Spent Mountain.
九日目の朝、最初におかしかったのは風だった。
フレイヤは崖縁に立つ前に、いつものように草の穂先を指で弾いた。
軽い種がひとつ、谷へ落ちる。
落ちる。
そのまま、落ちた。
持ち上がらない。
「……感じ悪いね」
独り言みたいに漏らすと、すぐ後ろでゴルムが答えた。
「山にも愛想ってもんがあるならな」
振り向けば、斧を肩に担いだまま、岩肌を見上げている。
あの男は風を見る時も、先に地面を見る。
「崖面が削れてる」
ゴルムが言った。
「昨日まで角になってたとこが、丸く死んでる。
木もない。根もない。熱が抜けすぎる」
フレイヤはもう一度、谷を見る。
昨日までなら、この時間帯のこの尾根は、谷の冷えがほどけ始めて、崖際に細い上昇が立つ。強くはないが、若羽ひとりが身を投げるには足りる風だ。背負い荷が軽ければ、対岸の岩棚まで運んでくれる。
今日は違った。
谷へ吸われる。
持ち上がる前に、下へ引かれる。
焼かれた山は、景色だけじゃなく、風まで変えていた。
「歳食った山は、朝が弱いんだろ」
少し離れたところで若羽がぼやいた。
「お前の滑りが鈍いだけじゃないのか」
別の若羽が返す。
「うるさい。今日は山の機嫌が悪い」
「毎回それ言ってないか」
「毎回それで済んでたんだよ」
そのやり取りに、フレイヤは少しだけ口元を緩めた。
怖いのだ。
だから喋る。
黙ってしまうと、本当に怖くなるから。
ニクスがいつの間にか左の木陰にいた。
「上だけじゃない」
低い声だった。
「東の細道も変わった。
吹き下ろしが早い。
若いのが二人、昨日の感覚で出て沈みかけた」
「怪我は」
「ない。枝が拾った」
ニクスはそこで一拍置く。
「次はわからん」
フレイヤは小さく息を吐いた。
笑って流せるのは、まだ死んでいないからだ。
だが、死んでいないのと、安全なのは違う。
「今日の風、ほんと腐ってるね」
カイラが後ろから言った。
顔色は悪い。眠れていない顔だ。翼の端もまだ少し乱れている。だが、口は動く。
「風のせいだけかい」
フレイヤが返す。
「半分は神聖国のせい」
「残り半分は?」
「アタシの機嫌」
「そりゃ最悪だ」
ゴルムが真顔で言う。
若羽がひとり吹き出した。
カイラは睨んだが、それ以上は何も言わなかった。
いつもの掛け合いの温度だけが、まだ残っている。
それで十分だった。
「試すよ」
フレイヤが言うと、若羽のひとりが渋い顔をした。
「またですか」
「まただよ。死ぬよりましだ」
「最近その基準ばっかりですね」
「山の日はいつもこんなもんさ」
そう言いながら、フレイヤ自身が、今日の山はもう“いつも”ではないことを誰よりよく知っていた。
若羽がひとり、崖縁に立つ。
軽い。荷もない。羽もまだ傷んでいない。いまの猟兵隊の中では、かなり条件のいいほうだ。
「行くよ」
「行きな」
若羽は一度だけ息を吸って、前へ出た。
身を投げる。
羽がひらく。
昨日までなら、そこから対岸へ向かって細く持ち上がるはずだった。
今日は、沈んだ。
「うわっ」
高度が足りない。
持ち上がる前に谷へ引かれ、若羽は慌てて羽角を変える。どうにか枝に足を引っかけ、半分落ちるみたいな格好で戻ってくる。
息を切らしながら岩へ這い上がると、カイラが腕を組んで見下ろした。
「どうだったい、名手」
「最悪です」
「死んでないなら上等だね」
「基準が低すぎません?」
「今日はそこが合格点だよ」
フレイヤは言った。
若羽は膝に手をついたまま、ぜえぜえ息をしている。
「昨日なら届いてました」
「昨日は昨日だ」
ニクスが淡々と言う。
「今日は違う」
「わかってますよ……っ」
わかっている。
でも身体が昨日の山を覚えている。
それがいちばん危ない。
フレイヤは崖縁から一歩下がった。
高い場所があるだけでは足りない。
高い場所に、昨日と同じ風が残っていないと意味がない。
それを、向こうはわかってやっている。
谷向こうを見れば、今日も白外套が散っていた。
前にも。
脇にも。
尾根の折れ目にも。
浄化師団がまた、山へ網をかけている。もはや遭遇戦ではない。たまたま見つけて神聖魔法を撃ったのでもない。散っている全部隊が、同じ思想で“日鴉族の使う山”を消しに来ている。
「今日もお行儀よく並んでるね」
フレイヤが言うと、バルトが鼻を鳴らした。
「整ってるぶん、気味が悪い」
「わかるよ」
フレイヤは焼けた尾根、崩れた岩棚、吹き下ろす風、散った白外套、その全部を見回した。
そして、ようやく言葉にした。
「奴ら、この山を真っ平らにしてでも通る気だ」
誰もすぐには返さなかった。
返せる言葉ではなかった。
神聖国は山に慣れていない。
だから削れる。
そう思っていた。
だが今の浄化師団は、山に慣れることを諦めている。
慣れないなら、山のほうを壊す。
日鴉族が日鴉族でいられる地形そのものを消してでも、通る。
それはもう、山岳戦の作法じゃない。
山そのものへの敵意だった。
ゴルムが棒で地面に線を引く。
「尾根が丸くなってる。
角が死ぬと風も死ぬ。
木が飛ぶと抜け方も変わる。
今朝の沈みは偶然じゃねえ」
「偶然であってほしかったね」
フレイヤが言う。
「それはアタシもそう思う」
カイラが唇を歪める。
