The Last to Leave.
十日目の朝は、妙に白かった。
雪ではない。霧でもない。
山の輪郭が、焼けた岩と剥げた樹肌のせいで薄く見えているだけだ。
フレイヤは洞の外に立ち、まだ冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
焦げた匂いがする。
湿った灰の匂いも。
その奥に、ほんの少しだけ土を掘り返した匂いが混じっていた。
丘のほうだ。
帝国軍が土を盛り、溝を掘り、砲を据えるために掘り返した土の匂い。ここまで風に乗ってくるほど近くはない。だが、山で十日も嗅ぎ分けていれば、それくらいはわかる。
間に合っている。
たぶん。
だからこそ、今日が分かれ目だった。
洞の中では、猟兵隊の面々が静かに動いていた。
静か、と言っても余裕があるわけじゃない。声を張るだけの気力がないだけだ。
若羽は包帯を巻き直し、古参は弓弦を確かめ、ゴルムは斧の刃先ではなく柄の割れを見ている。
ルダは眠れていない目のまま負傷者を見回り、ニクスは洞口の影から半歩も動かず外を見ている。
怪我をしていないやつは、もういなかった。
フレイヤ自身、左腕は布と薄板で雑に吊ってあるだけだし、右の視界の端ではまだ金の残像がちらつく。
カイラは肩と翼の端を巻き、バルトは平気な顔で脇腹をかばい、ゴルムの指は腫れ、ニクスの脇腹の布は乾ききらない。
若羽だって、無傷の顔をしたやつのほうが少なかった。
それでも、逃げ出したい顔をしているやつはいない。
まだ立てる。まだ弓が引ける。まだ一歩は踏み込める。
だからこそ厄介だった。
ここで退かせなければ、本当に全員、立てなくなる。
そしてカイラは、壁際に座って山刀の鞘を膝に置いたまま、ずっと黙っていた。
十日目。
ここまで来れば、誰も口にしなくてもわかる。
もう一日粘れるか。
それとも今日、切るか。
「頭」
バルトが後ろから来た。
フレイヤは振り向かない。
「何人立てる」
「立てるだけなら、まだ結構いる」
「そういう数え方は嫌いだね」
「だから言った」
バルトは隣に立った。
「滑れる若羽、昨日より減った。
怪我を押して出るのを含めれば見かけの数はある。
だが、今日は風がもっと悪い」
フレイヤは頷いた。
そうだ。
人が減っただけじゃない。
山が変わった。
風が変わった。
昨日まで届いた尾根へ、今日は届かない。
昨日まで逃げられた滑り出しで、今日は沈む。
山がもう、日鴉族の知っている猟場ではなくなり始めている。
「ニクス」
フレイヤが呼ぶと、影から声だけが返る。
「いる」
「見えたかい」
「見えた」
「どうだ」
「白いのが増えた。
前だけじゃない。脇にもいる。
祈りの位置も、昨日より一段高い」
フレイヤは目を閉じた。
向こうも詰めてきている。
昨日の削りで終わらず、今日さらに高みへ祈りを置いてくる。
「丘の様子は」
しばらく間があった。
ニクスが言う。
「旗が増えた。
土塁も伸びてる。
……砲も見えた」
それで十分だった。
帝国側の準備は整いつつある。
山で買った時間は、ちゃんと向こうで形になっている。
フレイヤはようやく振り向いた。
「皆を集めな」
それだけで、洞の空気が変わった。
古参はすぐ顔を上げ、若羽は何かを察したみたいに動きを止める。ルダは包帯を結ぶ手を止めずに耳だけこちらへ向け、ゴルムは斧を肩へ担ぎ直した。
カイラだけが、少し遅れて顔を上げた。
全員が洞の中央へ寄る。
狭い。翼が少し触れ合う。十日前なら、こんな詰め方をしただけで誰かが文句を言っただろう。今は誰も言わない。
フレイヤはその顔ぶれを見た。
減った。
目に見えて減った。
けれど、残っている顔はどれもまだ死んでいない。
「今日の風は知ってるね」
誰も答えない。
答える必要がないからだ。
「山も知ってる。
どこが死んだか、どこがまだ使えるかも」
そこで一拍置く。
「じゃあ、聞くよ。
まだ山に張るかい」
最初に反応したのはカイラだった。
「張れる」
即答だった。
フレイヤは目を細める。
「張れるね」
「なら張るべきだ」
カイラの声は低かった。怒鳴りではない。怒鳴る段階を越えている。
「まだ削れる。
祈りの隊列も、弓も、補給も。
ここで下りたら、リュカたちが買った日が切れる」
その言葉に、若羽たちの何人かが顔を伏せた。
死者の名は重い。
