A Day More.
七日目の朝、山は最初から嫌な顔をしていた。
風が悪いわけじゃない。
霧が濃いわけでもない。
鳥が騒ぐわけでもない。
ただ、静かすぎた。
フレイヤは稜線の上で膝をつき、いつもより低く尾根の向こうを見ていた。高みに長居するな。崖縁をそのまま使うな。弓を見た前日から、猟兵隊の立ち位置は半歩ぶん低くなっている。
なのに、胸の奥のざわつきが消えない。
「ニクス」
呼ぶと、すぐ右後ろで枝が鳴った。
気配が遅い。相変わらず気味の悪い男だ。灰色の羽が朝靄に溶けて、そこだけ人の形をしているみたいに見える。
「見えたかい」
「ああ」
「何が違う」
ニクスはすぐには答えなかった。
顎をしゃくって、谷の向こうを示す。
「散ってる」
フレイヤは目を細めた。
白外套がいる。
それも一列ではない。前にも、脇にも、後ろにも。まるで大きな部隊が進んでいるというより、山の中へ細かく網を投げているみたいだった。
長槍の列はまだある。
補給もある。
弓兵も見える。
だが、前日までと違うのはその置き方だった。
「……嫌な並びだね」
バルトが低く言う。
いつの間にか左後ろに来ている。地上での足が強い男は、こういう時も位置がぶれない。
フレイヤは頷いた。
「嫌だね。
あれ、道を通るための並びじゃない」
「こっちを見るための並びだ」
バルトの言葉に、フレイヤは小さく舌打ちした。
そう。
向こうはもう、ただ山を進む気じゃない。
日鴉族が使う高み、影、岩棚、尾根の折れ目、その全部に視線を置く気だ。
カイラが少し離れた岩棚から滑るように寄ってきた。
「今日も補給列か」
「違うね」
フレイヤは言った。
「今日は“こっち”だよ」
カイラの眉がわずかに動く。
それで十分だった。
あの顔をする時のカイラは、怒りより先に理解している。
ニクスが短く続ける。
「前にも。脇にも。後ろにも。
浄化師団が散ってる」
「先導かい」
「いや」
ニクスの声は乾いていた。
「撃つ気だ」
尾根の上を、風がひとつ走った。
若羽たちの顔が変わる。
昨日までは「弓が来る」だった。今日は違う。浄化師団が散っている。しかも散り方が明らかにおかしい。
遭遇して一部隊が祈りを撃ってくるのではない。
最初から、山全体へ同じことをするつもりで置かれている。
「……なりふり構わなくなってきたね」
フレイヤは吐き捨てるように言った。
「向こうも、山を歩くのが面倒になったんだろうさ」
ゴルムが後ろから現れた。すでに別の尾根筋を見ていたらしい。斧の柄に泥がついている。
「道を読むより、道ごと消すほうが早いって気づいた顔だ」
「気づくなって話だよ」
「気づいたもんはしょうがねえ」
それでも、まだやることはある。
「全員、今日は位置を一段落とす」
フレイヤは低く言った。
「高みに長居するな。
見えた時点で負けだと思え。
弓だけじゃない。今日は場所ごと殺しに来る」
若羽の一人が、喉を鳴らしてから聞いた。
「撃たれたら、どうするんです」
「どうもしない」
フレイヤは即答した。
「撃たれる前に消える。
それが無理なら、その尾根はもう死んだと思いな」
それは厳しい言い方だった。
でも、嘘よりましだ。
日鴉族は飛べない。
高いところから、風を使って遠くへ滑るだけだ。
だから位置は変えられる。
けれど、位置そのものが死んだら話は別だ。
弓は位置を噛む。
祈りの爆ぜ方は、場所ごと殺す。
その違いを、今日がはっきり教えてくる。
最初の一撃は、あまりにもあっけなかった。
遠くの尾根で、若羽が一本、神聖国の伝令へ矢を入れた。
いつもの嫌がらせだ。殺しきらなくていい。転ばせれば、列は遅れる。
次の瞬間、谷向こうの白外套たちが一斉に立ち止まった。
祈るように手を組む。
いや、祈りそのものだった。
金色の光が走る。
「伏せろ!」
フレイヤが叫ぶのと、尾根の一角が光に呑まれるのは、ほとんど同時だった。
光が先に来た。
次に空気が殴ってきた。
爆ぜた。
火が燃え広がるのではない。
金色の閃きが一瞬だけ尾根を舐め、その直後、木組みも岩棚もまとめて内側から叩き割る。乾いた破裂音。遅れて来る衝撃。裂けた木片。砕けた石礫。立っていた場所そのものが、雑に吹き飛ばされる。
若羽が二人、尾根の向こうへ吹き飛ばされた。
ひとりはどうにか枝を掴んだ。
もうひとりは落ちかけて、別の若羽に腕を取られる。
「引け!」
バルトが低く怒鳴る。
そのときにはもう、別方向でも金が走っていた。
前。
脇。
後ろ。
散っていた白外套が、それぞれ別の高みへ祈りを撃ち込んでいる。
網だ。
フレイヤは歯を食いしばった。
偶発じゃない。
一部隊がたまたま撃ってきたんじゃない。
向こう全体が、日鴉族対策としてこれを共有している。
日鴉族が立つ場所。
身を伏せる影。
滑り出しに使う岩棚。
それを片端から“使えなくする”つもりだ。
「フレイヤ!」
カイラの声。
振り向くと、右の岩棚の一角が金の光で抉られていた。そこにいた若羽が、肩から血を流している。羽根の先が裂け、片側の外縁が焦げていた。
「羽を貫かれた!」
「歩けるか!」
「まだ!」
「なら下がれ! ルダのとこへ回せ!」
