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農家の異世界奮闘記 外伝~日鴉戦記~  作者: 今無ヅイ


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11/13

Spent Mountain.

 九日目の朝、最初におかしかったのは風だった。


 フレイヤは崖縁に立つ前に、いつものように草の穂先を指で弾いた。

 軽い種がひとつ、谷へ落ちる。


 落ちる。

 そのまま、落ちた。


 持ち上がらない。


「……感じ悪いね」


 独り言みたいに漏らすと、すぐ後ろでゴルムが答えた。


「山にも愛想ってもんがあるならな」


 振り向けば、斧を肩に担いだまま、岩肌を見上げている。

 あの男は風を見る時も、先に地面を見る。


「崖面が削れてる」


 ゴルムが言った。


「昨日まで角になってたとこが、丸く死んでる。

 木もない。根もない。熱が抜けすぎる」


 フレイヤはもう一度、谷を見る。


 昨日までなら、この時間帯のこの尾根は、谷の冷えがほどけ始めて、崖際に細い上昇が立つ。強くはないが、若羽ひとりが身を投げるには足りる風だ。背負い荷が軽ければ、対岸の岩棚まで運んでくれる。


 今日は違った。


 谷へ吸われる。

 持ち上がる前に、下へ引かれる。


 焼かれた山は、景色だけじゃなく、風まで変えていた。


「歳食った山は、朝が弱いんだろ」


 少し離れたところで若羽がぼやいた。


「お前の滑りが鈍いだけじゃないのか」


 別の若羽が返す。


「うるさい。今日は山の機嫌が悪い」


「毎回それ言ってないか」


「毎回それで済んでたんだよ」


 そのやり取りに、フレイヤは少しだけ口元を緩めた。


 怖いのだ。

 だから喋る。

 黙ってしまうと、本当に怖くなるから。


 ニクスがいつの間にか左の木陰にいた。


「上だけじゃない」


 低い声だった。


「東の細道も変わった。

 吹き下ろしが早い。

 若いのが二人、昨日の感覚で出て沈みかけた」


「怪我は」


「ない。枝が拾った」


 ニクスはそこで一拍置く。


「次はわからん」


 フレイヤは小さく息を吐いた。


 笑って流せるのは、まだ死んでいないからだ。

 だが、死んでいないのと、安全なのは違う。


「今日の風、ほんと腐ってるね」


 カイラが後ろから言った。


 顔色は悪い。眠れていない顔だ。翼の端もまだ少し乱れている。だが、口は動く。


「風のせいだけかい」


 フレイヤが返す。


「半分は神聖国のせい」


「残り半分は?」


「アタシの機嫌」


「そりゃ最悪だ」


 ゴルムが真顔で言う。


 若羽がひとり吹き出した。

 カイラは睨んだが、それ以上は何も言わなかった。


 いつもの掛け合いの温度だけが、まだ残っている。

 それで十分だった。


「試すよ」


 フレイヤが言うと、若羽のひとりが渋い顔をした。


「またですか」


「まただよ。死ぬよりましだ」


「最近その基準ばっかりですね」


「山の日はいつもこんなもんさ」


 そう言いながら、フレイヤ自身が、今日の山はもう“いつも”ではないことを誰よりよく知っていた。


 若羽がひとり、崖縁に立つ。


 軽い。荷もない。羽もまだ傷んでいない。いまの猟兵隊の中では、かなり条件のいいほうだ。


「行くよ」


「行きな」


 若羽は一度だけ息を吸って、前へ出た。


 身を投げる。

 羽がひらく。

 昨日までなら、そこから対岸へ向かって細く持ち上がるはずだった。


 今日は、沈んだ。


「うわっ」


 高度が足りない。

 持ち上がる前に谷へ引かれ、若羽は慌てて羽角を変える。どうにか枝に足を引っかけ、半分落ちるみたいな格好で戻ってくる。


 息を切らしながら岩へ這い上がると、カイラが腕を組んで見下ろした。


「どうだったい、名手」


「最悪です」


「死んでないなら上等だね」


「基準が低すぎません?」


「今日はそこが合格点だよ」


 フレイヤは言った。


 若羽は膝に手をついたまま、ぜえぜえ息をしている。


「昨日なら届いてました」


「昨日は昨日だ」


 ニクスが淡々と言う。


「今日は違う」


「わかってますよ……っ」


 わかっている。

 でも身体が昨日の山を覚えている。

 それがいちばん危ない。


 フレイヤは崖縁から一歩下がった。


 高い場所があるだけでは足りない。

 高い場所に、昨日と同じ風が残っていないと意味がない。


 それを、向こうはわかってやっている。


 谷向こうを見れば、今日も白外套が散っていた。


 前にも。

 脇にも。

 尾根の折れ目にも。


 浄化師団がまた、山へ網をかけている。もはや遭遇戦ではない。たまたま見つけて神聖魔法を撃ったのでもない。散っている全部隊が、同じ思想で“日鴉族の使う山”を消しに来ている。


