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農家の異世界奮闘記 外伝~日鴉戦記~  作者: 今無ヅイ


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10/13

A Day More.

 七日目の朝、山は最初から嫌な顔をしていた。


 風が悪いわけじゃない。

 霧が濃いわけでもない。

 鳥が騒ぐわけでもない。


 ただ、静かすぎた。


 フレイヤは稜線の上で膝をつき、いつもより低く尾根の向こうを見ていた。高みに長居するな。崖縁をそのまま使うな。弓を見た前日から、猟兵隊の立ち位置は半歩ぶん低くなっている。


 なのに、胸の奥のざわつきが消えない。


「ニクス」


 呼ぶと、すぐ右後ろで枝が鳴った。


 気配が遅い。相変わらず気味の悪い男だ。灰色の羽が朝靄に溶けて、そこだけ人の形をしているみたいに見える。


「見えたかい」


「ああ」


「何が違う」


 ニクスはすぐには答えなかった。


 顎をしゃくって、谷の向こうを示す。


「散ってる」


 フレイヤは目を細めた。


 白外套がいる。

 それも一列ではない。前にも、脇にも、後ろにも。まるで大きな部隊が進んでいるというより、山の中へ細かく網を投げているみたいだった。


 長槍の列はまだある。

 補給もある。

 弓兵も見える。


 だが、前日までと違うのはその置き方だった。


「……嫌な並びだね」


 バルトが低く言う。


 いつの間にか左後ろに来ている。地上での足が強い男は、こういう時も位置がぶれない。


 フレイヤは頷いた。


「嫌だね。

 あれ、道を通るための並びじゃない」


「こっちを見るための並びだ」


 バルトの言葉に、フレイヤは小さく舌打ちした。


 そう。

 向こうはもう、ただ山を進む気じゃない。

 日鴉族が使う高み、影、岩棚、尾根の折れ目、その全部に視線を置く気だ。


 カイラが少し離れた岩棚から滑るように寄ってきた。


「今日も補給列か」


「違うね」


 フレイヤは言った。


「今日は“こっち”だよ」


 カイラの眉がわずかに動く。


 それで十分だった。

 あの顔をする時のカイラは、怒りより先に理解している。


 ニクスが短く続ける。


「前にも。脇にも。後ろにも。

 浄化師団が散ってる」


「先導かい」


「いや」


 ニクスの声は乾いていた。


「撃つ気だ」


 尾根の上を、風がひとつ走った。


 若羽たちの顔が変わる。

 昨日までは「弓が来る」だった。今日は違う。浄化師団が散っている。しかも散り方が明らかにおかしい。


 遭遇して一部隊が祈りを撃ってくるのではない。

 最初から、山全体へ同じことをするつもりで置かれている。


「……なりふり構わなくなってきたね」


 フレイヤは吐き捨てるように言った。


「向こうも、山を歩くのが面倒になったんだろうさ」


 ゴルムが後ろから現れた。すでに別の尾根筋を見ていたらしい。斧の柄に泥がついている。


「道を読むより、道ごと消すほうが早いって気づいた顔だ」


「気づくなって話だよ」


「気づいたもんはしょうがねえ」


 それでも、まだやることはある。


「全員、今日は位置を一段落とす」


 フレイヤは低く言った。


「高みに長居するな。

 見えた時点で負けだと思え。

 弓だけじゃない。今日は場所ごと殺しに来る」


 若羽の一人が、喉を鳴らしてから聞いた。


「撃たれたら、どうするんです」


「どうもしない」


 フレイヤは即答した。


「撃たれる前に消える。

 それが無理なら、その尾根はもう死んだと思いな」


 それは厳しい言い方だった。

 でも、嘘よりましだ。


 日鴉族は飛べない。

 高いところから、風を使って遠くへ滑るだけだ。

 だから位置は変えられる。