「じゃあどうする。
山に文句言っても機嫌直さないだろ」
「文句言う相手は山じゃないよ」
「神聖国?」
「そっちもだね。
でもまずは、自分たちの頭だ」
フレイヤは全員を見回した。
「昨日の山で滑るな。
昨日の風で踏み切るな。
生きてる尾根だけ選ぶ」
若羽がぼそっと言う。
「その生きてる尾根が減ってるんですけど」
「減ってるね」
「全然いい返しじゃないですよ、それ」
「いい返しじゃなくて事実だよ」
思わず何人かが笑った。
短い、掠れた笑いだった。
でも笑えたなら、まだ動ける。
「やることは変わるかい」
ゴルムが聞く。
「変わる」
フレイヤは即答した。
「高みを主戦場にしない。
滑るための位置じゃなく、歩いて抜けられる尾根を優先する。
橋と補給を噛んで、長く張らない」
「弱気だね」
カイラが言う。
「現実的って言いな」
「気に食わない」
「気に食わなくても、沈むもんは沈む」
カイラは舌打ちした。
でも反論はしない。
今日の風の悪さは、あの女にもわかっている。
「どこ残す」
バルトが聞く。
「南の細尾根と、東の荷道。
そこだけ生かす。
他はもう使わない」
ニクスが言う。
「伝令線は」
「短くする。
返ってこない鐘を待たない。
今日は“いる”場所だけ繋げる」
それはつまり、山を畳み始めるということだった。
まだ全面撤退ではない。
だが、全部を守る段階は終わった。
午前の戦いは短かった。
南の細尾根で、補給の継ぎ目を一度だけ噛む。
弓兵がこちらを追う。
浄化師団が祈りを合わせる。
フレイヤはその前に全員を引かせた。岩陰が吹き飛び、尾根が抉られ、後ろの若羽が青い顔でそれを見ていた。
「いまの、危なかったって言っていいですか」
「言っていいよ」
「すっごい危なかったです」
「生きてるから大丈夫だね」
「その基準ほんと嫌です」
カイラが横から言う。
「でも間違ってない」
昼には東の荷道へ移る。
今度は歩きで近づき、橋を落とし、駄獣を二頭谷へ落とした。成果はある。けれど以前ほど深追いできない。高みへ戻る道が、もう昨日の顔ではないからだ。
午後、とうとう若羽が一人、滑り出しで沈んだ。
高みから対岸へ渡る、短い距離。
昨日までなら誰でも抜けられた場所だ。
今日の風は、その背を押さなかった。
若羽の体が沈む。
枝に肩を打ち、片羽を岩へ擦り、どうにか下の斜面へ転がり込む。
死んではいない。
だが、立ち上がるのに時間がかかった。
「おーい、生きてるかい」
カイラが叫ぶ。
「最悪だけど生きてます!」
「元気あるね」
「文句言えるんで、たぶん大丈夫です!」
「いい返事だ!」
その軽口の直後に、白外套が動いた。
ニクスの矢が一本。
バルトが一人斬る。
カイラがほとんど滑り込むようにして若羽を引っ張り上げる。
戻ってきた若羽は、顔から血の気が引いていた。
「すみません……昨日は……」
「昨日は昨日だ」
フレイヤは言った。
「今日は今日。
昨日の風で滑るな」
それが、この日いちばん重い命令だった。
夕方、猟兵隊は一度、洞のある斜面へ戻った。
火は焚かない。
煙が出る。
もう煙すら贅沢だ。
若羽たちは黙って水を飲み、羽根の傷を見せ合い、ゴルムは削れた橋脚の感触をまだ指先で確かめていた。ニクスはもう次の尾根を見ている。バルトはいつも通り無口だった。
カイラだけが、少し離れたところで岩に背を預けていた。
「言っとくけど」
不意に、カイラが言った。
「アタシ、下がれって言われたらまだ腹立つよ」
「知ってる」
フレイヤは答えた。
「でも」
カイラは顔を上げた。
「今日の風は、もっと腹立つ」
それは、少しだけ救いのある言葉だった。
怒りの向きが、やっと現実に戻ってきている。
弟の死だけじゃない。
神聖国だけじゃない。
今は山そのものが変わってしまったことへ、ちゃんと怒れている。
「腹立つね」
フレイヤも言った。
「庭を荒らされるってのは、そういうことだ」
「半分どころじゃないかも」
「まだ半分さ」
フレイヤは低く返す。
「全部じゃない。
全部じゃないなら、まだ使える」
でもその“まだ”は、長くはない。
それもわかっていた。
山を削られ、風を変えられ、若羽の滑空が運任せになり始めた。ここから先は、粘るたびに猟兵隊そのものが痩せる。向こうの兵站を噛む代わりに、こちらの羽根も減る。
だから撤退は必要だ。
必要だが、今日ではない。
フレイヤは洞の入口から外を見た。
遠くに、白い残光が見える。
あの祈りは、明日も来るだろう。
「今日は下がる日じゃない」
誰にともなく言う。
「でも、明日はわからない」
誰も返事をしなかった。
皆、それが本音だとわかっているからだ。
フレイヤは膝を立てて座り込んだ。
山の匂いが薄くなった。
焦げた木の匂いと、むき出しの岩の冷たさばかりが残っている。
山を使い切る。
その言葉の意味が、ようやく骨に落ちてきた気がした。
使い切るというのは、最後まで住み潰すことじゃない。
使えるうちに使い、死ぬ前に手放すことだ。
「庭は半分焼けた」
フレイヤは小さく言った。
「でも、鍵を閉めるのはまだ先だ」
その夜、猟兵隊は短く眠った。
十日目の朝に、何を切ることになるか。
まだ誰も、言葉にはしなかった。