重いからこそ、簡単に否定はできない。
だがフレイヤは視線を逸らさなかった。
「切れないよ」
静かに返す。
「ここで下りても、切れない。
向こうはもう丘で受ける準備ができてる」
「見たのか」
「見た」
ニクスが短く言った。
「旗も土塁も砲もある」
カイラの喉が鳴る。
「じゃあなおさら――」
「なおさら、だよ」
今度はバルトが言った。
重い声だった。
「ここで猟兵隊を使い切ったら、次に山へ戻る者がいなくなる」
「……」
「山を知るのは誰だ。
尾根を覚えてるのは誰だ。
風の顔が変わったとわかるのは誰だ」
バルトはそこで言葉を切った。
「全部死んだら、山も死ぬ」
カイラが歯を食いしばる。
反論はしない。できない。
それはたぶん、いちばん腹立たしい“正しさ”だった。
ゴルムが腕を組んだまま言う。
「橋はもう足りん。
落とせる場所も減った。
残ってる尾根も、あと一日粘ったら吹き下ろしで死ぬ」
ルダも続ける。
「飛べないのも増えた。羽をやったのも増えた。
生かして下ろすなら、今日だよ」
若羽の一人が震える声で言った。
「……下がるんですか」
フレイヤはその若い顔を見た。
怖いのだろう。
でもそれだけじゃない。悔しいのだ。ここまで削って、ここまで粘って、それでも下がるのかと。
その悔しさはよくわかる。
「下がる」
フレイヤは言った。
はっきりと。
「でも逃げるんじゃない。
役目を渡すんだ」
若羽が顔を上げる。
フレイヤは山の向こうを指した。
「丘の向こうじゃ、帝国軍が待ってる。
土塁もある。砲もある。兵站も引けた。
アタシらが買った十日が、向こうで牙になってる」
カイラが低く言う。
「帝国が本当に勝てるって?」
「勝てるかどうかは、あいつらの仕事だよ」
フレイヤは答えた。
「でも、勝つ算段を作るまではやった。
山で削り、平野で折る。
その前半は、もう果たした」
洞の中が静かになる。
誰もその言葉を軽く受け取れない。
果たした。
その言い方をするには、失ったものが多すぎるからだ。
それでも、言わなきゃならない。
フレイヤは一人ずつ見た。
「全滅するまで戦うのは、猟師の死に方じゃない」
低い声だった。
「獲物を追いすぎて崖から落ちるのは、ただの馬鹿だ。
アタシらは猟師だよ。
生きて戻って、次に備える。
それが仕事だ」
カイラの目が揺れた。
リュカの名はもう出なかった。
でも、その揺れの中にちゃんといた。
「……腹は立つ」
カイラが言った。
「知ってる」
「全然、足りない」
「知ってる」
「まだ殺りたい」
「だろうね」
フレイヤは息を吐いた。
「アタシもだよ」
そこで初めて、カイラの顔が少しだけ崩れた。
怒りでもなく、泣きでもなく、ただ耐えている顔だ。
「だから、生きろ」
フレイヤは言う。
「地べた這いつくばっても、生き延びな。
平野のあとで、また山へ戻るために」
それが決定打だった。
カイラは目を閉じ、何も言わずに頷いた。
納得したわけじゃない。
でも飲み込んだ。猟兵として。
フレイヤは全員へ向き直る。
「今日で山の中の猟は終わりだ。
全員まとめて下りる」
そこで一拍置いた。
「でも、その前に悪い道だけ残していくよ」
若羽たちの目が上がる。
ゴルムの口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
「道を全部殺すな。
通れると思わせろ。
その代わり、通ったら腹が減る道だけ残しな」
ゴルムが低く笑う。
「全部崩すだけなら誰でもできる。
面倒なのは、崩れそうで崩れない道を残すことだ」
ニクスが影から言う。
「昼は通れる。
夜は死ぬ尾根を一つ残す」
バルトも短く続けた。
「兵は歩ける。
荷は歩けん。
なら裂けるのは腹だ」
フレイヤは頷いた。
「兵は補充できる。
でも飯はすぐには湧かない。
山で裂くなら、最後まで腹のほうだ」
それが、この十日間の結論でもあった。
死体を積み上げたわけじゃない。
神聖国軍の胃袋を削り、足を遅らせ、丘の向こうに時間を渡した。
「荷は捨てる。
死体は拾えない」
フレイヤはそう言ってから、もう一度全員を見た。
「でも、遺品だけは持て。
名前まで山に置いてくるな」
その言葉は、洞の空気を別の重さで沈めた。
若羽のひとりが無言で頷く。
別のひとりは、自分の腰の小袋を握った。
ルダは目を伏せる。