叫んだ瞬間、今度は左の高みで岩が割れた。
岩棚ごと消えた。
そこにいた影が見えなくなる。
ほんの数拍前まで、たしかに人がいた場所だった。
「……一人、見えない」
ニクスの声が、珍しく少し遅れた。
フレイヤはその言葉を胸の奥へ押し込んだ。
今は数えるな。今は切るな。今ここで止まれば、もっと死ぬ。
「尾根を変える!」
フレイヤは怒鳴った。
「この線は死んだ! 二段下がれ! 高みは一本捨てる!」
若羽たちが動く。
怖がっている。だが、崩れてはいない。
それが救いだった。
カイラが岩陰から戻ってくる。頬に煤がつき、目が剥き出しになっていた。
「ふざけんなよ……」
それは怒声というより、吐き出しだった。
「高いとこ全部死ぬじゃん」
「全部じゃない」
フレイヤは即座に返した。
「死ぬ高みと、生きる高みがある。
向こうだって無限に撃てるわけじゃない」
「でもあれ、前にも後ろにもいる!」
「だから位置じゃなく、間合いで噛むしかない」
ゴルムがすでに棒で地面へ線を引いていた。
「ここは死んだ。ここも。
でも谷ひとつ挟んだ裏はまだ見えてない。
尾根を真正面から取るな。裏を噛め」
フレイヤはその線を見た。
遠回りになる。
時間も食う。
だが、生きてる導線だった。
「よし。
今日は正面の高みを諦める。
裏尾根から回り込んで、撃つ前に祈りの集まりを崩す」
ニクスが頷く。
「白外套の固まりを見つける」
「見つけたら先に噛む。
弓兵より先に、祈りを裂く」
そこで、遠くから悲鳴が上がった。
贖罪兵団だった。
白外套の後ろ、補助みたいに押し出されていた罪人兵が、さっきの範囲攻撃の余波に巻き込まれて倒れている。手足を焼かれ、呻いている。だが浄化師団は、そちらを振り返りもしない。
助けない。
止めも刺さない。
ただ跨いで前へ出る。
フレイヤはそれを見て、顔を歪めた。
「あいつら……」
カイラが低く言う。
「自分とこの兵だろ」
「兵じゃないんだろうさ」
フレイヤの声は冷えていた。
「あいつらにとって罪人は、荷駄か車輪と同じだよ。壊れたら踏み越えるだけだ」
異常だった。
山に不慣れなのはわかる。
対策してくるのもわかる。
けれど、ここまでなりふり構わず、味方の損耗すら計算に入れて高みを焼きにくるのは、もう正気の範囲を少し越えている。
それでも。
それでもまだ、今日は下がる日じゃない。
フレイヤは息を吐いた。
「聞きな」
若羽も、カイラも、ゴルムも、バルトも見る。
「向こうはなりふり構ってない。
だから強い。
でも、そのぶん荷も祈りも食う。
一発ごとに、向こうの腹も減る」
バルトが短く頷く。
「兵站が痩せる」
「そうだよ。
今、丘の向こうじゃ帝国の連中が土を盛ってる。
溝を掘ってる。砲を据えてる。
今日の半日、一日が、向こうの牙を増やす」
若羽の一人が、血のついた羽を押さえながら聞いた。
「……じゃあ、まだ」
「まだ下がる日じゃない」
フレイヤは言い切った。
「下がる日を、一日先へ押す日だ」
その一言で、空気が決まった。
撤退を否定するんじゃない。
撤退の価値を知ってるからこそ、今日はまだ切らない。
次の半日は、もっと苦しかった。
高みへ出るたびに、白外套が散っている。
祈りの構えが見える。
見つけて、先に崩す。
崩しきれない場所は捨てる。
一本の尾根を捨て、半分の岩棚を諦め、そのかわり生きてる導線だけを使って敵の前進へ噛みつく。
削る。
逃げる。
また削る。
山全体が、小さな歯になったみたいだった。
その日の終わりには、羽根を貫かれた者が三人。
落下しかけた者が二人。
岩棚ごと抉られた一角では、一人がまだ見つかっていなかった。
被害は明らかに増えていた。
でも神聖国側も、進みきれてはいない。
荷は遅れた。
祈りの隊列も崩した。
前へ出るたびに、こちらがいると思わせ続けた。
夕方、ようやく引き上げた時、若羽たちは皆ひどい顔をしていた。
疲労だけじゃない。
理解した顔だ。
山はまだこちらのものだ。
だが、昨日までと同じ顔では使えない。
カイラが岩へ腰を下ろして、空を見た。
「こんなの、あと何日やるんだろうね」
軽く言ったつもりだったのかもしれない。
でも声は軽くなかった。
フレイヤは少し考えてから答えた。
「必要なだけだよ」
「雑だねえ」
「細かく言っても、明日には変わるさ」
ニクスが背後の木にもたれたまま言う。
「明日も散る」
「だろうね」
ゴルムが斧を肩へ担ぐ。
「じゃあ明日も、死ぬ尾根を増やす」
バルトが短く言った。
「そのぶん生きる尾根も選べ」
「そうする」
フレイヤは立ち上がる。
山の向こうでは、まだ白い灯りが小さく見えていた。浄化師団の祈りの残光だろう。嫌な色だった。あれは火じゃない。山の輪郭を“正しく消す”ための光だ。
だが、全部は消せない。
まだ鐘が返る尾根がある。
まだ生きてる道がある。
まだ買える時間がある。
「行くよ」
フレイヤは言った。
「今日はここまで。
明日はもっと深く噛む」
若羽たちが頷く。
その頷きは、前回よりずっと重かった。
それでよかった。
軽いまま山に立つには、もう神聖国の祈りは重すぎた。