「今日もお行儀よく並んでるね」


 フレイヤが言うと、バルトが鼻を鳴らした。


「整ってるぶん、気味が悪い」


「わかるよ」


 フレイヤは焼けた尾根、崩れた岩棚、吹き下ろす風、散った白外套、その全部を見回した。


 そして、ようやく言葉にした。


「奴ら、この山を真っ平らにしてでも通る気だ」


 誰もすぐには返さなかった。


 返せる言葉ではなかった。


 神聖国は山に慣れていない。

 だから削れる。

 そう思っていた。


 だが今の浄化師団は、山に慣れることを諦めている。

 慣れないなら、山のほうを壊す。

 日鴉族が日鴉族でいられる地形そのものを消してでも、通る。


 それはもう、山岳戦の作法じゃない。

 山そのものへの敵意だった。


 ゴルムが棒で地面に線を引く。


「尾根が丸くなってる。

 角が死ぬと風も死ぬ。

 木が飛ぶと抜け方も変わる。

 今朝の沈みは偶然じゃねえ」


「偶然であってほしかったね」


 フレイヤが言う。


「それはアタシもそう思う」


 カイラが唇を歪める。


「じゃあどうする。

 山に文句言っても機嫌直さないだろ」


「文句言う相手は山じゃないよ」


「神聖国?」


「そっちもだね。

 でもまずは、自分たちの頭だ」


 フレイヤは全員を見回した。


「昨日の山で滑るな。

 昨日の風で踏み切るな。

 生きてる尾根だけ選ぶ」


 若羽がぼそっと言う。


「その生きてる尾根が減ってるんですけど」


「減ってるね」


「全然いい返しじゃないですよ、それ」


「いい返しじゃなくて事実だよ」


 思わず何人かが笑った。


 短い、掠れた笑いだった。

 でも笑えたなら、まだ動ける。


「やることは変わるかい」


 ゴルムが聞く。


「変わる」


 フレイヤは即答した。


「高みを主戦場にしない。

 滑るための位置じゃなく、歩いて抜けられる尾根を優先する。

 橋と補給を噛んで、長く張らない」


「弱気だね」


 カイラが言う。


「現実的って言いな」


「気に食わない」


「気に食わなくても、沈むもんは沈む」


 カイラは舌打ちした。

 でも反論はしない。


 今日の風の悪さは、あの女にもわかっている。


「どこ残す」


 バルトが聞く。


「南の細尾根と、東の荷道。

 そこだけ生かす。

 他はもう使わない」


 ニクスが言う。


「伝令線は」


「短くする。

 返ってこない鐘を待たない。

 今日は“いる”場所だけ繋げる」


 それはつまり、山を畳み始めるということだった。


 まだ全面撤退ではない。

 だが、全部を守る段階は終わった。


 午前の戦いは短かった。


 南の細尾根で、補給の継ぎ目を一度だけ噛む。

 弓兵がこちらを追う。

 浄化師団が祈りを合わせる。

 フレイヤはその前に全員を引かせた。岩陰が吹き飛び、尾根が抉られ、後ろの若羽が青い顔でそれを見ていた。


「いまの、危なかったって言っていいですか」


「言っていいよ」


「すっごい危なかったです」


「生きてるから大丈夫だね」


「その基準ほんと嫌です」


 カイラが横から言う。


「でも間違ってない」


 昼には東の荷道へ移る。


 今度は歩きで近づき、橋を落とし、駄獣を二頭谷へ落とした。成果はある。けれど以前ほど深追いできない。高みへ戻る道が、もう昨日の顔ではないからだ。


 午後、とうとう若羽が一人、滑り出しで沈んだ。