カイラだけが、少しだけ遅れて、自分の帯へ手をやった。
そこには、もうリュカの革手袋が挟んであった。鐘番の時にいつも使っていた、小さな擦り切れた手袋だ。
フレイヤはそれを見て、何も言わなかった。
それでいい。
「使える高みは最後に一度だけ使う。
滑空路は一本だけ。
若いのから下ろす。
残りは歩く。
橋は最後に落とす。
鍵を閉めて出るよ」
全員が動いた。
それはもう、迷いのない動きだった。
ゴルムは最後の橋へ向かった。
全部落とすのではない。荷駄が通れば死ぬが、人だけならまだ抜けられる足場を残す。表面だけ固く見える泥もある。枝を渡したぬかるみもある。夜に迷いやすい尾根には、ニクスが印をひとつだけずらした。
悪い場所だけ残す。
それが最後の仕事だった。
若羽たちは、仲間の遺品を集めた。
折れた短弓。
名を刻んだ木札。
羽根用の櫛。
手入れ布。
山刀の鞘。
誰かの、小さな護符。
体は拾えなくても、名前までは置いていかない。
それがせめてもの礼だった。
フレイヤは焼けた尾根をひとつ越えたところで、若羽が小さな布包みを大事そうに抱えているのを見た。
「誰のだい」
「……鐘尾根の、アルクです」
若羽が言う。
「見つかったのは、これだけで」
布の中には、矢筒に括りつけていた木の護符が入っていた。子どもの字みたいな刻みがある。
「持っていきな」
それだけ言うと、若羽は深く頷いた。
そのとき、下から伝令が駆け上がってきた。
帝国の伝令兵だ。息を切らし、汗を飛ばしながら、それでも姿勢だけは崩れていない。
「辺境伯閣下より!」
フレイヤは振り向いた。
「日鴉族猟兵隊を全員、山から撤収させよ!
十分な打撃は与えた! 十分な情報は得られた!
敵は丘陵へ流れつつあり、会戦の準備は整う!」
静かな風が、洞の前を抜けた。
やはり来た。
そして、それでいい。
フレイヤは頷いた。
「了解したよ」
それだけで十分だった。
命令は背を押すためのものではない。
自分の判断が間違っていなかったと確認するためにあることもある。
「聞いたね!」
フレイヤは声を張った。
「全員、下りるよ!
山の中での猟は今日限りでおしまいだ!」
若羽たちが動く。
誰も泣かない。
誰も笑わない。
ただ、最後の手順を身体でなぞる。
崖縁へ。
風を読む。
弱い。だが一本だけ、まだ使える流れがある。
若羽が先に飛び出す。
子どもを背負う者ではない。軽い者からだ。
谷風をどうにか掴み、対岸の低い尾根へ滑る。昨日までほど高くは持ち上がらない。けれど届く。
次。
また次。
残りは歩いて下る。
もう山は、全員を風で運んではくれない。
ゴルムが最後の橋へ斧を入れる。
ニクスが一番最後の観測から消える。
バルトが若羽をひとり押し出し、自分はまだ残る。
フレイヤは最後尾だった。
いつも通りだ。
最後に出るやつが、全部を見届ける。
白外套が遠くで動いている。
こちらが消えるのを、たぶんまだ完全には掴めていない。
それでいい。
フレイヤは山刀の柄に手を置いたまま、最後に一度だけ山へ向かって頭を下げた。
祈りじゃない。
礼でもない。
ただ、長く庭だった場所への別れの仕草だ。
焼けた尾根の向こうには、まだ半壊の橋がある。
ぬかるみを隠した細道がある。
夜に迷う尾根がある。
谷へ落ちた荷駄の残骸も、そのまま残した。
もうこの山は、日鴉族を運ぶ風をくれない。
その代わり、神聖国の胃袋を噛む悪路だけは、まだ残してくれる。
「削るだけ削った」
低く言う。
「あとは任せた」
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。
山か。
辺境伯か。
丘の向こうの帝国軍か。
死んだ者たちか。
それでも、言っておきたかった。
そしてフレイヤは、踵を返した。
最後の崖縁へ出る。
弱くなった風を読む。
左腕は重い。右の視界の端では、まだ金の残像がちらついている。
昨日の山ではない。
でも、まだ完全には死んでいない。
それでも立てる。
歩ける。
なら最後尾は、アタシだ。
身を投げる。
一瞬だけ、体が沈む。
それでも羽をひらき、残った風を掴む。
低い。
短い。
それでも届く。
対岸の尾根に足がついたとき、背後でゴルムの橋が落ちる音がした。
木と縄と岩が、最後の悲鳴をあげる。
庭の鍵が、そこで閉まった。