 けれど、位置そのものが死んだら話は別だ。


 弓は位置を噛む。

 祈りの爆ぜ方は、場所ごと殺す。


 その違いを、今日がはっきり教えてくる。


 最初の一撃は、あまりにもあっけなかった。


 遠くの尾根で、若羽が一本、神聖国の伝令へ矢を入れた。

 いつもの嫌がらせだ。殺しきらなくていい。転ばせれば、列は遅れる。


 次の瞬間、谷向こうの白外套たちが一斉に立ち止まった。


 祈るように手を組む。

 いや、祈りそのものだった。


 金色の光が走る。


「伏せろ!」


 フレイヤが叫ぶのと、尾根の一角が光に呑まれるのは、ほとんど同時だった。


 光が先に来た。

 次に空気が殴ってきた。


 爆ぜた。


 火が燃え広がるのではない。

 金色の閃きが一瞬だけ尾根を舐め、その直後、木組みも岩棚もまとめて内側から叩き割る。乾いた破裂音。遅れて来る衝撃。裂けた木片。砕けた石礫。立っていた場所そのものが、雑に吹き飛ばされる。


 若羽が二人、尾根の向こうへ吹き飛ばされた。

 ひとりはどうにか枝を掴んだ。

 もうひとりは落ちかけて、別の若羽に腕を取られる。


「引け!」


 バルトが低く怒鳴る。


 そのときにはもう、別方向でも金が走っていた。


 前。

 脇。

 後ろ。


 散っていた白外套が、それぞれ別の高みへ祈りを撃ち込んでいる。


 網だ。


 フレイヤは歯を食いしばった。


 偶発じゃない。

 一部隊がたまたま撃ってきたんじゃない。

 向こう全体が、日鴉族対策としてこれを共有している。


 日鴉族が立つ場所。

 身を伏せる影。

 滑り出しに使う岩棚。

 それを片端から“使えなくする”つもりだ。


「フレイヤ!」


 カイラの声。

 振り向くと、右の岩棚の一角が金の光で抉られていた。そこにいた若羽が、肩から血を流している。羽根の先が裂け、片側の外縁が焦げていた。


「羽を貫かれた!」


「歩けるか!」


「まだ!」


「なら下がれ! ルダのとこへ回せ!」


 叫んだ瞬間、今度は左の高みで岩が割れた。

 岩棚ごと消えた。


 そこにいた影が見えなくなる。


 ほんの数拍前まで、たしかに人がいた場所だった。


「……一人、見えない」


 ニクスの声が、珍しく少し遅れた。


 フレイヤはその言葉を胸の奥へ押し込んだ。

 今は数えるな。今は切るな。今ここで止まれば、もっと死ぬ。


「尾根を変える!」


 フレイヤは怒鳴った。


「この線は死んだ! 二段下がれ! 高みは一本捨てる!」


 若羽たちが動く。

 怖がっている。だが、崩れてはいない。


 それが救いだった。


 カイラが岩陰から戻ってくる。頬に煤がつき、目が剥き出しになっていた。


「ふざけんなよ……」


 それは怒声というより、吐き出しだった。


「高いとこ全部死ぬじゃん」


「全部じゃない」


 フレイヤは即座に返した。


「死ぬ高みと、生きる高みがある。

 向こうだって無限に撃てるわけじゃない」


「でもあれ、前にも後ろにもいる!」


「だから位置じゃなく、間合いで噛むしかない」


 ゴルムがすでに棒で地面へ線を引いていた。


「ここは死んだ。ここも。

 でも谷ひとつ挟んだ裏はまだ見えてない。

 尾根を真正面から取るな。裏を噛め」


 フレイヤはその線を見た。


 遠回りになる。

 時間も食う。

 だが、生きてる導線だった。


「よし。

 今日は正面の高みを諦める。

 裏尾根から回り込んで、撃つ前に祈りの集まりを崩す」


 ニクスが頷く。


「白外套の固まりを見つける」


「見つけたら先に噛む。

 弓兵より先に、祈りを裂く」


 そこで、遠くから悲鳴が上がった。


 贖罪兵団だった。


 白外套の後ろ、補助みたいに押し出されていた罪人兵が、さっきの範囲攻撃の余波に巻き込まれて倒れている。手足を焼かれ、呻いている。だが浄化師団は、そちらを振り返りもしない。