 高みから対岸へ渡る、短い距離。

 昨日までなら誰でも抜けられた場所だ。


 今日の風は、その背を押さなかった。


 若羽の体が沈む。

 枝に肩を打ち、片羽を岩へ擦り、どうにか下の斜面へ転がり込む。


 死んではいない。

 だが、立ち上がるのに時間がかかった。


「おーい、生きてるかい」


 カイラが叫ぶ。


「最悪だけど生きてます!」


「元気あるね」


「文句言えるんで、たぶん大丈夫です!」


「いい返事だ!」


 その軽口の直後に、白外套が動いた。


 ニクスの矢が一本。

 バルトが一人斬る。

 カイラがほとんど滑り込むようにして若羽を引っ張り上げる。


 戻ってきた若羽は、顔から血の気が引いていた。


「すみません……昨日は……」


「昨日は昨日だ」


 フレイヤは言った。


「今日は今日。

 昨日の風で滑るな」


 それが、この日いちばん重い命令だった。


 夕方、猟兵隊は一度、洞のある斜面へ戻った。


 火は焚かない。

 煙が出る。

 もう煙すら贅沢だ。


 若羽たちは黙って水を飲み、羽根の傷を見せ合い、ゴルムは削れた橋脚の感触をまだ指先で確かめていた。ニクスはもう次の尾根を見ている。バルトはいつも通り無口だった。


 カイラだけが、少し離れたところで岩に背を預けていた。


「言っとくけど」


 不意に、カイラが言った。


「アタシ、下がれって言われたらまだ腹立つよ」


「知ってる」


 フレイヤは答えた。


「でも」


 カイラは顔を上げた。


「今日の風は、もっと腹立つ」


 それは、少しだけ救いのある言葉だった。


 怒りの向きが、やっと現実に戻ってきている。

 弟の死だけじゃない。

 神聖国だけじゃない。

 今は山そのものが変わってしまったことへ、ちゃんと怒れている。


「腹立つね」


 フレイヤも言った。


「庭を荒らされるってのは、そういうことだ」


「半分どころじゃないかも」


「まだ半分さ」


 フレイヤは低く返す。


「全部じゃない。

 全部じゃないなら、まだ使える」


 でもその“まだ”は、長くはない。


 それもわかっていた。


 山を削られ、風を変えられ、若羽の滑空が運任せになり始めた。ここから先は、粘るたびに猟兵隊そのものが痩せる。向こうの兵站を噛む代わりに、こちらの羽根も減る。


 だから撤退は必要だ。

 必要だが、今日ではない。


 フレイヤは洞の入口から外を見た。


 遠くに、白い残光が見える。

 あの祈りは、明日も来るだろう。


「今日は下がる日じゃない」


 誰にともなく言う。


「でも、明日はわからない」


 誰も返事をしなかった。


 皆、それが本音だとわかっているからだ。


 フレイヤは膝を立てて座り込んだ。

 山の匂いが薄くなった。

 焦げた木の匂いと、むき出しの岩の冷たさばかりが残っている。


 山を使い切る。


 その言葉の意味が、ようやく骨に落ちてきた気がした。


 使い切るというのは、最後まで住み潰すことじゃない。

 使えるうちに使い、死ぬ前に手放すことだ。


「庭は半分焼けた」


 フレイヤは小さく言った。


「でも、鍵を閉めるのはまだ先だ」


 その夜、猟兵隊は短く眠った。


 十日目の朝に、何を切ることになるか。

 まだ誰も、言葉にはしなかった。

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