなかった尾根。
返ってくる可能性がまだ残っている方角。
そして、帝国領側への抜け道。
頭の中で地図が重なる。
それはもう、祈りではなく計算だった。
「北西は、捨てる」
若羽の片方が顔を上げる。
「頭……」
「もう、焼け終わってる」
フレイヤは言った。
声は低い。
でも揺れてはいなかった。
「今から北西の奥まで突っ込んだら、戻る時間がなくなる。
戻れなきゃ、下にいるやつらが死ぬ」
若羽は唇を噛んだ。
悔しいのだろう。わかる。フレイヤだって同じだ。
でも、悔しさで尾根は渡れない。
「切る」
フレイヤはもう一度言った。
「その代わり、帝国側に近い山の避難を優先する。
まだ生きてる羽を拾う」
バルトが頷く。
「いい判断だ」
「褒められても嬉しくないね」
「褒めてない」
「そりゃどうも」
そのとき、前方の木陰からニクスが現れた。
気配のないまま現れる男だが、今はその顔色だけで十分だった。朝よりもさらに白い。
「見たか」
フレイヤが問う。
「見た」
「生き残りは」
「いる」
その一言に、若羽たちが少しだけ息を戻す。
「どこだい」
「鐘の切れた先の尾根。
ただし、先行がいる」
「数は」
「六。浄化師団というより、前衛。索敵」
フレイヤの目が細くなる。
先行が戻らなければ、後続が来る。
つまり、いま残されている猶予はほとんどない。
「獲れるかい」
ニクスは短く頷く。
「静かにやれば」
フレイヤは一瞬だけ考えた。
やるしかない。
ここで先行を潰せなければ、下の避難はもっと苦しくなる。
だが時間はない。長引かせる余裕もない。
「行くよ」
フレイヤは言った。
「バルト、アタシと来な。
若いの二人はニクスの指示に従いな。
音を立てるな。
殺すのは六、時間は一息だ」
若羽たちの顔が引き締まる。
ここから先は、もう見物じゃない。
ニクスに導かれて、四人はさらに北西の斜面を切った。
獣道より細い尾根。
湿った岩。
枝の下を潜り、崩れた木の根を越える。
やがてニクスが手を上げた。
全員が止まる。
下の斜面に、白いものが見えた。
神聖国兵だ。六人。
長槍ではなく短めの得物と剣。山を登るために軽くしたのだろうが、足の運びはまだ平地のままだ。革靴が岩の角度を嫌っている。濡れた斜面で体重が後ろへ残る。
山を知らぬ者の槍は、ここではただ枝に引っかかるだけの棒だ。
フレイヤは昨日そう言った。今日はその通りの光景が目の前にある。
だが、笑う気にはなれなかった。
あいつらがそこにいるというだけで、もう下のどこかが焼けている証拠だからだ。
フレイヤは指を二本立てて、左右へ振った。
ニクスが消える。
若羽二人が息を止める。
バルトが剣の角度を変える。
次の瞬間、全部が一度に動いた。
最初の一人は、ニクスの矢で喉を抜かれた。
声も上がらない。
二人目は振り向いたところを、フレイヤが岩上から飛び降りて首を刎ねる。
三人目は若羽の矢で腿を抜かれ、よろめいたところをバルトが口を塞いで崖へ押しつけた。
残りがようやく異変に気づく。
だが、山では遅い。
足場を選ぶ一拍が、そのまま死になる。
フレイヤの山刀が横へ走る。
白い外套が赤く裂ける。
バルトは前へ出すぎない。
逃げ道を塞ぐ位置で一人を受け、短く殺す。地面の狭さごと味方につける戦い方だ。
六人目が声を上げかけたとき、若羽の矢が頬を裂いた。完全には止まらない。
フレイヤは舌打ちして踏み込む。
山刀の柄で喉を潰し、そのまま木へ叩きつけた。
静かになった。
あまりにも早く静かになったせいで、逆に鳥の声のなさが耳につく。
フレイヤは白外套の死体を一瞥した。
軽装だ。山には足りない。
こいつらは斥候だ。だから、こいつらが戻らないとわかれば、次はもっと来る。
「時間が死んだ」
ニクスが言う。
「わかってる」
フレイヤは答えた。
下を見る。
まだ煙は低く上がっている。
まだ拾える命はある。
でももう、荷を持ってゆっくり逃がす時間じゃない。
「戻るよ」
フレイヤは即座に言った。
「全部前倒しだ。
荷物は捨てる。
飛べるやつはもう飛ばす。
帝国領側へ落とせるやつから落とす」
若羽のひとりが死体を見て言う。
「埋めなくていいんですか」
「いいわけないだろ」
フレイヤは短く返す。
「でも、そんな時間はない」
それが戦の言葉だった。
祈る暇も、埋める暇もない。
せめて生きてるほうを拾う。
斜面を蹴る。
また枝から枝へ。
湿った風が頬を打つ。
戻る途中で、北の鐘が一度だけ鳴った。
短い。
遠い。
そして、次が来ない。
またひとつ切れた。
フレイヤは走りながら、奥歯を噛んだ。
全部見知った山だ。
全部、自分の庭だった。
その庭を、いま自分の判断で切っている。
でも切らなければ、もっと多くが死ぬ。
集落へ戻る頃には、朝の空気は完全に消えていた。
泣き声、怒鳴り声、走る音、木箱を引きずる音。
崖をくり抜いた通路が、避難の喧噪で震えている。
ルダが三班をまとめていた。
カイラはもう起きていて、搬送路の詰まりを蹴散らしている。
ゴルムは橋の支えを見ていた。
全員、顔だけで事情を読んだ。
「どうだった!」
ルダが怒鳴る。
フレイヤは通路の中央へ踏み出した。
「北西は、切る!」
その声が、崖の内側で反響する。
「全部前倒しだ!荷物は捨てろ!飛べるやつはもう崖から出ろ!帝国側へ飛べ!
カイラ、ルダを手伝え!
バルト、アタシと来な!
ゴルム、ここを任す!
アタシらが戻らなかったら、アンタの判断で飛んで逃げろ!」
そこで一度、息を吸う。
もう迷っている時間はない。
「以上だ!動け、鴉ども!」
集落が、一気に逃げるための形へ変わっていった。