 助けない。

 止めも刺さない。

 ただ跨いで前へ出る。


 フレイヤはそれを見て、顔を歪めた。


「あいつら……」


 カイラが低く言う。


「自分とこの兵だろ」


「兵じゃないんだろうさ」


 フレイヤの声は冷えていた。


「あいつらにとって罪人は、荷駄か車輪と同じだよ。壊れたら踏み越えるだけだ」


 異常だった。


 山に不慣れなのはわかる。

 対策してくるのもわかる。

 けれど、ここまでなりふり構わず、味方の損耗すら計算に入れて高みを焼きにくるのは、もう正気の範囲を少し越えている。


 それでも。


 それでもまだ、今日は下がる日じゃない。


 フレイヤは息を吐いた。


「聞きな」


 若羽も、カイラも、ゴルムも、バルトも見る。


「向こうはなりふり構ってない。

 だから強い。

 でも、そのぶん荷も祈りも食う。

 一発ごとに、向こうの腹も減る」


 バルトが短く頷く。


「兵站が痩せる」


「そうだよ。

 今、丘の向こうじゃ帝国の連中が土を盛ってる。

 溝を掘ってる。砲を据えてる。

 今日の半日、一日が、向こうの牙を増やす」


 若羽の一人が、血のついた羽を押さえながら聞いた。


「……じゃあ、まだ」


「まだ下がる日じゃない」


 フレイヤは言い切った。


「下がる日を、一日先へ押す日だ」


 その一言で、空気が決まった。


 撤退を否定するんじゃない。

 撤退の価値を知ってるからこそ、今日はまだ切らない。


 次の半日は、もっと苦しかった。


 高みへ出るたびに、白外套が散っている。

 祈りの構えが見える。

 見つけて、先に崩す。

 崩しきれない場所は捨てる。

 一本の尾根を捨て、半分の岩棚を諦め、そのかわり生きてる導線だけを使って敵の前進へ噛みつく。


 削る。

 逃げる。

 また削る。


 山全体が、小さな歯になったみたいだった。


 その日の終わりには、羽根を貫かれた者が三人。

 落下しかけた者が二人。

 岩棚ごと抉られた一角では、一人がまだ見つかっていなかった。


 被害は明らかに増えていた。


 でも神聖国側も、進みきれてはいない。


 荷は遅れた。

 祈りの隊列も崩した。

 前へ出るたびに、こちらがいると思わせ続けた。


 夕方、ようやく引き上げた時、若羽たちは皆ひどい顔をしていた。


 疲労だけじゃない。

 理解した顔だ。


 山はまだこちらのものだ。

 だが、昨日までと同じ顔では使えない。


 カイラが岩へ腰を下ろして、空を見た。


「こんなの、あと何日やるんだろうね」


 軽く言ったつもりだったのかもしれない。

 でも声は軽くなかった。


 フレイヤは少し考えてから答えた。


「必要なだけだよ」


「雑だねえ」


「細かく言っても、明日には変わるさ」


 ニクスが背後の木にもたれたまま言う。


「明日も散る」


「だろうね」


 ゴルムが斧を肩へ担ぐ。


「じゃあ明日も、死ぬ尾根を増やす」


 バルトが短く言った。


「そのぶん生きる尾根も選べ」


「そうする」


 フレイヤは立ち上がる。


 山の向こうでは、まだ白い灯りが小さく見えていた。浄化師団の祈りの残光だろう。嫌な色だった。あれは火じゃない。山の輪郭を“正しく消す”ための光だ。


 だが、全部は消せない。


 まだ鐘が返る尾根がある。

 まだ生きてる道がある。

 まだ買える時間がある。


「行くよ」


 フレイヤは言った。


「今日はここまで。

 明日はもっと深く噛む」


 若羽たちが頷く。

 その頷きは、前回よりずっと重かった。


 それでよかった。


 軽いまま山に立つには、もう神聖国の祈りは重すぎた。

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