Leave It to Them.
下りてきてからしばらく。
この短期間で、後方はずいぶん形を変えていた。
避難民用の天幕は列を増やし、木組みの小屋は一棟、また一棟と生えたみたいに増えている。泥にまみれた馬車道は踏み固められ、荷の出入りは止まらず、どこへ行っても誰かが走っていた。
山から持ち帰った遺品は、布に包まれて隅へ積まれている。
折れた短弓。名を刻んだ木札。羽根用の櫛。擦り切れた手入れ布。小さな護符。
体は拾えなくても、名前だけは持ち帰った。
山に置いてきたのは体だけだ。
フレイヤは、その前をゆっくり通った。
左腕には太い添え木。肘から指先まで白い布で巻かれている。右目は半分だけ開く。金の爆風に巻き込まれたとき、飛んできた石礫がかすめたせいだ。視界の端では、まだ時々、白い残像がちらついた。
だが、立って歩ける。
その程度で済んだのは、あの山がまだ「アタシを生かす」と決めたからだと、勝手に思うことにしている。
「だからって勝手に歩き回っていい理由にはなりません」
後ろから飛んできた声に、フレイヤは肩越しに振り向いた。
ツチダだった。
相変わらず、寝ていない顔をしている。髪は乱れ、服の裾には土がつき、手には書類と薬包と、なぜか半分食べかけの黒パンまで持っていた。
「歩き回ってるのはそっちだろ」
「俺は両腕とも使えます」
「嫌味だねえ」
「事実です」
ツチダはそこで足を止め、フレイヤの右目をじろりと見た。
「見えてます?」
「半分はね」
「それ、全然大丈夫じゃないです」
「半分見えりゃ山なら十分さ」
「ここ山じゃないです」
ぴしゃりと言い返されて、フレイヤは少しだけ口元を緩めた。
この男は変なところで容赦がない。皇帝にも言うことは言うのだろうが、怪我人相手にはもっと容赦がない。
「今日はどこまでです」
「観測台」
「駄目です」
「呼ばれてるんだよ」
「聞いてます。だから付き添いをつけます」
「子どもじゃないんだけど」
「今のあなたはほぼ手のかかる重傷者です」
その言い草が妙に真顔だったので、フレイヤはとうとう笑った。頬の傷が引きつって、少し痛い。
「重傷者扱いにしちゃ、ずいぶん歩かせるじゃないか」
「止めても歩くでしょう」
「まあね」
「だからせめて転ばないようにしてるんです」
理の国の男は面倒くさい。
でも、その面倒くささに何度も助けられたのも事実だった。
「カイラは」
フレイヤが訊くと、ツチダは顎で野戦病院のほうを示した。
「動けるって言って、朝から物資の仕分けしてます。肩、まだ全然だめなのに」
「忙しいほうがましなんだろうね」
「わかりますけど、休んでほしいです」
「休めるようなら、あそこまで悪い顔はしてないよ」
ツチダは何とも言えない顔をした。
その先の野戦病院では、ルダがいつものように怒鳴っていた。負傷者を寝かせる幅が足りないだの、翼の下に布を噛ませろだの、帝国兵相手に一人で三人分くらいの騒ぎを起こしている。
バルトはその少し外、木柵に寄りかかっていた。相変わらず表情は薄いが、脇腹に巻いた包帯が外套の隙間から見えている。
ゴルムは指の腫れた手で木材を持ち上げ、工兵隊と何やら話していた。
ニクスはどこにいるのかわからない。たぶん近くにいて、見えていないだけだ。
みんな、怪我だらけだった。
でも立っていた。
立って、まだそれぞれの仕事をしている。
「……よく残ったね」
フレイヤがぽつりと漏らすと、ツチダは一拍遅れて答えた。
「残ったから、ここまで来たんでしょう」
それはそうだ。
あまりにもその通りで、フレイヤは返す言葉をなくした。
そのとき、帝国の伝令兵が駆けてきた。
「フレイヤ殿。辺境伯閣下がお待ちです」
「ほら見ろ」
フレイヤが言うと、ツチダは深いため息を吐いた。
「わかりました。俺も途中まで行きます。転ばないでくださいよ」
「子ども扱いがひどいねえ」
「重傷者ですから」
結局、付き添われる形で観測台まで上ることになった。
丘陵の高みは、山の高みと違う。
風はあるが、尖っていない。空が開けていて、隠れる岩も木も少ない。その代わり、人の手が入っているのがよく見えた。
土塁。
溝。
逆茂木。
魔力砲の砲列。
補給用の荷車。
伝令線。
兵の列。
山で買った十日が、そこにあった。
グライフェンタールは観測台の先に立っていた。
背を向けていてもわかる。あの男は立っているだけで、そこが司令部になる。
「来たか」
「来たよ」
フレイヤは少し遅れて隣へ並んだ。
丘の向こうにアギール平野が広がっている。まだ敵本隊は遠い。だが、ここが受ける場所だということだけは、嫌というほどわかる。
「見事な牙だね」
フレイヤが言うと、グライフェンタールは視線を動かさずに答えた。
「貴官らが稼いだ十日が、この陣地だ」
その言葉を、フレイヤはすぐには飲み込めなかった。
十日。
長かった。
短かった。
そのどちらでもある十日だ。
北西が焼け、鐘が切れ、鐘楼が落ち、山が削れ、風が変わり、最後に鍵を閉めた。そこまでの時間が、いまこの土塁と砲列になっている。
「高くついたよ」
フレイヤは低く言った。
グライフェンタールはわずかに頷いた。
「安く済む戦などない」
それだけだった。
それで十分だった。
しばらく、二人とも黙ったまま平野を見ていた。
下では兵が動いている。荷が運ばれ、砲兵が角度を測り、工兵が最後の土を盛る。理の国らしい、きっちりした忙しさだった。
「神聖国軍はどうだい」
フレイヤが問う。
「痩せている」
即答だった。
「兵も、足も、腹も。
山で好きにさせすぎたツケを、いま払っている最中だ」
フレイヤは鼻で笑った。
橋を落とした。
荷駄を谷へ落とした。
ぬかるみを残した。
夜に迷う尾根を残した。
悪い場所だけ残してきた。
あれはちゃんと、向こうの腹を噛んでいるのだ。
「猟兵隊は休養に入れる」
グライフェンタールが続けた。
「少なくとも会戦までは後方だ。必要なら観測と伝令だけ借りる。
だが主戦場は、もう平野だ」
「そうだろうね」
フレイヤは頷いた。
それに異論はなかった。
山はもう閉めた。
次は平地の連中の番だ。
少し離れたところでは、バルトが待っていた。
木柵にもたれ、相変わらず大して表情を動かさない。
そのさらに向こう、野戦病院の手前では、カイラが肩に包帯を巻いたまま木箱を仕分けているのが見えた。動きは荒いが、止まってはいない。
みんな、まだ立っている。
「山は閉めたよ」
フレイヤが言う。
「知っている」
「なら、次はそっちの仕事だ」
グライフェンタールはようやくこちらを見た。
「ああ。次はこちらの番だ」
その言い方は、以前会議室で聞いた声より少しだけ柔らかかった。
フレイヤは丘の向こうを見た。
土塁。
溝。
砲。
並ぶ兵。
走る伝令。
運ばれる荷。
後方で息をついている避難民。
木箱に包まれた遺品。
全部が一枚の風景に重なっていた。
山の分は終わった。
でも、終わったから消えるわけじゃない。
山で死んだ者の名前も、山で削った十日も、そのままここへ流れ込んでいる。
フレイヤは小さく息を吐いた。
「あとは任せた」
声は大きくなかった。
でも、風に消えるほど弱くもなかった。
グライフェンタールは何も言わなかった。
ただ、一度だけ頷いた。
それで十分だった。
フレイヤは踵を返す。
戻れば、寝ろと怒鳴るツチダがいるだろう。
ルダが包帯を巻き直し、カイラが忙しい顔で文句を言い、バルトは黙って立っている。
ゴルムは工兵相手に橋の悪口でも言い、ニクスは見えないところから全部見ている。
その全部を残して、次の戦いは平野で始まる。
猟兵隊にふさわしいのは、たぶん勝利ではない。受け渡しだ。
山で買った十日を、平野へ渡す。
それで十分だと、いまは思えた。




